2、修練
春の息吹が感じられる季節、ベアトリクスは王宮のとある門をくぐった。
まだ朝晩は冷え込むが、日中は、特に今日のように穏やかな日差しが降り注ぐ日は厚手のコートを着て歩くと少々汗ばむほどだ。
「はーい、どーぞ―」
ベアトリクスは脱いだコートを片腕にかけ、玄関の扉のノッカーを叩くと元気な声が聞こえた。
その声に少々驚きながらゆっくりとドアを開ける。
ここは王宮の西の果ての離宮。そう、ユリアーネが追いやられたあの離宮だ。今日この時間にここを訪ねるようにアルベルトから知らせが来たのだ。
アルベルトから差し向けられた馬車に乗り、初めて西の通用門の前で降りた。そして通用門を通り離宮の前に立ったのだ。
彼の国の魔術の専門家という方はどんな方なのだろう? あまり気難しい方でないと良いのだけれど。言葉は通じるのだろうか? 期待や不安や色々な思いがごっちゃになって胸を押さえながらノッカーを叩いたのだった。
ドアの前に立っていたのは健康的に日に焼けた溌溂とした女性だった。
年の頃は、ベアトリクスよりは十歳ぐらい上だろうか、商店の元気なおかみさんと言った雰囲気の女性だ。
「あなたがベアトリクスさん? あらごめんなさい、ベアトリクス様?」
「はい、ベアトリクス・エア・ファラーと申します」
丁寧にスカートをつまんでお辞儀をするベアトリクスに女性はあっはっはと笑いかけた。
「そんなにご丁寧にあいさつしてくれて嬉しいわ。あたしはアリアンナ・ベルターニよ。さあ、入って入って、丁度アップルパイが焼けたところよ」
女性に手を引かれてエントランスを突っ切りベアトリクスは戸惑いながら応接間に入る。アリアンナと名乗った彼女はベアトリクスをソファーに座らせると部屋を出ていき、すぐにワゴンを押して現れた。
ベアトリクスの前にアップルパイと紅茶を出すと、対面にストンと座る。
「どうぞ、アリー特製アップルパイよ」
片目を瞑って茶目っ気たっぷりに言うと彼女は自らもアップルパイにフォークを入れた。
「うーん、美味しい! この国のリンゴも酸味が効いててなかなかいいわ」
ベアトリクスは正面の女性を見つめ、失礼にならないように気を配りながら室内を見回した。
ここに来て会ったのは目の前の女性一人。廊下を通る間も他の人は誰一人いなかった。専門家の先生はどこにいるのだろう?
「あの、魔術の専門家の先生はいつ見えられるのでしょうか?」
ベアトリクスが訊ねるとアリアンナはまたあっはっはと笑った。
「専門家とか先生とか、そんな御大層なものではないけどね、土の魔導士はあたしよ」
ベアトリクスはびっくりした。彼の国から遥々来てくれた魔導士が女性とは思わなかったのだ。
「申し訳ありません。先生に失礼な事を申し上げてしまいました」
ベアトリクスが立ち上がって深々と頭を下げるとアリアンナは手を振って答えた。
「いいのいいの、そんなに畏まらないで頂戴。さあ、アップルパイを召し上がって? お口に合うかしら」
アップルパイは甘酸っぱくてとてもおいしかった。
今ベアトリクスは応接間のソファーにアリアンナと隣同士に座っている。
アップルパイを食べ終わった後にアリアンナが席を移したのだ。
「ベアトリクス嬢は身体の中の魔力を感じられるかしら」
「いえ、私は魔力と言うものがどんなものかわかりません、ベルターニ先生、私は本当に魔力を持っているのでしょうか」
「ええ、あると思うわ。それにしても……硬いわね」
硬い? アリアンナの言葉の意味がわからずベアトリクスは戸惑った。
「ねえ、私の事はアリーと呼んでくれる? 敬語も無しよ」
「とんでもございませんわ、私はこれから魔術を教えていただく身です。先生を呼び捨てなど出来ません」
アリアンナはふうとため息をついた。
「アルから聞いているかしら? あたしは平民なのよ。お貴族様にこんな言葉使いで話していることこそ不敬だわ。でもこれがあたしなの、ごめんなさいね」
アルとはアルベルト殿下の事だろうか? 今日会う魔導士についてはアルベルトからは「俺の学生時代からの友人だ。気さくな奴だから気軽に学ぶといい」と言われただけだ。だからベアトリクスはアルベルトと同年代の男性をぼんやりと想像していたのだった。
「ベルターニ先生はそのままで構いませんわ。それでも私は教えていただく方を呼び捨てになど……」
「敬語苦手なのよ。聞き取るのも話すのも。文法がおかしくなっちゃうの。あたしの言葉使い変じゃない?」
アリアンナは流暢にこの国の言葉を話している。ベアトリクスは片言なら彼の国の言葉をしゃべれるがこんなに流暢に会話する事は出来なかった。
ベアトリクスが「お上手ですわ」と答えるとアリアンナは「ありがとう」と笑って、「それにね」と続けた。
「うーん、ベアトリクス様は……いいえベアトリクス……トリー……貴方の事はトリーって呼んでいいかしら?」
「は、はい、構いませんわ」
そう答えながらベアトリクスはドキドキしていた。愛称で呼ばれることなど今まで生きてきた中で一度もなかったのだ。完璧淑女のベアトリクスだった。ああ、そう言えば亡くなった婚約者が言っていた。彼の家はベアトリクスよりだいぶ爵位が低かったから『ベアトリクス様』と呼んでいたけれど、結婚をしたら彼だけの愛称でベアトリクスの事を呼びたいと。『どんなのがいいかな』ととても楽しそうに考えていた。呼んでもらえる機会は永久に失われてしまったけれど。
「ではトリー、あたしは貴方と友達になりたい。それに、硬くならないで楽しんで魔術を学んでちょうだい。その方が上達も早いのよ」
そう言いながらアリアンナはベアトリクスの手を取った。
「今からあたしがトリーに魔力を流すわ。同じ土の魔力だから苦痛は無いと思うの。でも違和感はあるわ。その違和感に耐えてその魔力が身体をどう巡るか感じて欲しいの。そうすれば自分の魔力にも気付けると思うわ」
「はい、ベルターニ先生」
「アリーよ」
「はい、アリー」
ベアトリクスが答えるとアリアンナが呪文を呟き、何かがベアトリクスの中に入ってきた。
(気持ち悪い)
一言で言うとそんな感覚だ。異物が身体中を駆け巡っている。そんな感覚に耐えながらその異物に意識を集中すると
「あ……」
「そう、わかったかしら? それがあなたの魔力。それを私の魔力と一緒に身体の外に押し出すのよ、掌に意識を集中してね」
アリアンナの指示に従って掌から身体を巡っている何かを押し出すようにする。
「きゃ!」
アリアンナが握っていた手を離した。
「あ、せんせ……アリー、ごめんなさい、何かしてしまったのかしら?」
ベアトリクスが急いで謝るとアリアンナは何でもないと笑った。
「違うわ、トリーは上手に出来たわよ。ただ流れてきた魔力が多かったからちょっとびっくりしちゃったの。トリーは魔力が多いのねえ」
「私の……魔力」
初めて実感できた自分の魔力。なぜかそれが愛おしくて自分を抱きしめたくなったベアトリクスだった。
「さあ、それでは外へ出ましょうか」
急に立ち上がったアリアンナに驚いてベアトリクスが首をかしげるとアリアンナはまた笑った。
「土の魔力は土があってこそでしょ。外に出て色々と試してみましょう」
「調子はどうだ?」
俯いてしゃがみこんでいるベアトリクスの前に影が差した。
まだ呪文を覚えていないベアトリクスは直接土に触れて魔力を流し込む訓練をしていたのだ。魔力を流し込むとポコッと持ち上がったりうねうねと動く土が面白くてつい夢中になってしまっていた。
「アルベルト殿下」
「あら、アルじゃない。王子様のお仕事は終わったの?」
ベアトリクスは急いで立ち上がって礼を取るが、アリアンナの気安い態度に驚いた。しかもアルベルトも別にそれを気にした風もなく普通に話をしている。
「あのな、王子様って歳じゃないだろ。仕事が一段落したから様子を見に来たんだ」
「順調よ、トリーは呑み込みが早いわ。性格も生真面目で素直だし、とっても楽しみだわ」
「おいおい、あんまり暴走するなよ。ベアトリクス嬢の負担にならないように頼むな」
「大丈夫よ、これまでの失敗は肝に銘じて……ってちょっと、トリーが不安になるようなこと言わないでよね」
「ははっ、言っているのはお前だろ、それよりトリーって何だ? お前、もう愛称で呼び合う仲になったのか」
呆れたようなアルベルトに「ふふーん、羨ましいでしょ」とアリアンナは胸を反らした。
ベアトリクスはアルベルトとアリアンナのその掛け合いが羨ましかった。
アルベルトはアリアンナに随分心を許しているようだ。アルベルトのそんな姿は初めて見るベアトリクスだった。
「休憩してお茶を入れましょ、さっきのアップルパイがまだ残っているわ」
アリアンナはそう言うとさっさと屋敷に向かった。
「じゃあ、ご相伴に預かろう。ベアトリクス嬢、行こうか」
アルベルトはベアトリクスに手を差し出した。
その手を取ろうとして土で汚れた自らの手にベアトリクスは真っ赤になった。
アリアンナとの訓練は順調だった。
最初は週に二回、午後の二時間程度で始められた魔術訓練は日に日に長くなり、今では週四回、午前中から夕刻までベアトリクスはアリアンナと過ごしている。
アリアンナは西の離宮に一人で住んでいる。
最初アルベルトは本宮にアリアンナの部屋を用意したそうだが、それはアリアンナに拒否された。そして西の離宮の存在を知ったアリアンナがここに住みたいと言ったそうだ。
「本当はここでも立派過ぎて気後れしちゃうんだけどねえ、本宮? あんな肩が凝るところはごめんだわ」
そう言ってアリアンナはまたあっはっはと笑った。
ここがダメなら王都郊外にでも家を借りようと思っていたそうである。それは警備上からもアルベルトに却下されたと言っていた。
アリアンナは彼の国では平民であるとはいえアルベルトが招いた魔導士で賓客なのだ。
土の魔術を行使するには周囲に土がなければならない。手つかずの荒野や野原、森、雑木林などが訓練に最適だそうだ。それにはここ、西の離宮の環境は打ってつけだった。
王宮の中にこの雑木林が存在している訳は元々は王家や三大公爵家の訓練場所だったのかもしれない。
辺境のヴァルツァー家を除いて、今では王家や三大公爵家が魔術を行使する機会はあまりない。実践的な魔術はかなり廃れてしまったようだ。アルベルトは彼の国で魔術を学んだおかげで、かなり色々な炎の魔術を使える。それも騎士団長を辞した今では使う機会が無いらしいが。
「土の魔術はね、本来はこういう目的に使うのよ」
アリアンナは西の離宮のすぐ裏手に野菜畑を作っていた。
土地を耕したり養分をいきわたらせて土地の滋養を高めたり、水路の為の溝を掘ったり。
アリアンナの呪文で土が盛り上がり、水路を作る。土が波打って畝が出来る。触ってみると土はふかふかだ。
「こういうことも出来るけどね」
アリアンナが呪文を唱えると土が盛り上がって人型になった。
「ゴーレムというの」
そのゴーレムはアリアンナの呪文に合わせて奇妙な踊りを踊ったのでベアトリクスは思わず吹き出してしまった。
丁度アルベルトがやって来てアルベルトも一緒になって吹き出した。
アリアンナは専属のメイドも断って離宮に一人で住んでいる。
「それでもここは広いから週に三回はメイドさんたちがお掃除に来てくれるし、足りない食材は毎日届けてくれるし、至れり尽くせりよ」
アリアンナは簡単な掃除も洗濯も料理も一人でこなしてしまう。
「平民には当たり前の事よ」とアリアンナは笑うが、ベアトリクスは驚きの連続だった。
ベアトリクスは現在は孤児院に身を寄せているが、ファラー家からメイドが一人ついて来てくれた。孤児院でも食事の支度などはしたことがない。掃除も洗濯も。公爵家に居た時より簡素な服を自分で着れるようになり、子供たちに読み書きを教えたり来客にお茶を入れたりするだけで何でもできるような気になっていたのだと思い知らされた。
午前中から通うようになったベアトリクスにアリアンナは昼食を振舞ってくれる。休憩時のお茶菓子も。それらは全てアリアンナの手作りで、アリアンナはベアトリクスにも遠慮なく手伝わせた。
もちろん料理などをしたこともないベアトリクスが怪我をしないようにアリアンナは気を使っていたのだが、一緒にキャラキャラと笑いながら昼食やお菓子を作ることは楽しく、食事を作る行程がこんなに大変なのだという事もベアトリクスは初めて知ったのだった。
アルベルトは毎日のように訪ねてくる。
毎日といってもベアトリクスが行ってない日は分からないが、ベアトリクスがアリアンナの元に通っている日は大抵午後のお茶の時間に顔を出し、一緒に歓談し、ベアトリクスの訓練を眺めてから夕刻にベアトリクスを孤児院まで送ってくれる。
アルベルトとアリアンナの掛け合いはいつも可笑しかった。
今まで大人で落ち着いて何事にも動じなさそうに見えたアルベルトが、アリアンナと話していると偶に十代の青年のような反応を見せる。
焦ったり、照れたり、へこんだり、色々な表情を見せるアルベルトを見るのは楽しかった。
今までは——
最近はちょっと苦しい。
だから今日も送って行くと立ち上がったアルベルトにベアトリクスは言ってみた。
「今日からは一人で大丈夫ですわ」
「え? 俺は何かあなたに失礼な事をしてしまったのだろうか」
眉を下げたアルベルトにベアトリクスは急いで言った。
「いいえ、殿下にはとてもよくしていただいています。でもお忙しい殿下のお時間をこれ以上いただくのは申し訳ないのですわ。ここまで通うのも慣れてきましたのでそろそろ一人でも帰れると思いますの」
「いや、慣れてきたと言っても外はもうすぐ薄暗くなる。あなたを一人で帰すのは危険だ」
「でしたら辻馬車に乗るので大丈夫ですわ。アルベルト殿下はこちらでゆっくりなさった方がよろしいのでは?」
暗にアリアンナと一緒に過ごしたらどうだとベアトリクスは勧めてみたがそれを断ったのはアリアンナだった。
「アルに腰を据えられてもあたしが迷惑だわ。これから畑の水やりと夕食の支度があるのよ。トリーがアルを引き取ってちょうだい」
「お前、俺の扱い酷くないか? まあいい、それよりベアトリクス嬢、やっぱり送って行くよ。騎士団長を辞めてからなかなか街に行く機会もないからな、街の様子を見るのにちょうどいいんだ」
「……それでしたらお願いしますわ」
ベアトリクスは引くことにした。アルベルトに送ってもらうのが嬉しくないわけではないのだ。
馬車で送ってくれる時もあるが、一時間ほどの道のりを二人で歩く時もある。街並みやお店を眺めながら二人で歩くこの時間はほんわかしていて、でもちょっとじれったさもあって、何気ない日常であるのにちょっとしたきっかけで崩れ去ってしまう壊れ物のようで……ベアトリクスはふわふわと浮き立ちそうな心を押さえつけて歩くのだ。
この感覚には覚えがあった。そう、もう過ぎてしまった季節。婚約者と会って何回目か、彼の真っ直ぐな心に惹かれ始めたあの時。
もうそんな心は失ってしまったと思っていたのに。
だからベアトリクスは慎重になった。この気持ちはこれ以上育ててはいけないとわかっていたから。




