約束
「ねぇ、私が死んだらどうする?」
そのことを思い出したのは、職場でつけっぱなしになっているテレビから流れる、夜の地元のニュースを聞いていた時だ。
「本日、夕方16時頃※※市にて、78歳の男性が運転する車が大型商業施設に突っ込み、店内にいた客や従業員を含む複数の方が巻き込まれ、この店の従業員、四月凪さんが心肺停止の状態で病院に救急搬送されたとのことです。事故現場周辺では、警察が詳細な状況を調査しており、原因究明に向けて捜査が進められています」
彼女ーー四月凪ーーは、塾講師である僕のかつての教え子だった。
最初にその字面を見たときんには「しがつ・なぎ」と読んでしまって、切るところが違うと言われたのを思い出した。
教えていたのは彼女が中学1年から高校2年の時。
「ねぇ、私が死んだらどうするってば?」
それは、授業とは名ばかりの雑談中に彼女がしてきた質問だった。控えめに言っても不真面目な授業態度の彼女は、いろいろな先生に担当を拒否され、僕のところへと回ってきたいわゆる問題児だった。
「お線香上げにいくよ」
「ハ? ホンットにサイテー」
制服を着崩すなんて当たり前。比較的校則の緩い私立高校に通っているとはいえ、それでも注意されるだろうメイクに染髪。本人はバレてないつもりでピアスも開けていた。平べったくいってギャル。
バイトで注意されるから、と言って爪だけは綺麗に切りそろえてあるのが印象的だった。
「でももう死んじゃってるんでしょ? それしかできなくない?」
「他にあるでしょ、もっと」
個別指導塾なので基本は先生一人に対して2〜3人の生徒を同時に見るのだが、彼女は態度が悪く他の子の邪魔になるので一対一の授業だった。
先生と生徒、という関係では一応あったが、彼女が敬語を使って話したことはないし、僕がそれを咎めたこともなかった。当時は新卒一年目で、まだ学生気分が抜けてなかったというのもあるが、いまだに生徒からタメ口で話されることも多いので、そういう立ち位置なんだと今では思っている。
「はいはい、死んじゃったら悲しくて泣きます。めっちゃ悲しいから死なないでー」
「うわ、マジ棒読み」
授業を真面目に受けなくても特に注意することもなく、延々雑談しかしない先生は相当珍しかったんだろう。
他の先生には邪険な態度を示すが、僕にだけは割と好意的だった。
「は〜、でもまぁいいや。ねぇ、じゃあ約束。私が死んだら、ちゃんとお線香上げにきてよ?」
そんなことを言っていた彼女が、死んだ。
いや、まだ死んでないのか? でも心肺停止で搬送されたって言ってたから……そんなことを考える僕に、電話応対をしていた事務員さんから声がかかる。
「宮島先生、外線三番、お電話です」
「え? はい」
指名で電話がかかってくることなんてほとんどないので、緊張が走る。誰かの親からのクレーム? そんな視線を事務員さんに向けると、彼女は困ったようにして、テレビへと視線を向けた。
「四さんからです」
※※※※※
電話をかけてきたのは、2年前に高校を卒業した生徒で、月凪の妹、四莉奈だった。
「ねえ、どうしよう……お姉ちゃんが、お姉ちゃんが!」
電話口で取り乱す莉奈に落ち着くように促し、指定された病院へと急いだ。
病院で事情を告げると、集中治療室に併設された待合室へと案内された。
「急にごめんね。正直、どうしたらいいかわからなくて」
「わからなくて当たり前だよ」
そういった莉奈は顔面蒼白で震えていた。
二十歳の大学生にはこんな状況どうにもならなくて当然だ。正直、自分だって混乱している。
月凪はこの病院に搬送され、手術を終えてなんとか一命は取り留めていたが、予断を許さない状況ということだった。面会も今はまだできないということでずっとここで一人で待っていたそうだ。
「親御さん……お父さんは?」
「今、お父さん海外勤務で。連絡したけど、つくのは早くても明後日だって」
「……お母さんは?」
「知らない」
月凪の母親は彼女が高校2年の時に、若い男と浮気をして離婚し家を出ていった。彼女たち姉妹は父親側に引き取られたが、月凪が塾を辞めたのはその時だ。
「そっか」
「お姉ちゃんのスマホ見たら、待受が先生と撮った写真だったから。連絡できる人、他に思いつかなくて」
そう言って莉奈はスマホを見せる。確かに、そこには数年前に彼女と撮った写真があった。
「あぁ、そういえば、撮ったなそんな写真」
「……お姉ちゃん、めっちゃ喜んでたよ。連絡先渡せたって。でも連絡しなかったでしょ」
「それは営業トークだと思って」
「わかってたくせに」
まぁいいケド、といいながらこっちを睨む莉奈の表情は姉そっくりだった。
「来てもらって悪いんだけどさ……何かあったらすぐに連絡するから一度帰った方がいいって」
さっき言われた。コロナの時間制限とかそういうのみたい、と莉奈は言った。
「そっか……じゃあ送るよ」
こんな緊急事態の時くらい融通を利かせてくれ、と思ったが、そういう家族全てに対応はできないのだろう。
今だって、この控室に他にも二組の家族がいる。
病院の駐車場に停めていた車に二人で向かう。
当たり前のように助手席に乗り込む莉奈にやっぱり姉妹だなと思う。
「うちの場所わかる?」
「引っ越してなきゃわかるけど」
二人の家は塾から徒歩5分くらいのところにあったはずだ。
「なら、そこだからよろしく」
車を走らせる。深夜なのですれ違う車もほとんどいない。
「お姉ちゃんが、なんで塾辞めたか知ってる?」
「それはアレでしょ。ほら、離婚して色々」
その時に、彼女は塾を辞めていった。
「違うから。確かに家はバタバタしてたけど、元々家事は自分たちでほとんどやってたし」
言われて二人の母親を思い出す。いつも甘ったるい香水の匂いが強く、年齢の割に落ち着いていないというか、家庭的な人ではなかった。
「お父さんは塾も辞めないで大学行かせたがってたけど、お姉ちゃんが行かないからいいって」
それは塾に通っている時に聞いたことがある。大学には行かずに美容系の専門学校に行ってネイルを本格的にやりたいと言っていた。
「でもそれは建前。お姉ちゃんが辞めたのは、先生にフラれたからだし」
フった覚えはない。
「フったようなもんじゃん。先生にカノジョできたって泣いてたよ」
「それは……」
確かに、月凪からの好意を感じていなかったといえば嘘になる。
「別にいいけど。お姉ちゃんと付き合ってたらクッソキモいし通報してるから」
返事もできずに黙っていると彼女たちの自宅付近に着いた。
「ここでいいよ。ありがとう」
「いや、連絡くれてありがとう。何かあったらすぐに呼んで」
そう言って連絡先を交換して僕らは別れた。
僕も自宅に帰ろうとして、その前に職場に置いたままの荷物を撮りに行こうと車を走らせようと、エンジンをかけるとスマホに通知が来た。
莉奈から早速連絡が来た。開くと、先ほど見せてくれた月凪の待ち受けになっていた写真が送られてきていた。
車を走らせると自然とその時のことを思い出す。
あれは莉奈が高校生になりたてぐらいの時だ。
免許を取り立ての月凪が、妹の迎えに来たことがあった。
「うわ、悟じゃん。懐っ」
塾を出たところで名前を呼び捨てで呼ばれた。振り返った先に彼女がいた。
高校時代と比べて明るくなった髪に、ゴテゴテの化粧。相変わらず露出の多い格好で彼女は電子タバコをふかしていた。
妹から専門学校に通いながらキャバクラで働いてるとは聞いてはいたし、高校の頃からそんな風体だったが、ちょっとショックを受けたのを覚えてる。
「久しぶり。タバコ嫌いじゃなかった?」
「ん? これはニコチンとか入ってないフレーバー」
そんなのも知らないの? と言いながらも少し気まずそうに背を向けてすぐに電子タバコをしまった彼女は、こちらに向き直っていった。
「っていうか、アンタ、全然変わんないね」
「そう? まぁ大人だからね。月凪ちゃんは……あんま変わんないか」
「ハ? 変わったって言えよ?」
グーを作って殴る構えを見せる彼女に、僕は両手をひらひらさせて降参を示す。
「はいはい、変わった変わった」
「前より可愛くなって、最近色気もすごいって言われてんだからね!」
「それはおっさんたちがお世辞で言ってるだけじゃ?」
「うっさい! おっさん以外にもめっちゃモテるし」
「はいはい、かわいくなって色気もすごいすごい」
月凪はチッと舌打ちすると僕の肩をごつんと小突く。わりと痛い。本気のパターンだった。
「ホンットに変わんないよね」
「それはどうも」
「まぁいいや。そう言えばさ、アンタ今彼女いる?」
「ん? いないけど」
「え、マジ? あの人とは別れたの? なんで?」
「なんででもいいだろ。しかも結構前だよ」
へー、そっか。とちょっと嬉しそうにいう月凪に気があるのか? と思う。
「じゃあ、お店来てよ。そんで私に貢いで!」
違った。
「残念ながらお店で貢げるほどもらってないんで」
「かわいそ。え、今何歳だっけ?」
「決めた。仮に大金持ちになっても絶対に指名しないしボトルも入れない」
「えー、ごめんって。許して許して」
「やだ。絶対しない」
「許せって。お詫びに今度サービスするからさ、お店来てよ」
これはマジ、と言って彼女は名刺を渡してきた。やたらと飾りのついた名刺に刻まれた源氏名はカグヤ。
「月からの連想でかぐやってこと?」
「そういうところだけすぐわかるよね」
半ば呆れたように月凪は呟く。
「だけとはなんだ。なんでもわかるわ」
「あ、裏に書いてあるのはマジの連絡先だから。来る時はそっちに連絡してね」
「はいはい、行く時はね」
「別に、来なくても連絡していいよ?」
「はいはい」
「連絡する気ないヤツじゃんそれ」
「する用事ある?」
チッ、と舌打ちをした月凪はぐいっと身を寄せて僕の右腕をとると、ぎゅっと身を絡み付かせてくる。
「え?」
「ほら、ここ見て。はい、オッケー」
戸惑う間に、スマホのインカメでツーショットの写真を撮られた。
「いい感じに撮れてるでしょ? こんな美人とツーショットの写真なんてどうせ持ってないっしょ? 欲しかったら連絡してね」
そんじゃね、と言って彼女は帰って行った。
結局、その時、僕は連絡をしなかった。
というかできなかった。もらった名刺に書かれていた字が汚すぎてIDが読めなかったのだ。
思いつくパターンを全て試してみたが、登録できず諦めた。
お店は分かっていたんだから、直接行って聞くことだってできただろうとは思う。
ただ、そこまでして関係を深めることにはためらいがあった。
別に彼女のことが嫌いなわけではない。むしろ、サバサバとしていて話しやすいし一緒にいて楽しくまである。
でも、それ以上の関係になる気があるかと言われると、悩ましい。
向こうにその気があるかないかよくわからないが……なんてぐだぐだ考えているうちに月日が過ぎて、今に至る。
「連絡、しとけばよかったな」
今になって、本当に今になって、そういう思いが込み上げてくるのが情けなかった。
※※※※
ハッと目を覚ますと深夜2時を過ぎていた。気づくと僕は学習塾の事務机に突っ伏していた。
部屋には自分一人。荷物を取りに来て、少しだけ作業をしてから帰ろうと、一人で作業をしているうちにうとうととしてしまっていたようだ。
ふと視線を感じ顔を上げると、その先に人が立っていて、バチっと目が合った。
「やっほ」
PCのモニターのすぐ上に、人の顔があった。
「ねぇ、私のこと覚えてる?」
数年ぶりに見る顔だが、忘れるわけがない。
「なん、で? え?」
「驚きすぎでしょ、死人を見たみたいじゃん」
ケラケラと笑う彼女はかつての教え子。四月凪。今日事故にあって、今は病院の集中治療室で眠るはずの彼女が、そこにいた。
怪我なんてどこもしておらず、ピンピンとした姿で。
記憶の中の姿よりもかなり大人びて、メイクも変わっているがそれでもはっきりと彼女だとわかる程度には変わっていない。
そうか、と気づく。これは夢だ。きっと、僕が望んで見ている夢だ。
「久しぶり、だな。どうした?」
「ん? んー、まぁちょっとね。なんか休みでこっち帰ってきて、たまたま前通ったら明かりついてたからさ」
「そっか……」
教えていたのは彼女が中学1年から高校2年の時。出会った時から数えると12年も経っていることに驚く。
「前に会ったのは、妹のお迎えに来てた時だから、5年くらい前?」
「そだね。なんで連絡くれなかったの? そんなに私との写真欲しくなかった?」
「違うって。連絡したよ。でも、IDが違って登録できなかったんだよ」
「は? ウソでしょ」
「ホントだって。待って、確かまだあるはず」
僕は財布を漁って彼女にもらった名刺を取り出す。あの日から捨てることもできず、ずっと入れたままになっていた。
自分の書いたIDを見た彼女は、うん、とひとつ頷いた。
「これ、書き間違えてるわ」
「…………」
「ごめんって。ってことは連絡くれようとしたんだ?」
「いや、まぁ、一応ね」
「しかも、アンタ、ずっとそれ持ってたんだ」
「いや、まぁ」
ふーん、と言いながら月凪は僕の机の周りを歩き回る。
「あ、これも、私があげたやつじゃん」
「そうだったね」
そう言って指差した筆箱は彼女がまだ中学生だった時に誕生日プレゼントと言ってくれたものだ。
「まだ使ってるとか。なんだよー、そんなに私のこと好きならもっとちゃんと言っとけって」
「物持ちがいいだけだって」
心なしか震える声の月凪に普段通りの返事を心がける。
「あーあ、やっぱり大学、行っておけばよかったなぁ」
「ん?」
「莉奈が大学通ってるの見てるとさ、やっぱ楽しそうで。あの時もっとちゃんと勉強してたらさ。なんか変わったかもな〜って今更思うんだよね」
「だから散々言ってたじゃん、もっと勉強しろって。大学は行けるなら行っておいた方がいいよって」
「ウソ。アンタは勉強しろなんて一回も言わなかった。そんなこと言わないから、ずっと担当だったんだから」
「それはそうかも」
僕の返事に、ほらね、と彼女は笑う。
「でも、行きたいんだったら今からでも遅くないよ。社会人になってから入り直す人もいるから、行きたいなら全然行けるよ。勉強するなら、教えるよ? 今度はちゃんと。甘やかさずに」
「甘やかしてた自覚はあるんだ?」
「そりゃね」
そっか、と呟いた彼女は、ふふっとらしくない笑い方をした。
「まぁ、それ聞けて満足かな」
「あきらめんなって。まだまだ若いんだからいくらでもできるって。月凪ちゃんは頭はいいんだから、それなりにちゃんとやれば、全然いけるよ」
「もう無理だって。だって、私、もう死んじゃうし」
うっすらと気づいていた。これはいわゆる、夢枕に立つとか、そういう類の何かなんだろうって。気づいてしまったら、意識がだんだんと朦朧としていく。涙が込み上げ視界が霞む。
「ねぇ。前にした約束、覚えてる?」
あぁ、覚えてるよ、と頷く。
「お線香あげに、ちゃんと来てよ」
笑う彼女の顔が見えた。
「待ってるからね」
※※※※
スマホのアラームで目が覚めた。繰り返し設定で平日はいつもこの時間になるようになっている。
いつの間にか、机に突っ伏したまま眠っていたらしい。
流れ動作でテレビの電源をいれながら、スマホを見ると、莉奈からのメッセージの通知が数件入っていた。慌ててそれを開く。
「速報です。昨日起こった、大型商業施設へ車が突っ込んだ事故ですが、病院関係者によると、心肺停止状態で救急搬送された女性はその後、蘇生が確認され、先ほど意識を取り戻したとのことです」
ラスト、生かすべきか殺すべきかで悩んだけど、殺すだけの度胸がなかった。悲しい。