2、婚約したユリアーネ
話は五年前にさかのぼります。
ユリアーネの故郷、ヴァルツァー辺境伯領はシュヴァルツ王国の南東部、隣国ソリュージャ帝国との国境にある。大河ノイデルン川の恩恵を受けた肥沃な大地ではあるが、いやそれゆえ隣国から常に狙われる地であり、また領の北東部には大型の魔獣の生息する広大な森林がある。
魔獣の脅威から人々を守るため、そして隣国の防波堤としてヴァルツァー辺境伯は王家に準ずる権力を与えられ王国随一の屈強な兵団を持つことを許されていた。
その隣国、ソリュージャ帝国が攻め込んできたのはユリアーネが十歳の時。
国境に設けられていた砦からのろしが上がりいくつかの中継地を経て辺境伯一家の住むヴァルツァー城に一報が届くと城内がにわかに騒然となった。半鐘の音が響き渡る。窓から中継の砦ののろしを見たユリアーネは自らの剣を引っ掴んで階段を駆け下りた。
「父様! 隣国が攻めてきたのですか!?」
「おおユリアーネ! 勇ましいな」
既に前庭に集まりつつある辺境兵団を指揮していたヴァルツァー辺境伯は勇ましく走って来た愛娘を見て鋭い眼光を幾分和ませた。
「いつもの小競り合いではないのですか?」
隣国はしょっちゅうこの地にちょっかいを出してくる。小さい揉め事は日常茶飯事だ。しかし今回は様子が違っているようだ、それは前庭に続々と集まってくる兵士の数を見ても明らかだった。
「ああ、かなりの大群が攻めてきたらしい。国境の門が突破されるのも時間の問題だ。急ぎ迎え撃たねばならぬ」
「私も――」
ユリアーネがその言葉を言う前に父は彼女の肩をがっしと掴んだ。そのまま屈んでユリアーネと視線を合わせる。
「ユリアーネ、母と幼い弟を頼んだぞ」
辺境伯は十歳の娘に自らの妻と三歳になる息子を託したのだ。ユリアーネはヴァルツァー辺境伯家特有の魔力を持っていた。まだ拙いながらもその魔力量は豊富で八歳の頃から辺境伯は魔獣狩りに娘を同行させその訓練を行ってきたのだ。
「あなた……娘を何にするおつもりですか? こんなにお転婆ではユリアーネは嫁入り先が無くなってしまいますわ」
妻に苦言を呈されながらもメキメキと強くなっていくユリアーネの成長が嬉しく訓練を止められなかった辺境伯だった。
「フォルカーを置いていく。後の事は頼んだぞ」
フォルカーとラウレンツは辺境伯の両翼と呼ばれている人物だ。その片翼フォルカーと十歳の娘に後を託し辺境伯はもう片翼のラウレンツを筆頭とする辺境騎士団、辺境兵団を率いて勇ましく出陣していった。
後にわかった事だが隣国ソリュージャ帝国の大群を率いていたのは帝国の第一皇子、戦場の悪魔と呼ばれた人物である。隣国は二十年ほど前まではソリュージャ王国という名前だったが好戦的で強欲な当代の王が即位するやいなや隣国の更に北東にある三つの小国を攻め落とし属国として圧政を敷いて帝国となった。そして今回シュヴァルツ王国に攻め入った第一皇子はその皇帝をもしのぐ戦上手と言われている人物だった。その采配は苛烈にして冷酷無比。
ただ、その第一皇子はシュヴァルツ王国とは真逆に位置する国と戦争をしているという情報が入っていたためシュヴァルツ王国側では若干油断をしていたのも事実である。
突然の隣国の侵略だったがヴァルツァー辺境伯と彼の軍隊は隣国の軍勢を食い止めた。そうして一進一退を繰り返し一年半後、ヴァルツァー辺境伯自らがソリュージャ帝国の第一皇子を打ち取ったことで決着がついた。
その後皇太子だった第一皇子が死亡したことで隣国は熾烈な跡目争いが起き、五人いた皇子の内四人と皇帝が亡くなり一番皇帝の座に遠かった温和な第四皇子が玉座に座ることになるのだが、今の段階ではそれを予測している者は誰もいない。
「父様、母様、お帰りなさい!」
「とうさま、かあさま、おかえりなさい」
馬車から母をエスコートして下りてきたヴァルツァー辺境伯にユリアーネとその弟クリストフは声を掛けた。
掛けた時にはもう走り出していてそのまま父の懐に飛び込むと父はユリアーネを抱き上げグルグルと回してくれる。
隣ではクリストフが母にぎゅっと抱きついて頬ずりをしていた。父にぶんぶんと振り回してもらった後今度は母に抱きつくと隣ではクリストフが父に宙に放り投げてもらってキャッキャと笑い声をあげていた。
今回の戦でヴァルツァー辺境伯は多大なる功績を上げた。隣国の急襲に耐えこの国を守り敵の総大将を打ち取ったのだ。戦勝報告と祝賀会で王宮に呼ばれ辺境伯夫人と共に王都に一か月ほど滞在して帰ってきたのだった。
サロンに落ち着きお茶とお菓子を前に辺境伯は訊ねた。
「ユリアーネもクリストフも元気だったか? 戦が終わったばかりなのに留守にしてすまなかったな」
「はい父様。私もクリスもお城のみんなも元気です」
「ぼくもげんきです! だけどちょっとだけさみしかったの」
クリストフが口を尖らせて言うと、辺境伯夫人はクリストフを膝の上に抱き上げた。
「クリスったら! 夜は一緒に寝てあげたじゃない!」
「だってねえさまはかあさまみたいにおむねがないし」
姉弟の言い合いを聞いていた辺境伯はユリアーネに悪戯っぽい笑みを向ける。
「ユリアーネは俺の膝に乗るか?」
途端に真っ赤になってユリアーネは否定した。
「もう! 父様! 私はそんな歳じゃありません! もうすぐ十二歳になるんですもの!」
「そうか、ユリアーネはもう立派なレディなんだな」
ちょっと寂しそうにそう呟いた後、辺境伯は後ろに控えていたフォルカーに顔を向けた。辺境伯の両翼、フォルカーとラウレンツは静かに後ろで久しぶりの一家の団欒を見守っていた。
「領地の様子は?」
「避難していた領民たちの中で土地を荒らされなかった人たちは少しずつ元の村や町に帰り始めています。家や畑に被害があった領民たちは領都の集会所やこの城の避難所で生活をしています。被害の少なかった地域から徐々に復興に取り掛かっています。戦から戻って来た兵士たちが率先して復興の手助けをしてくれていますがまだまだ時間はかかるでしょうな」
戦争に勝ったとはいえ戦場になったのはこのヴァルツァー辺境伯領だ。住む家や畑、家族を失った人も沢山いるし王都からの増援兵はいたが被害が一番大きかったのはヴァルツァー辺境伯軍だ。この地の人々は王都の貴族のように勝った勝ったと浮かれてばかりはいられないのだった。
「それで復興費用や人材の派遣は?」
フォルカーの問いに辺境伯と同行したラウレンツは親指を立てたが辺境伯は煮え切らない返事をした。
「まあ復興に必要な金や人材などはたんまり出してくれる約束は取り付けてきたが……」
言葉を切ってユリアーネをじっと見つめる。
「あなた……」
クリストフを膝の上に抱き上げて一緒にお菓子を食べていた辺境伯夫人が心配そうに声を掛ける。
何かを言い出しづらそうな辺境伯は一つ首を振って明るい声を出した。
「ユリアーネもよく頑張ったな」
「え? 私は大したことはしてませんわ。避難してきた人たちのお世話やいろんなことは母様やフォルカーが全部やってくれましたし」
「でも魔獣討伐はユリアーネが頑張ってくれたと聞いているぞ」
魔獣は人間の都合なんて考えてくれない。人と人が争っていようといまいと出現するときは出現する。そして平時なら定期的に魔獣の森に足を踏み入れ人里を襲わないように討伐をする辺境伯を筆頭とした騎士団は戦争に赴いている。だからユリアーネは高齢の元騎士やユリアーネと同じ成人前の騎士予備軍を率いて魔獣討伐を行っていたのだ。
「鬼ユリ姫と呼ばれるほど頑張ったらしいな」
少し笑いを含んだ声で辺境伯に言われまたもユリアーネは真っ赤になった。
「父様! それを誰に――」
「ああ、ラウレンツが教えてくれた」
「——!」
ディルクめ! 今ここには居ないラウレンツの息子の顔を思い浮かべてユリアーネは心の目で睨みつけた。——後で絶対にしばく!!
ユリアーネより二つ年上のその少年はユリアーネの幼馴染で剣の好敵手で魔獣討伐では頼りになる副官を務めてくれた。それと同時に何かというとユリアーネをからかういじめっ子で『鬼ユリ』なんていう嫁の貰い手が無くなりそうな愛称で呼び始めたのもディルクが最初だ。もうすっかり領民には知れ渡っているが。
「だからユリアーネに訓練を施すのはほどほどにしてくださいと……はぁ――」
「はぁ――」
夫人がため息をつくと膝の上のクリストフも真似してため息をついた。
「だがなツェツィーリア、ユリアーネのおかげで我が領は魔獣の被害を出さなくて済んだ」
「ええそれは分かっていますわ。そしてこの子が領民の為ならどこまでも頑張ってしまう優しい子だということも。『鬼ユリ』なんて淑女らしくない仇名を付けられても――」
「かあさま、ねえさまの『おにゆり』かっこいいよ。ねえさまかっこいいってみんなゆってる。ぼくもねえさまみたいになるんだ!」
夫人の言葉を遮ってクリストフが抗議の声を上げた。夫人は微笑んでクリストフの頭を撫でてからちょっと萎れた様子のユリアーネに微笑みかけた。
「ええ、ユリアーネは強くて優しくて私の自慢の娘だわ。ここにずっといられるならそれで良かったのだけど」
「母様?」
首を傾げたユリアーネを見て辺境伯が急にあらたまった顔で咳払いをした。
「ゴホン! あー……ユリアーネ、お前に縁談がある」
「縁談? 縁談ってあの結婚のですか? 父様」
「そうだ。……お前は王太子殿下のご子息、テオドール殿下と婚約した」
婚約した? したって言った? もう決まっているの? テオドール殿下って誰?
混乱するユリアーネをじっと見つめて辺境伯が眉を下げた。
「戦勝報告会と恩賞を賜る場で陛下が宣言された『今回の働きに報いるために我が孫テオドールとヴァルツァー辺境伯の娘ユリアーネとの婚約を認める』と。俺は『ありがたき幸せ』としか言えなかった」
「……ユリアーネ」
膝の上のクリストフを下ろし辺境伯夫人がユリアーネの隣りに来て彼女を抱きしめた。
「あなたはこの地でこそのびのびと過ごすことが出来た。そんなあなたをもう手放して権謀術数渦巻く王宮に送り出さなくてはならないなんて……こんな事になるならあなたにもう少し淑女教育や貴族の立ち居振る舞いを教えておくのだったわ」
「ツェツィーリア、戦場や敵国に送り出すわけではないんだ。テオドール殿下の妃になるということは後にこの国で最高位の女性になるということで名誉な事なんだぞ」
「この子が権力や富を望む子だと?」
辺境伯夫人が夫をキッと睨むと辺境伯はしょぼんとしながらぼそぼそと話す。
「でも……テオドール殿下の事をユリアーネは気に入るかもしれない。ほら、テオドール殿下はとても見目麗しいと聞いているし。若干十五歳ながらテオドール殿下の目に触れたい、声を掛けてもらいたいという令嬢たちが父親に連れられて日々王宮を訪れているそうだぞ」
「だからですわ。私はしがない伯爵家の娘でしたけど王都育ちですから女性たちの水面下の足の引っ張り合いは良く知っております。ええ、あなたよりずっと。そんなところにもうこの子を行かせなくてはならないなんて」
え? ユリアーネは抱きしめられていた母の腕の中から抜け出して辺境伯に訊ねた。
「父様、お嫁に行くのはもっとずっと大きくなってからですよね? 私はそれまでここに居ていいのですよね?」
辺境伯はふいっと目を逸らしながら言う。
「一週間後に王都に向かう。テオドール殿下と婚約を結んだあとはお前は王子妃教育を受けながら王宮で暮らすことになる」
「……一週間……後? え?」
混乱してユリアーネは辺境伯に飛びついた。
「父様! ねえ父様! 一週間後って……え? またすぐに帰ってくるんですよね? 父様や母様やクリスともまたすぐに逢えますよね?」
縋りつくユリアーネを抱きしめて辺境伯は言った「もう決定したことだ」と。
「嫌です! いーやーでーすー! そんなところ行きたくないです! そんな……そんな……父様の馬鹿!!」
辺境伯の腕を振り払い、伸びてくる腕をかいくぐって辺境伯の顔にいい感じのパンチを一発入れるとユリアーネは走って部屋を飛び出した。後ろで辺境伯が何か叫んでいたがそんな事より頭の中がぐちゃぐちゃでどうしていいかわからなかった。
次話予告『説得されたユリアーネ』です。