1、逃げ出したユリアーネ
新連載です。よろしくお願いします。
しばらくは一日二話投稿します。
「ここから出ていくわよ、マルゴット!」
鼻息荒くユリアーネが叫ぶとメイドのマルゴットは一瞬目をまん丸く見開いた後に小太りの身体をゆすって「応!」と拳を突き上げた。
「止めないの?」
「何故止める必要が? お嬢様は十分我慢いたしましたわ。そりゃあもう以前のお嬢様では考えられないくらいに」
マルゴットに言われて考えてみる。うん、確かに。とユリアーネは大きく頷いた。以前のユリアーネだったらこんな事態になる前に拳の一つや二つ炸裂させていただろう『鬼ユリ』と呼ばれていた故郷に居た頃ならば。
「そうね私も丸くなったものだわ……いいえ違う、こういうのは焼きが回ったというのかしら。女性は男性にかしずくものとかいつも慈愛の微笑みを絶やすなとか凛と胸を張って常に優雅にとか……クソ真面目に王子妃教育に取り組んでいたからかしらね」
「……意地になっておられましたからね」
ユリアーネが丸くなったと言われるとマルゴットは首をかしげる。ユリアーネが婚約者である王子にかしずいているところなど見たことも無いし、従順であるとはとても言い難い。それでも手が出なくなっただけ昔よりは丸くなったのだろう。王子妃教育は真面目に取り組んでいたし、所作も随分綺麗に、優雅になった。(うん、拳で語った昔に比べれば丸くなったわ)とマルゴットは納得した。
ユリアーネははあ……とため息をつく。
「あんな男の為に馬鹿な努力をしたものだわ。絶対に王国一の淑女になってやる! と思ったけど知らないうちに頭の中まで必要以上に淑女でなければと思い込んでいたみたいね。こんな仕打ちを受けてまであんなクソ王子の妻になるなんてまっぴらごめんよ!」
ユリアーネは大声で宣言する。でもそれを窘める人も陰で聞いてこっそり告げ口する人もいない。
元をただせば故郷のヴァルツァー領の為にユリアーネは婚約した。それでもゆくゆく夫婦になるのだから仲良くできるといいなと思って王宮にやって来たのだ。王命の婚約をこちらから破棄できないのは理解している。でも我慢の限界だった、そして婚約者の顔面を殴る以外の解決方法、王宮から逃げ出すという事を思いついたのだった。
王都の中心、広大な敷地を塀で囲んだ中にある王宮。王族の居住する宮殿だけでなく各省庁の役所も内包する政治の中心でもあり、舞踏会や園遊会なども開かれる煌びやかなホールやサロン、一流の庭師が丹精込めた大小の庭園を備えた社交の中心地でもある王宮のその最も西、雑木林のその先に立てられた忘れ去られたような離宮。この離宮の食堂で生煮えの野菜の入った薄味のスープを前にユリアーネはマルゴットに宣言をしたのだ、ここを出ていくと。
ユリアーネ・フェア・ヴァルツァーはこの大陸の中でそこそこ大国と言われるシュヴァルツ王国の辺境伯の娘である。彼女が当時の王太子の息子であるテオドール・フラン・シュヴァルツ王子の婚約者になったのは十二の歳、隣国との戦争で見事敵将を討ち英雄となったヴァルツァー辺境伯である父と、この国の先王との間で結ばれた婚約だった。それから五年間、ユリアーネは故郷からただ一人ついて来てくれた五歳年上のメイド、マルゴットと共にこの魑魅魍魎うごめく王宮で暮らしてきたのである。
「じゃあ早速荷造りをしましょう」
腕まくりをするマルゴットにユリアーネは告げた。
「その前に私の髪を切って欲しいのだけど」
「お嬢様のその美しい銀髪を! ですか!? 煌めく朝露のような、夏の日の冷たいグラスに付いた水滴のような、木々の間に張られた雨上がりに光る蜘蛛の巣のような素晴らしい輝きの銀の御髪をですか!? そんな……やっと腰まで伸ばしたのに……お手入れだって朝晩……」
ぶんぶんと首を振りながらブツブツと言うマルゴットにユリアーネは苦笑した。
「なんか表現がおかしいような気がするけどまあいいわ。そんな大したものじゃないわよ。それより私は男性に変装しようと思っているの。この長い髪は邪魔なのよ、だからこう……肩の辺りでばっさりやって欲しいの。それと使用人が着るような男物の服は手に入るかしら?」
マルゴットはまだぶんぶんと首を振っている。
「ねえマルゴット、いくら警備の緩い王宮の西の果て、この離宮だって出ていくとなれば西の通用門を通らなければならないわ。このままの恰好で出ていけないことくらいわかるでしょう。ほとんど忘れ去られたような私にだって追手がかかるかもしれないし」
テオドールとの婚約が解消されたという連絡は来ていない。元々ユリアーネのことを毛嫌いしていたテオドールだが一向に婚約が解消される気配はなかった。先王と辺境伯である父との間で取り決められた婚約だ、先王が存命中は解消は無理だと思っていたが先王が亡くなって二年、当時の王太子であったテオドールの父が即位しテオドールが王太子となった今も婚約が解消になったという知らせはユリアーネのもとに届いていない。西の離宮に追いやり、使用人に冷遇させ、挙句の果てにユリアーネを放置した今でさえも、である。ただ単にテオドールはユリアーネのことなど忘れあのボンキュッボンな美女に夢中になっているのかもしれないが、正式に婚約を解消しなければあのボンキュッボンと婚約することもできないだろう。
だからユリアーネは王宮を出ていくことにしたのだ。決して不味いスープや焦げた目玉焼きに屈したわけではない。
しかし放置されて三日、ただの一度も様子を見に来ないとはいえ勝手に王宮を出ていくわけにはいかないし、門番も通してくれないだろう。だからこっそり出ていくことにしたのだ。いつかはユリアーネが離宮に居ないことは発覚するだろう。その時にテオドールがどうするかはわからない。もうユリアーネには関係ないことだ。
マルゴットは泣きながらユリアーネの髪を切り、切った髪を大事に紙に包んだ。そしてどこからか庭師の下働きのような少年の服を調達してきた。
肩の辺りでばっさり切りそろえられた銀髪に粗末な少年の衣服。スッキリ細めの体型のユリアーネは遠目には十四、五の少年に見える。
「お胸はこの厚手のベストを下に着れば目立たなそうですね。さすがお嬢様、私ではこうはいきません」
小太りのマルゴットの胸は小太りではなく大太りぐらいの迫力がある。うん、私のささやかなふくらみはこれで十分ごまかせちゃうわね、とマルゴットの言葉に軽く傷つきながらユリアーネは口の中で呪文を唱えた。
「最後の仕上げよ」
彼女が呪文を唱えると絹糸のような銀髪がなお一層光り輝き、次の瞬間にはその色をありふれたブラウンに変えていた。
「お嬢様! それもお嬢様の魔術ですか?」
マルゴットが目をまん丸くしている。ユリアーネの魔術を知るマルゴットでも見た事の無いものだった。
「ふふっ、だって銀色の髪じゃ目立つでしょう? これなら私は平凡な市井の少年だわ」
平凡というには顔が美しすぎるし肌が綺麗すぎる。今のユリアーネは遊びを知り尽くしたマダムたちやいけない趣味のおじ様たちの格好の餌食になりそうな美少年だ。
でもマルゴットは黙って頷いた。流石に顔立ちはユリアーネでも変えることは出来ない。それならお嬢様の身はこのマルゴットが命に替えてもお守りします! と固く心に誓っただけだ。
といっても物理的にはマルゴットよりユリアーネの方がずっとずっと強い。
(でもお嬢様は世間知らずですからね、私が守ってあげなくちゃ)とユリアーネよりはもうちょっとだけ世間を知っているマルゴットは心の拳を握ったのだ。
その日、王宮の西のはずれ、忘れ去られた離宮から一人の令嬢と一人のメイドが姿を消した。
その事が発覚するのはもう少し後。
次話予告、『婚約したユリアーネ』です。
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