4、王子と対面したユリアーネ
王宮の長い廊下を両親と一緒に歩きながらユリアーネはキョロキョロしたい衝動を必死に抑えていた。
これから王族の方々と顔合わせをするのだ。好奇心を必死に抑えつけて前を歩く辺境伯夫妻の背中だけを見つめて歩いた。
王都は華やかな場所だった。ヴァルツァー辺境伯領の領都キルツベルグも大きな街だ。活気もある。だけど王都は更に華やかで何というか、洗練されていた。そしてその中心にドーンと聳える宮殿。と言っても街中から見えるのはいくつかある塔の先端部分だ。王都の大通りを中心に向かって進むとどこまでも続く高い塀が見えてくる。
ユリアーネの住んでいたヴァルツァー辺境伯の居城も高い塀に囲まれた広大な敷地の中にあった。だけどそれは隣国が攻めてきたり魔獣被害が多発したときに領民が避難する施設や騎士団、兵団の宿舎や訓練施設もあるからで、敷地内には畑もあれば家畜もいた。塀だって頑健な石造りで無骨な門には髭面の門番が槍を持って立っていた。
王都の中心にある王宮はヴァルツァー辺境伯の居城より更に敷地が広い。そして聳え立つ塀も綺麗に磨かれた石塀の上部は鋳鉄の柵になっている。その柵は植物を模した複雑な文様を描きとても美しかった。
馬車が三台は並んで通れるくらいの壮麗な門には赤と黒の軍服を着た見目麗しい衛兵。そして門から入った前庭は綺麗に剪定された樹木が立ち並び大きな池の真ん中には噴水、そして王国の始祖とされる五人の魔術師の像があった。
ユリアーネは馬車が王都に入った瞬間から窓から身を乗り出し、歓声を上げ、質問をし、王宮の門をくぐってもその興味は尽きることが無かった。そしてとうとう辺境伯夫人にお小言をくらってしまったのだ。王宮に着いた日は本宮の客間に通されそこで一泊したのだが夕食後、淑女の振る舞いというものについて辺境伯夫人に二時間も復習させられたユリアーネだった。
そして次の日、朝から磨かれたユリアーネは薄桃色のこれまで着たこともない可愛らしいドレスを着て従者の案内の元、王家の方々との顔合わせに向かっているのだ。
王宮はいくつかのエリアに分かれていて門の中にまた塀があり階級や職務によって入れる場所が決まっているようだった。ユリアーネたちは中門と奥門を通って奥宮という王族の居住地域に足を踏み入れていた。本宮や前庭も十分美しかったが、奥宮はそれにもまして壮麗で、柱にも壁にも複雑な模様の彫刻が施され、歴代の国王の肖像画や、高そうな陶器の壺などが飾られユリアーネは好奇心を押さえつけ必死に前を歩く両親の背中を見ながら静々と歩いていた。
(あ……)
煌びやかな甲冑と盾が飾られているのが目の端に映りそちらを向こうとした瞬間、前を歩く辺境伯夫人が「ユリアーネ」と小声で囁いた。
(うへっ、母様は背中に目がついているのかしら)
甲冑や盾をもっとよく見たい誘惑を振り切ってユリアーネは何事もなかったように歩を進めた。
凝った装飾が施された両開きの重厚な扉から室内に入ると広い部屋の大きな窓の近くに置かれているいくつかのソファーから数人が立ち上がるのが見えた。
歩を進め部屋の中ほどで前の両親が深々と礼をしたのでそれに習ってユリアーネも深くカーテシーをする。そのまま膝を曲げ腰を落とし頭を深く下げ待っていると近づいてくる足音と威厳のある声が聞こえた。
「ヴァルツァー辺境伯、夫人も令嬢も頭を上げてくれ。此度は公式な謁見ではない。余の孫とそなたの娘との顔合わせ、これから縁を結ぶもの同士の身内の会合だ。気楽な態度で接してもらいたい」
恐る恐るユリアーネが顔を上げると目の前に立っているのはやたら威厳のあるおじいさんだった。にこやかに微笑んでいるがその眼光は鋭く威圧感が半端ない。ほとんどが白髪の肩より長い髪を後ろで赤と金の房が付いた紐で結んでいるが鬢に残る髪の色は燃えるような赤だった。
「おお、そなたがユリアーネか、うむうむ、とても可愛らしい。それに見事な銀の髪じゃな」
おじいさんが目を細めると鋭い眼光が弱められ一気に柔和な顔つきになった。
両親の挨拶をまねてユリアーネも挨拶をする。
「ディートハルト・フェア・ヴァルツァーが娘、ユリアーネ・フェア・ヴァルツァーでございます。お初にお目にかかります」
えーと……王国の太陽であらせられますとかなんとか言わなくちゃいけないんだっけ? その辺を忘れてユリアーネは眉尻を下げた。
「うむ、聡明そうな娘じゃ、意志の強そうなその藍の瞳も気に入った。ユリアーネが我が孫となるのを楽しみにしておるぞ、ヴァルツァー」
「恐悦至極にございます」
父が頭を下げ、なんとか挨拶は及第点だったようでユリアーネはホッと胸を撫でおろした。そうして他の人を紹介される。
王太子殿下はくすんだ赤い髪のなんかパッとしない感じの人だった。顔は整っているのだが、ユリアーネから見ると全く鍛えていない弛んだ印象だ。辺境にはいないタイプである。王太子妃殿下は明るい栗色の髪の物凄く派手なドレスを着ている若い? 若作り? の綺麗な人だった。
「まあ! あなたがユリアーネちゃん? 私の可愛い可愛いテオのお嫁さん候補ね。テオはね、とおーっても可愛くて頭が良くて優雅なの。将来物凄く素敵な男性になるわ。あなたもまあまあ可愛いけど私ほどじゃないわね。だからテオに選ばれるように頑張ってね」
両手を握りしめてキャピッと可愛らしく言われてユリアーネは思考停止した。なんか背中がぞわぞわする。
「ソフィー、ユリアーネ嬢は候補じゃなくて立派な婚約者だよ」
王太子が訂正するとソフィー王太子妃はつんと口を尖らせた。
「だあってぇ、テオはこんなに素敵な上に将来王様になるのよ。これからもっともっと素敵なお嬢さんが出てくるかもしれないじゃない」
候補なら候補の方がいいな。それなら私は領地に帰ってもいいかなあ。
ユリアーネがそんなことを考えていると国王陛下が王太子夫妻を部屋から追い出した。王太子夫妻はなんかごにょごにょ言っていたが「顔合わせは済んだ、後の話にお前たちは不要だ」と追い出したのだ。
そうしてユリアーネの前に一人の少年が立った。
ユリアーネが挨拶をするとふん、と鼻息が聞こえた。
「顔を上げろ。テオドール・フラン・シュヴァルツだ。僕の妃に相応しくなるよう一生懸命励め」
「テンド……テオドール殿下、薔薇が綺麗ですわね」
二人で温室でも散歩して来なさいと日当たりのよいサロンを追い出されてユリアーネはテオドールと温室に向かって歩いていた。早春のこの時期はまだ少し肌寒くテオドールは既に戻りたそうな顔をしているが多少の寒さなどへっちゃらなユリアーネは外の開放的な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。温室に続く小道から見えた鮮やかな花が目に入ってユリアーネが令嬢っぽい感想を口にするとテオドールはまたふんと鼻を鳴らした。
「あれはラナンキュラスだ。薔薇はまだ時期が早い」
そんなことも知らないのかという目で見られユリアーネは拳を握った手をもう一つの手で押さえた。
少し襟足にかかるくらいの緩くウエーブした柔らかい赤毛、毛穴も見えないすべすべした白い肌に甘い整ったマスク。ヘーゼルの瞳はこれでもかというくらい盛られた長いまつげと切れ長の二重に縁どられ、既に数多の女性を虜にしているテオドールは絶世の美少年と言われていたがユリアーネの感想は違った。
(弱そう)
辺境の屈強な男どもの中で育ってきたユリアーネの男の基準は強いか弱いかだったのである。
(なによ、ニンジンの花やジャガイモの花なら知ってるわ)
気を取り直して温室へ足を勧めようとしたユリアーネの耳にざわめきが聞こえた。焦ったような叫び声が飛び交う。足を止め声のした方を振り向くと茂みがガサガサと揺れた。
ザザッという音と共に飛び出してきたのは歯をむき出し唸り声を上げた真っ黒な大型犬だった。
「「きゃあ!」」
付き従っていた侍女たちが悲鳴を上げ、少し離れた位置に居た護衛騎士が駆けつけてくるのが見えた。
しかしそれより早く大型犬はまっしぐらにユリアーネとテオドールに向かって走って来た。
「わ! わあーー!」
テオドールはユリアーネの陰に隠れ叫び声をあげる。ユリアーネは口の中で呪文を呟いた。
「ガアアーー!」
とびかかって来た大型犬をはっしと受け止める。そうして大型犬の首に手を回しグイッと目を覗き込んだ。
「グウウーー……キューン……」
ユリアーネに見つめられて大型犬は情けない声を上げる。尻尾を後ろ足に挟みこんで四肢から力が抜けた。
(うんうん、誰が強者かちゃんとわかったわね)
ユリアーネが抱えていた犬を下ろすと犬はその場で伏せのポーズをとった。
「あら? あなた怪我をしているわ」
犬の脇腹辺りに血が滲んでいるのが見えてユリアーネはそこへ手を伸ばす。
「な! 何をしているんだ!」
ユリアーネが後ろを振り向くと恐怖のあまり尻もちを突いたテオドールが護衛騎士に助け起こされていた。
「あら殿下、大丈夫ですか?」
ユリアーネが言葉を掛けるとテオドールは真っ赤になった。
「おい! お前たち! この犬を切れ!」
テオドールの言葉にユリアーネは仰天した。
「はあ? 本気なの?」
「当たり前だろう! 王子たる僕に襲い掛かったのだぞ! この犬の世話係は誰だ! そいつは即刻首だ」
その時茂みから一人の男がよろめきながら出てくると地べたに平伏した。
「お前が世話係か?」
「はい」
男は平伏したまま震えている。
「ご令嬢、お退きください」
護衛騎士がスラリと剣を抜いてユリアーネに近づいた。
「ダメよ!」
犬の首に抱きついてユリアーネが言うとテオドールはますます真っ赤になった。
「この僕に襲い掛かった犬だぞ!」
「私がちゃんと止めたわ、この子は怯えていただけよ。そもそもこんな可愛い犬を殺そうだなんてケツの穴の小さい男ね!」
テオドールは真っ赤を通り越して青くなった。しかし口調は顔色に反して穏やかになる。
「可愛い犬? お前にはこの犬が可愛く見えるのか。ははっ、母上の言ったとおりだ」
「王太子妃殿下が?」
「ああ、辺境育ちの娘などきっと野猿のように野蛮だと。いや野猿ではないな、ゴリラだ。ゴリラ令嬢だ」
「ゴリラ?」
ユリアーネはきょとんとした。ゴリラとは何かわからなかったのだ。野猿なら知っているが。
「ゴリラとはもっと南方の国の密林に生息する魔獣みたいな生き物だよ。お前みたいな」
思いっきり馬鹿にした顔でそう言うとテオドールは踵を返した。
「部屋に戻る」
「テオドール殿下、この犬と世話係の処分は?」
護衛騎士が聞くと「面倒くさい、好きにしろ」そう言い捨てて足早に歩いていく。
その場に残ったのはユリアーネと犬、平伏したままの世話係と護衛騎士の中の一人だ。
護衛騎士が困ったように見るのでユリアーネは言った。
「テオドール殿下が好きにしていいって言ったのだから私の好きにするわ。ねえ、お世話係さん」
ユリアーネが犬の頭を撫でながら話しかけると男は平伏したまま「はい」と答えた。
「この子怪我をしているわ、それで気が立っていたのね。どうしたの?」
「も、申し訳ありません……その、鎖を引きちぎってしまって……」
世話係の話によると王宮では曲者が侵入したり事件を起こした者を追跡するために大型犬を数頭飼っている。この犬は王宮に来てまだ日が浅く訓練を始めたばかりだった。今日の訓練を終え、犬舎に帰ろうとした時世話係は三人の貴族の子弟らしき若者に絡まれた。お貴族様に逆らってはいけないと世話係がじっと耐えているとこの犬が唸り声を上げたのだ。驚いた貴族の若者は剣を抜いて犬に切りかかった。大した腕ではないらしく犬が殺されることは無かったが、剣が脇腹をかすめ犬が飛びかかろうとすると若者たちは一目散に逃げて行った。世話係はそれを追おうとする犬を必死になって抑えたが、とうとう鎖を引きちぎり駆けて行ってしまったということだった。
「そうなの……それでも鎖を引きちぎった犬が簡単にここまで侵入できるのは問題ね。犬たちが逃げ出しても庭園に入り込まないように柵かなんか設けた方がいいと思うわ。メイドさんや散策しているご令嬢が襲われたら大変だもの。あなたの上司に相談してね」
「は、はい。それで……そのう……こいつと俺の処分は……」
世話係がおずおずと聞くとユリアーネはさあ?というように両手のひらを上に向けて肩をすくめた。
「うーん、早くこの子の手当てをしてあげて。痛いだろうに我慢しているとってもいい子よ」
「は、はい!」
世話係がぺこぺこと頭を下げて帰って行くとユリアーネはただ一人残った護衛騎士に笑いかけた。
「さあ、私も戻らなくっちゃ。道なんか全く覚えていないから案内してね」
(ああ、そう言えばテオドール殿下に敬語を使うのを忘れちゃってたわ。まあ今更ね、婚約は取り止めになるでしょうしもう会うこともないでしょ)
来た時のお上品な仕草と打って変わって鼻歌を歌いながらユリアーネはサロンに引き返した。
次話予告、『お茶会に出席するユリアーネ』です。