「この物語」を書く必要性の度合い
作者から愛されるキャラクターには影があるが、全くないキャラクターもいる。どんなに美しい文体でも手先で書く物語のキャラクターにはまず影がない。彼らを愛していない、というよりは作者にとって「この物語」を書く必要性の度合いによるのだ。もっとも誰を運ぼうと俺のギャラは変わらないのだが。
バックシートに座るキャラクターたちは緊張する者がいればリラックスしている奴もいる。話を聞く限りで言えば「プロ」の場合も同じらしい。これはつまり、俺たちによって空と宇宙の境から運ばれる「キャラクター」は作者のキャリアや実力、あるいは作品の価値などに関係なく一個人として自立した人格を持っている左証だ。
今の仕事を20歳から初めて10年。「届け先」を間違えることは滅多にないが、一度もないとは言えない。誰も彼も、ライセンスを持っていようがいまいが「一度もない」とは言えない程度の「誤配」を経験するものだ。
クリスマス休戦に入った雪原の塹壕へ「彗星の尾っぽ切り職人」を降ろしてしまったのは完全に俺のミスだった。同じカフェで同じ時間に複数の(素人小説)作家が創作していてそのうちの二人が氷だらけのアイスコーヒーの中に閃きを得ると「即配便」の発注がかかった。
たまたま同じカフェにいた二人の女子大生が同じタイミングで発注した「雪うさぎ」と「氷の樵」に付いた「12桁の伝票番号」は恐ろしく似ていたのだった。
倉庫の検品係から、気をつけろよ、と言われはしたが、誤配してしまう配達員は、似たような経験があると、一度経験した自分が二度と間違えるはずがない、と思いながら、しかしどうしてか間違えてしまうことを、俺はちゃんと留意しながら「氷の樵」を預かりV8を飛ばしていち早く「現場」に到着した・・・・・・そして伝票番号を読み違えたのだ。
もう一つのミスは「倉庫」の出荷間違いだ。青春群像劇のプロットが組まれたとき、証券会社に新卒で入社した男のデスクパソコンに「個人的な社内メール」が舞い込む、という簡単なスケッチも作者は書いていた。
そこで「倉庫」の検品係は「マサミ」という名前から性別を勘違いしてしまい、社内メールの送り主を「二つ年上の男上司」としたのだ。
すらっと背の高い清楚なボーイッシュは、むしろ「そのもの」だったので受け取った俺は内心、マジか!? と思った。その手のキャラクターは初めてだったのだ。でももちろん気にしていない振りをして「彼」をバックシートに座らせた。
群青色の世界が薄れ、10kmほど続く、濃密感に満ちる静かな大気圏を飛ばす車内では互いに種類の違った緊張感を持っていたことをよく覚えている。
・・・・・・今日もよく乾いた音を響かせるV8が吠え終ると「マサミ」は勝手にシートベルトを外してしまった。念のために外さないでくれ、と言うべきだったのかもしれなかったが「彼は」明らかにシートベルトの脱着なんかよりもずっと重大な思案を巡らせている雰囲気があったので話しかけられなかった。
「ぼくはどんな言葉で新卒くんを誘うんだろう? たぶん異性に対するよりも何倍も勇気が必要な気がする・・・・・・少しの意地悪を楽しむような駆け引きもちゃんと書いてもらえたらいいんだけどな」文字になって恋を謳歌するのかもしれないし、傷つけあうだけになるのかもしれない「マサミ」が話しかけてきた。
「どうでしょうね? 作家さん自身が実生活でどれだけ恋愛経験を積んでいるのか、によるのかもしれないけれど、でも逆に全く経験のない方が、作中の恋人は非現実的な信頼関係を築けるから、えぐられるほどの寂しさなんてない、細やかな孤独を時には味わう幸せな恋をする、とも言いますからね」彼女がいたことのない俺は自分でも、何を言っているのか、言っていないのか、それすら分からない適当なことを言ってしまい、それでも励ましたつもりだった。
「・・・・・・ドライバーさんはこれまで送っていった誰かに恋愛感情を抱いたことはある?」窓の外に広がる早朝の青い空と白い雲を見ていた「マサミ」は自由になった身体を前に持って来て、運転席と助手席の間からきれいな顔を出して微笑んだ。たぶん意地悪をしたんだと思う。
「あっ、いえ。ないと思います」俺は若干姿勢を左に寄せてしまった。
親父が助手席で腹を抱えゲラゲラ笑っている気がした。
歳を取った両親から今でも子供部屋と呼ばれる二階の六畳間から発注をかけた依頼主の「勉強机」の上に「マサミ」を届け終わったとき「彼」は青い空と白い雲を眺めながら考えていた思いを吐露した。
「・・・・・・たぶんぼくは間違えだと思う。この作家さんは女のマサミを必要としているんだ。だからきっとぼくは一行にもなれず、文字の藻屑にもなれないまま消滅するしかない気がする」きれいな顔をした、立派な影を持つ同性愛者の寂し気な作り笑いに胸が締め付けられた。
「・・・・・・」
可能性がなくはない、と思っている俺には言ってやれる、別れの言葉もなかった・・・・・・しかし体調不良で休職し、実家の自室で人生の逆転を願いプロットを組んだ四十代の男は、その不可抗力的な誤りにより、誰にも言えず隠していた本当の自分を、ともすれば誰にも読まれないかもしれない小説の中で開放する、という恐ろしく重大な勇気を持ち、長年に渡り神様に拒み続けられてきた「願い」をいよいよ取り下げた。
作者は「マサミ」と言うクラスの人気者の女子と机を並べた小学校5年生の頃から毎晩布団の中で神様に願っていた。
「明日、目が覚めたら女の子が好きになっていますように」
そんなわけで「誤出荷」した検品係は始末書を書かされるどころか創作作業が作家自身にもたらす「美しい力」を実証させたとして出世したのだ!!