第二話 控室
もう遠慮する必要はなかった。
カビ防止に布団の下にはスノコと吸湿マットを敷いている。それらを全部処分する決意をすると、男は恥も外聞も無く布団に寝たまま排泄行為をし始めた。
覚醒し、尿意を催しても体がまだうまく動かせない。
それでもなんとか手を伸ばして、再びスポーツ飲料を寝ながら口にし、そして意を決して寝たまま放尿したのだ。
温かい何かが陰茎の周りを包み、それが臀部に広がる粘土質のなにかに染み渡り、徐々に冷めていく感触。それは最低だった。
もはや泣くことはなかったが、それでも悔しく情けない気持ちに押しつぶされながら男はスポーツ飲料を飲み、足りなければ追加でボトルを拾って開封して飲み、また眠りについた。
次に目覚めたのは昼を過ぎごろだろうか。水分と栄養を取って寝たことで重病人程度のレベルまでは体を動かせる状態だと感じ取った。
ゆっくりと布団から這い出ると、着ているスウェットのズボンから排泄物がボタボタと滴り落ちる。
腹をくくって汚す覚悟をしたまま男は布団の上で四つん這いになり、しばらくその姿勢を維持した。
そして意を決してゆっくりとしたハイハイの動きで糞尿を滴り落としながらユニットバスに向かった。
大丈夫だ。赤ん坊を育てている家庭だってこのくらいのことはある。職場で子育てしている女性の育児の話を思い出しながら、男は自分にそう言い聞かせて部屋を汚しながら風呂場に向かって這う。
いつもなら一分もかからない風呂場までの距離がヨロヨロとしたハイハイでは過酷な試練の如き距離だった。
それも途中から膝にかかる体重と床の痛みに耐えかね、匍匐前進へと切り替えてズリズリと汚物の尾を引いて這った。
なんとかたどり着いたユニットバスの扉を力なく押し、男は浴室の中まで這って進むと便器の前で止まった。
立ち上がるのがとてつもなくしんどい。
男は便器にしがみつき、正座のような姿勢を取った。そこから便器と浴槽の縁に掴まりながら必死に立ち上がる。
そしてやっとの思いで中腰になり、蓋を上げて便座に座ることに成功した。
本来ならば立ち上がり、服を脱いでシャワーを浴びたいところだが、そこまで体力は戻っていない。
男は便器に座りながらユニットバスの蛇口をひねり、シャワーからお湯を出し始める。
最初にシャワーから吐き出されたのは冷たい水だったが、それも徐々に温度を上げて白い湯気を立てるお湯へと変わっていく。
そのお湯が作り出す白いモヤの水蒸気は、これまでの日々の中で男にとって天の恵みにさえ感じられるほど恋い焦がれる存在だった。
お湯は見ているだけで心を洗い流してくれる。男は湯気を浴びただけで笑顔と元気を取り戻し、ノロノロとした手付きで上の服を脱いだ。
着ているスウェットの上下は両方とも排泄物で汚れ、下着も見るに堪えない代物だった。男はまずユニットバスの床に上着を肌着ごと脱ぎ捨て、次にスウェットのズボンとパンツを便器に座りながら脱いだ。
脱いだ途端に溜まっていた汚物がボタボタと便器の中に滴り落ち、衣類と肌に付着した糞便はユニットバスの床にこぼれ落ちる。
男は汚れよりも自分が汚物から開放されていく過程に注力し、とうとう汚物にまみれたままの全裸になると、熱い湯を吐き出し続けるシャワーノズルに手を伸ばした。
男はユニットバスの便器に座りながら、熱いくらいに温かいシャワーを全身に浴び始める。
ユニットバスにはトイレットペーパーや洗面道具と掃除道具も置かれていたが、男にそんなことに構う余裕は無かった。
頭のてっぺんから始まり、顔、胸、腹へとシャワーのお湯をかけ流し、そのまま陰部にも大量のお湯をかけ流して便器の中に流し込む。
ユニットバスのトイレには温便座もウォシュレットの機能もついていない。なので男は左手に持ったシャワーノズルを陰部に当て、右手をペニスや肛門に這わせて隅々まで洗った。シャワーから大量に吐き出されるお湯は汚物を便器の中へと流し、そして下水へと次々に吸い込まれていく。
男はひとしきり全身を洗い流すと、今度は洗面用具に手を伸ばした。シャンプーにリンス。それにボディーソープ。
シャワーのお湯を出しっぱなしにしながらシャワーノズルを床に転がし、トイレの便座に座ったままシャンプーを髪につけて洗髪を始める。
シャンプーについでボディーソープを大量に手に取り、トイレに座ったままボディーソープを体中に塗りたくる。
下肢からは茶色い泡が無尽蔵に泡立ち、男はそれを何度も洗い流した。
男は次第に疲れを感じ始めると、汚れた衣類を足を使って床の排水口の近くに寄せ、ユニットバスの扉を閉めた。そして体を洗い続けながらシャワーから流れるお湯を口にし、たくさんのお湯を胃袋におさめていく。
栄養は無いかもしれないが、温かいお湯は身も心も労ってくれた。湯を飲み、体を流すと、今度は蛇口のお湯をシャワーからカランへと切り替え、浴槽にお湯を張り始めた。
湯船に浸かるつもりはない。布団に戻っても安眠できる状況では無い上に、服を着直して部屋を掃除する気力も体力も無い。
なので男は浴槽に湯を張って暖かくし、ユニットバスの浴室で休憩を取ることにした。
カランから流れるジョロジョロというお湯の音を聞きながら男の意識は再び薄まっていき、裸の状態で暖かな浴室で眠りについていった。
数時間後、覚醒すると体力がさらに回復していることを男は実感した。立ち上がることができる。
空腹感を感じる。異臭も不快だと感じられ、片付けたいという意欲も湧いてきた。
男はユニットバスの浴室に脱ぎ捨てた汚物で汚れた衣類を跨ぎ、裸のまま浴室の外に出た。
家は1Kのアパートの一室。そこには自分が這ったことで床にこびりついた糞尿と汚物の跡が、まるでナメクジの足跡のように残っていた。
布団もみっともないほど汚らしく、臭く、数匹のコバエも飛んでいる。
まだふらつきはあるが、動ける。栄養を取りたい。そのためにはこの不快な空間を浄化しなければならない。
まず男はキッチンの棚からカップ麺を取り出し、ヤカンに水を注いでIHコンロでお湯を沸かす。
さらに男は玄関の棚の中からゴミ袋をありったけ取り出すと、脱ぎ捨てた衣類、床に散乱したゴミ、そしてシーツなどの寝具をゴミ袋に無造作に放り込んでいく。
捨てる物の選別など無意味だった。なので目についたものを掴み、ゴミ袋に詰め込む。物を掴み、床を歩くたびに洗ったばかりの体が汚物で汚れていった。
男は汚れた寝具と衣類とゴミを全てゴミ袋に収めると、汚れが付着しないようにさらにゴミ袋に入れて二重にした。
最後には床も掃除し、もう一度ユニットバスで体と浴室の中も洗った。
できる限りきれいにすると、清潔なバスタオルで体を拭いてから新しい部屋着に着替えた。
湯はとっくに沸き、保温状態にされていた。
沸いた熱湯をカップ麺に注ぎ、出来上がるまでの3分を待つ合間に不快な匂いを換気するために窓を開け、廃棄処分するゴミをアパートの廊下に放り出す。
ゴミを外に出し終わった頃には3分を過ぎており、やや柔らかめの麺をフローリングに座りながら男は食べ始めた。
開け放った窓からは冷たい風が吹き込み、コバエも外に出ていき不愉快な気配も薄まっていく。
男は寒さを凌ぐために汚れずにすんだ毛布を体に巻き付け、カップ麺を食べ続けた。
次の燃えるゴミの日はいつだろうか?
今が何月何日の何曜日なのかも男には分からない。
カップ麺のスープをすすりながら床に置かれた自分のカバンを掴み、中からスマートホンを取り出した。しかしバッテリー切れで電源は落ちている。なので床に落ちていた充電ケーブルをたぐり寄せてバッテリーを充電し始めた。
これからどうすればいいのだろうか。自分はどうなってしまっているのだろうか。
これからの生活を考えると暗雲が立ち込めるどころかお先真っ暗だ。
なにしろ体調不良の欠勤は自分以外にも多かった。無断欠勤が増加傾向で倉庫では人が足りず、無断欠勤者は退職扱いとなり、自分以外の派遣スタッフも増えていった。
しかし考えてみれば、他の人も同じような体調不良で長期間の無断欠勤したのであれば、事情を話せば派遣会社も雇用先も事情を理解してくれるかもしれない。
ならば復帰するのも多少の文句を言われる程度で済むかもしれない。それができれば、次の仕事を探すまで貯金を切り崩すこともない。
だけどもいっそのこと、これを機会に再就職する活動をもう一度始めてもいいのかもしれない。
派遣スタッフとはいえ、仕事を長期間継続してきたことは自分に自信を与えてくれた。自分と同じようにくじけて非正規で働き始めた人もいれば、同じような境遇の人が再就職に成功して去っていった場面も数多く見てきた。
そうだ。ピンチをチャンスに変えるとはこういうことなのかもしれない。
男はカップ麺のスープを飲み干しながら涙ぐみ、鼻をすすりながらそんな決意を胸に抱いた。
開け放たれた窓からは冷たい風が勢いを増して流れ込む。
男は鼻水をデロデロと流しながら自分が寒くて震えていることに気付き、ティッシュで鼻をかんでから窓を閉めるために立ち上がった。
寒いので毛布を頭からスッポリとかぶりながらノソノソと歩き、窓枠に手をかける。
ふと外をみると違和感を感じた。
「……あれ?」
外の様子がおかしかった。
具体的には車が一台も走っていない。
男の部屋は車道に面しており、普段は窓を開けると車の騒音がうるさく、平日の昼間などは渋滞で排気ガスが部屋の中に吹き込んでくるほど交通量が多い。おかげで家賃は安いのだが。
しかし右を見ても、左を見ても車が走っていない。
より正確に言うならば、道路に車が数台止まっているのだが、走っている車が一台も見られず、人っ子一人歩いていない。
太陽の傾きからすると夕方で間違いないが、帰宅ラッシュが道路で起こっていないなど今までに無いことだった。
なによりもおかしいのは、道路に止まっている数台の車が道路のセンターラインの中央や、進行方向と反対の車線で停車していることだ。
「……事故で道路封鎖でもしてるのかな?」
男はそうつぶやくと寒さを防ぐためにさっさと窓を閉め、エアコンの暖房の電源を入れた。
男は暖房が効くのを待つために毛布に包まって床に寝そべると、次第に眠気に襲われていった。
体調が改善傾向にある中で肉体労働をしたせいだろうか。ひどく疲れていた。
男は充電したスマホもテレビも見ること無く、そのまま静かに眠った。
その眠りはこの数日間で経験した最低な睡眠とは比べ物にならないほど快適で安らかな眠りだった。
そして、男にとって人生で最後の安眠となった。