スキー(1) ~事実誤認~
大阪で暮らす子どもたちにとって、スキーやスケートなどのウインターアクティビティは全くといって身近なものではなかった。
1970~80年頃は今より気温は低かった。といっても、大阪市内で雪が積もることは滅多になく、少し寒い日に池やプールの水面が薄く凍り、台所の水道をちょろちょろ流して凍結防止をすることもあったという、その程度だった。
スケートは、ナンバやアベノに屋内スケート場があったので、子ども会の行事などで何回かは楽しむことができた。しかし、スケートは、テレビでやってた“ローラーゲーム”の影響もあってか、ローラースケートの方が身近だった。
スキーを楽しむためのハードルは高かった。大阪から比較的近い神鍋スキー場でも日帰りは無理で、2泊2日――夜行バスで行って宿に1泊する――が最低限の日程で、それでも2日目は昼食後には帰路に着かねばならなかった。
信州大に入学するまでのスキー歴は、小5のころに1回。高2の学校行事で1回の2回だけで、合計しても5~6日ほどだ。いずれも初心者の練習メニューだったので、リフトを使うこともなく、ひたすらカニ歩きで斜面を登り、わずかな距離をへっぴり腰で滑っては転ぶことの繰り返し。なんとも楽しかった記憶はなかった。
11月も末に差し掛かって、松本から望む常念岳がすっかりと雪をかぶったころ、諸先輩方からスキーの話が出始めた。
「さすが信州だ」などと傍観していたら、スキー用具は持っているかと訊かれた。当然持っている訳がないので、「ない」と答えると、当たり前のように買いに行こうと誘われるが、丁重にお断りした。
ちょうどバイクを買ったばかりで、大赤字の財政だった上に、斜面を登るのがしんどい上に、コケると雪にまみれて冷たいし、汗が冷えると寒いし、翌日は全身筋肉痛になるし、とスキーに対しては負の感情しかなかった。
12月に入ると自動車のタイヤは続々とスパイクタイヤに換わっていく。スパイクタイヤは、接地面に金属のピンが多数打ちこまれているタイヤで、1990年ごろには粉塵対策で規制され、絶滅してしまった。スタッドレスタイヤがなかった時代、スパイクタイヤは凍結路で抜群の安心感があったが、雪や氷がないとアスファルトの表面を削るという弊害があった。アスファルトの削り粉で車のボディーどころか街中が粉にまみれ、横断歩道やセンターラインは徐々に消滅し、春にはアスファルトに轍ができた。
年の瀬が近づくころ、スキーに誘われた。
あまり気のりはしなかったが、諸般の事情で参加することになった。スキーセットは現地でレンタルしなければならないが、スキーウエアと手袋はバイクの防寒用に準備していたものがあったので、なんとか装備を整えることができた。
高校のスキー行事で各自に宛がわれたスキーセットは旧式だった。スキー板の金具にスキー靴のつま先を合わせ、靴をとりまくようについているワイヤーを靴の踵にひっかけて、前かがみになりながらワイヤーを引っ張るレバーを倒して止めるというシステム。スキー板をつけるだけでも初心者には一苦労だった。貸スキーの品質はその程度だと思っていたが、このときにレンタルしたセットは標準グレードだったにもかかわらず、靴やビンディングは新しいモデルで、踏み込むだけでカチっと装着でき、甚だ快適だった。
ゲレンデは初心者向きと言われた“青木湖スキー場”。最下層の広くなだらかなコースはド素人にも優しいコースで、なによりもリフトを使うと、苦行のようなカニ歩きをする必要がなくなるため、『滑る』というスキー本来の楽しみ部分だけを体験できたし、団体練習と違って、待ってる時間がほとんどないため、その1日で人生を通しての総滑走時間が2倍に増えたかと思われるほどだった。
用具のトラウマも解消され、苦行もなく、斜面と滑走スピードに慣れてくると面白い。多少滑れるようになると、余裕も出てくる。
誘われて仕方なく参加したものの、スキーは実は楽しいアクティビティだったんだと認識を新たにした。




