どことも違っている場所
俺には白い河の流れも、もちろんアルトの魂も目で見ることはできなかった。でも確かにそこは「どことも違っている」場所だった。俺は今ここにいる、という全身での感覚だけはあった、としか言いようがないけれど、とにかくあたりの静寂は深く、景色に色はない。白でも黒でもなく、それでいて透明でさえない。辺りには音がなければ、色もない。
小さな耳鳴りで深度を増すような無音ではなく、これまで一度も耳にしたことのない、まっさらな本当の無音と、一度も目にしたことのない光のようで光とは違う本当の無色の世界・・・・・・ふと気が付いたのだが、俺に姿はなくナイラーの姿もなかった。でも今ここに自分はどうしたって存在している。もちろん隣にはナイラーの存在もあった。ただどちらも姿がないだけだった。
「俺たち、死んではいないんでしょ?」俺は聞いた。
口を動かしたつもりだが、たぶんそういうことではなかったのだろう。
「誰も死んじゃぁいない。アルトの魂も生きてるんだ」
・・・・・・だからやっぱり、聞き慣れた、特徴のないナイラーの声は、たぶん耳から聞こえてきたわけじゃないとも思った。
「何も見えないのに、ナイラーの姿がはっきり分かって、何も聞こえないのに、ちゃんと聞こえる・・・・・・なんだか頭の中の妄想そのものだよ」
「そんな感じだろうよ。でもいいか? 無駄だから変な妄想なんかすんなよ。私はあんたの頭の中にいるわけじゃないし、そもそも思ったことなんか起きんからな」
「じぁ、逆にバレるってこともないんでしょ?」
「私でよければ、それは自分の部屋の中でこっそりしてくれ。とにかくここではするな。決まりごとじゃないけど、するべき場所じゃなかろうし、せざるを得ない場面ではないんだからな」
「・・・・・・でも無理だったら?」
「目の前の河に飛び込め」
「俺に、河は見えないんだ」
「二三歩踏み出せば水際だ。落ちるなよ」
ナイラーの気配と言うか、まぁナイラーなのだが、彼女は俺を河へ突き落す真似をして、叫んだ俺を見てゲラゲラ笑った。
ナイラーのいたずらに腰の引けた俺は、後ろへ下がり、彼女の手を握る場面が浮かんでは消し、浮かんでは消しをしているうちに、妄想の中でまるで泳ぎ着いた中州のようなところは、無音と無色は同じ原始的源流がある、とする意味が少しは理解できた気がしている、という思いだった。音には派手だったり地味だったりのまるで色彩があり、壁に塗られるペンキの色はうるさかったり、静寂だったりすることがある。つまりこれらの「裏返し」が「二つの無」にある近親的な関係でもあるのだ・・・・・・。
「アルトを流すぞ」ナイラーが言った。
彼女はシャトルの前でしていたのとは逆の左手の人差指をゴニョゴニョ動かしてから、臍の前で掌を水平に裏返しそして重ねた。たぶん上下に重ねる掌も、シャトルの前とは左右を逆にしているのだろう、と思った。
右手で拳を握り、口元に持ってくるとしばらくブツブツ、ブツブツ呟いた。祝詞のようなモノだったのか、単に思い出を語っていたのかは聞き取れなかった。
「また誰かになって戻ってきてね」ナイラーは握り拳を広げ、俺には見えない「モノ」を足元の少し先へ放った。
固く澄んだ、透明感ある小さな音は、水紋のように広がる残響音を立てた。
俺はあれっ? と思い、なんだか聞き覚えのある音のような気がした・・・・・・そうか、コパのエンジンをかけているとき勝手に開いたハッチバックが立てた音だ、と直ぐに気が付いたのだったが、よくよく考えると、あの時、俺はハッチバックの音を聞いていない気がしたし、たぶん無音か、それに近かったはずだ。なのに誰もが気が付いたのだ。むしろ開く場面を目撃すらしたのだった・・・・・・。
「バイクの修理代は無茶苦茶高いのにアルトの魂は腐っていなかったな」ナイラーが微笑んだ。「腐ってるのは、今みたいに響かないんだよ」
「アルトはあんなに大きかったのに魂の音は小さかったね。なんかそれもまたいい感じがする」俺が言った。
「きれいな音だったよ、アルト」ナイラーは言った。




