第二十二話 最後の思い出
朝。
リコは目覚めた。
体中が汗まみれで髪もベトベトする。
なのに体調はすこぶる良かった。
疲労回復。血行促進。免疫向上。快眠快便。
心身機能促進。元気百倍。お肌はつやつや。
それらがいっぺんに訪れたような抜群な体のコンディション。
しかしリコはブスっとしていた。
ゲラゲラと笑いながらオナラキムチ鍋を食べさせた張本人に感謝したくない。
口をへの字に曲げ、頬を膨らませながら渋い顔でふてくされるリコ。
悲しみに暮れる可憐な少女にする仕打ちではない。
リコは不貞腐れながらも、汗臭い体を拭くためにベッドから這い出る。
朝日に照らされ、伸びをする体。
背筋は伸び、いつもの体がよりいっそう柔らかくなったような気分。
カラカラと窓を開ければ十二月の冷たい風が室内に吹き付ける。
その澄んだ空気で深呼吸をすれば肺に満たされ、朝日と共に清々しい気持ちになる。
遠くには鳥のさえずりと、聞いたこともないような雄叫びと誰かの悲鳴。
_ピーチクパーチク、グオォー、ギャァー……
リコはピシャリと窓を閉めた。
世界が狂ってしまい、自分たちの日常は戻らないことは理解していた。
友達のキミコをかくまい、息を潜め、看病しながら籠城して助けを待ち続けたときから、もう誰も助けに来ないと覚悟はしていた。
けれども来た。
偶然ではあるが、強盗を追って来て出会った青年。
見ず知らずの人間の下世話をしながら、必要な人と物を用意してくれた。
変な下心もない。……バカにされてる気はするが。
彼がやろうとしていることはたった一つ。生き残ること。
そのためにはなんだってするのだろう。彼なりの正義の中で。
もはや死ぬか、生きるかという選択肢しか残されていない。
死ぬのは怖い。
親の愛情はいつだって感じていた。
親を悲しませることはしたくない。
両親がいれば、娘である自分の身を守るために絶対に生き残る道を選んでいただろう。
もう残された親孝行の道は一つしか無い。
自分が選べる道も。
そんな彼女の視界にあるものが入る。
ヘルメットとプロテクター。それはリコとミノルの。
小さなヘルメットと大きなヘルメット。
大きなヘルメットは手に入れたばかりなのに表面がアスファルトで削れ、えぐれてしまっている。
大きなリスクを背負って守ってくれた男の人。
大人である彼は進む道を決断したのだろう。
リコが部屋から出てきた頃、ミノルは台所で朝食を作っていた。
薄暗い部屋の中で大きな鍋でお湯を沸かし、小さな鍋ではオートミールのお粥を作っている。
リビングの中にパジャマ姿のリコが姿を表すと笑顔で声をかける。
「おう? 起きたかよ。プロテイン飲むか?」
「……いらない」
「だからよ、今回はコスパのいいのじゃねーんだって。ザバスだぞ? ザバス。ブランドもんだぞ」
「種類の問題じゃないの! ……先生は?」
「外の見回りしてくれてる。あー、お湯使うだろ? 持ってけよ」
「……うん」
「ならさ、リコちゃん先に浴槽を洗って来てくれよ。ちょっと水を持ってき過ぎちまってよ、ダンボールがもう邪魔でしょうがねーんだよ。
だからさ、浴槽の中にミネラルウォーターたっぷり入れてよ、熱湯も入れて風呂にしようぜ。ミネラルウォーターの風呂なんて滅多に入れないぞ。超ブルジョワ」
お風呂。
とてつもなく魅力的な提案にリコは黙って従った。
リコは風呂場に移動して邪魔なものを片付け、風呂場の浴槽を洗った。
浴槽をすすぐのに煮沸消毒をしたバケツの水を使い、足りない分にはペットボトルのミネラルウォーターを使用した。
洗い終わるとミノルの言う通り、玄関に山のように置かれたペットボトルを運び、開封して中身を浴槽の中に注ぎ込む。
とは言え風呂を満たすにはかなりの量が必要だ。ダンボールに入った水のボトルを何往復もして運び、開封して浴槽に入れる。
ドンドン減っていく水の在庫。開封されたペットボトルとダンボールのゴミ。
ミノルは気にした様子もなく、大きな鍋で沸かした熱湯を台所から持ってくるとミネラルウォーターの入った浴槽に注ぐ。
空になったペットボトルとダンボールはミノルがゴミ袋に入れ、アパートの隣の無人の部屋に放り込んだ。
これが何回も繰り返され、リコは汗だくになって風呂を用意した。
準備のできた風呂にはリコが先に入ることになった。
入浴剤も入れ、少し熱めのお湯を汲んで頭と体を洗い、湯船に浸かる。
リコはせっかくだからと湯船に入りながら歯も磨き、結構な長湯を楽しんだ。
ぽかぽかの体で満足したリコが風呂から上がり、着替えて戻ると寝室のベッドのシーツが交換されていた。
枕カバーも新しくなり、布団カバーも交換されている。
リコは寝室には入らずダイニングキッチンに移動した。
扉を開けるとマキノが戻っていた。
マキノはテーブルに座ってオートミール粥を食べ、ミノルは床の上に新聞紙を引いて銃を分解して掃除している。
風呂から出たことをリコが伝えると、ミノルは油汚れがあるので最後で良いと言い、交代でマキノが風呂に向かった。
リコはダイニングの椅子に座ってミノルの作業を見守り、ミノルは黙って掃除を続け、新聞紙を詰めたゴミ袋の中に汚れを捨てている。
そんなミノルを黙って見ていたリコはポツリと言った。
「ミノルくんはなんのお仕事してたの?」
「……あれ? 言ってなかったっけ? ああ、先生に言っただけか。俺はよ、アイスクリームの仕事だよ」
「……アイスクリーム?」
「おう」
「アイスクリーム作ってたの?」
「違う違う。アイスクリームを主に保管してる冷凍倉庫だよ」
「冷凍倉庫?」
「俺たちが食べるアイスクリームとかアイスキャンディってよ、あっちこっちのでっかい冷凍倉庫で保管されてるのよ。冷凍食品もな。メーカーが作って、倉庫に保管して、販売先に出庫されるのよ。俺はその保管してる倉庫のアイスクリームの部門にいるんだよ。
暇だと思うだろ? ちげ―んだよ。超忙しいんだよ。真夏なんでバンバン捌けるし、バンバン届くからよ、人がいねーと残業だらけよ。超絶寒い極寒の巨大な冷凍倉庫の中でよ、アイスが積まれたパレットをフォークリフトで出し入れしてよ、それをまたパレットに手作業で移し替えて、トラックに乗せたり出したりするんだぜ?
けどな、その夏の繁忙期は忙しくても、春とか冬はそんなでもねーのよ。いわゆる閑散期な。そういうときに休みや出勤日数減らしてよ、他の奴に勤務譲ってさ、俺は狩猟してたのよ。夏と冬の仕事と趣味のバランスが取れるから俺にはちょうど良かったぜ。
まぁ、もう会社潰れただろうけどな」
「そうなんだ……。冷凍庫ってどれくらい大きいの?」
「この間のホームセンターよりもでけーよ。天井も高い。倉庫の中はネステナーっていう、フォークで運ぶデカいパレットを積み重ねる鉄の枠があるんだけどよ、そのネステナーを使ってパレットを三段くらい重ねるのよ。それがフォークの動ける通路だけ残してぎっしり並ぶ。それが三階建ての倉庫だぜ? もっとでけーとこが他にもある」
リコの質問にミノルは身振り手振りを交えながらペラペラと良く答えてくれた。
リコに気を使っているのかどうかは分からないが、普段と変わらない様子だった。
「ミノルくんはお酒とかタバコはしないの?」
「酒は飲むけどタバコはしねーな。こんな状況じゃなきゃ酒も飲みたいけど、酔ってるときに危険があったらやべーから飲めねーよ。リコちゃんは酒飲まないの?」
「飲むわけないじゃん。中学生だもん」
「俺はチューハイくらいなら飲んでたぞ? リコちゃんは嫌なときあったらどうしてるのさ?」
「嫌なとき? うーん、お母さんと話したり、ピアノ弾いたりしてたかな」
「ピアノ弾けるの? すげーな。どんなの弾くの?」
「ディズニーの曲とかだよ? 素敵な曲が多いの。みんなも知ってるから誰でも喜んでくれるんだ」
それからはずっとミノルが聞き役に回った。
ピアノの話から学校、家、部活から普段使うスーパーの話まで。
ミノルは銃を掃除し、組み立て、片付ける作業をしながらリコの話を聞き、尋ね続け、リコはそれに答え、話し続けた。
あれだけペラペラ喋っていたミノルは自分の話をほとんどせず、リコに語らせ、それを聞き続けて彼女の答えに同意し、肯定して続きを促し続けた。
マキノが風呂から上がってもミノルは風呂に入ろうとする様子を見せず、そのまま時が過ぎていった。
昼食はマキノがパスタを茹で、それを食べてからミノルは冷めた風呂に入って体を洗い、風呂場で手作業の洗濯をした。
風呂から出たミノルが洗濯を終わらせたと聞くと、リコは申し訳無さそうにして謝り、ミノルに頭を撫でられた。
全てが片付けられた風呂場。手作業で洗って絞り終わった洗濯物。
リコは洗濯物は自分が干すと申し出て、寝室の外のベランダにシーツ類と衣類を干した。
夕食では今度はリコが作ると宣言して白菜とありあわせの材料でチャレンジし、ビチャビチャしたぼやけた味のする回鍋肉モドキが出来上がった。
リコ自身もあまり美味しくないという感想しかなく、マキノは美味しいよとフォローしてくれたが、ミノルはハッキリと不味いと良い、料理は経験だから明日からの料理担当はリコがやれと指名されてしまった。
リコは不貞腐れたが、わだかまりはもう無かった。
久しぶりにコーヒーを豆から淹れ、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを飲んで夜更かしもした。
就寝するときは真新しいシーツで気持ちよくベッドで横になり、抱えている不安を忘れることができた。
朝ごはんに何を作れば良いのか悩むうちにリコは眠ってしまった。




