口紅、蛸、直感
「国際宇宙ステーションは1998年から2011年の間にアメリカやロシア、日本を含む十五か国の国々が参画した共同プロジェクトにより地上から約400キロメートル上空の軌道上に建設された。当時の宇宙開発を大きく進展させた重大な科学文化財であり、国際協力と平和の象徴でもある。大きさはサッカー場くらいあるが、小分けにして部品を運ばなくてはならなかったために基地は複数のモジュールで構成されていて――といっても最早この有様だが」
凄絶な基地落下現場を歩きつつあれやこれやと指差しては忙しく口を動かしていたカツヤは、砂上に突き立つ巨大な筒状の残骸にたどり着くと、その反った外壁にグローブをはめた手を添え、こちらを振り向いた。
「多分これが、アドラシオンが宿泊した居住モジュール『ズヴェズダ』の壁だ」
言われて、残骸の全体に目を向ける。しかし円筒のシルエットは激しく損壊していて、ほとんど外壁しか残っていない有様である。
「〈黒雲〉を突き破って粘性の強い黒色を纏ったおかげだろうな。ある程度原型を保ってはいる。この破損状態はおそらく落下時の衝撃によるものだから、アドラシオンが宇宙に置き去りにした物品も付近の残骸と一緒に砂に埋もれているはずだが……」
カツヤは足元に視線を落とした。足場を埋め尽くす、砕けたモジュールの部品や焦げ付いた外壁パネルなどの多量の散乱物。それらの上にはべったりと〈黒雲〉の黒が付着しており、陰影さえも塗り潰されていてものの形がそもそも見分けづらい。
カツヤは一つ大きな息を吐き、手近な残骸から漁り始めた。
その肩を叩いて、振り返った彼の面前に最前拾っていた親指大の筒を差し出す。
後ろをついて歩いていたときに見つけたものだ。
「うおっ……貸してくれ」
カツヤはそれを慌てた様子で受け取ると、色々向きを変えて矯めつ眇めつした後、筒の真ん中をつまんで左右に引き抜いた。
きゅぽん、と空気の抜ける音がし、二つに分かれたうちの片方の筒から純色の塊が覗く。
赤。濁りない、純粋な赤色だ。
「これだ。……口紅だ。アドラシオンの」
「良かった」
しかしカツヤには喜びより先に困惑が来ている様子だった。
「よく見つけられたな?」
「つま先で何か蹴ったから、拾ってみただけ」
「そうか……」
カツヤは少しの間口を噤んだ後、小さく息を吐き、苦笑交じりに続けた。
「やっぱりお前が居ないと、奴の残しものを探すのは無理そうだ」
「……そうかな」
わたしは、色のあるものが好きだ。ただ一色しかない世界に長いこといたから。あらゆる色は、ただ色づいているだけで、わたしの目に素敵な刺激を与えてくれる。色んな感覚を呼び起こしてくれる。だから人一倍、色に飢えている。色への執着、仮に譬えるならそう――嗅覚は、確かに人並み以上のものがあるかもしれない。
――けれど、赤だけは、別に素敵ではない。
だってわたしがずっといた世界が、その赤一色だったから。赤だけは見慣れてしまった。見果ててしまった。比喩でなく、遂には瞳が赤く染まるほどに。髪の毛から足の爪先まで全身真っ白なくせにわたしの目だけが赤いのは、赤を見過ぎたせいだろうと割と本気で思っている。
赤が希少であるということは外に出て初めて知ったが、いまだに赤はわたしにとって、不穏で、不吉な血の色だ。だから自分が妙に赤に因果があることについてはよりによってという気持ちしか湧かないし、我ながら不憫な特性だとも思っている。
しかしカツヤはいつになく目を輝かせ、いよいよ嬉しそうに口紅に魅入っているので、まあ彼の役に立てるのなら、あながち悪いことばかりでもないのかもしれないと思わなくもない。
「これだけの純度ならカラーマンだって殺せる……よし! 帰還しよう」
カツヤに倣い、置いてきた車の方へ顔を向ける。
そのときだった。
――ズウゥ――……ン
そう、低い地鳴りと共に、地面が低く、重く揺れた。
車のずっと向こう。
青色の砂塵が津波のように地平線を覆い、百メートル近い高さにまで巻き起こっている。
遠くの、大きな山影が動いているのが見えた。
砂丘ではない。山のように巨大な何かが、空を覆うほどの砂煙を巻き上げながらぐんぐんこちらへ迫ってきている。
すごい眺めだった。
「――走るぞっ!」
カツヤの掛け声にハッと我に返る。彼に手を引かれ、瓦礫に足を取られながら車へと駆け戻る。
わたしがドアを閉め切るより先にカツヤがアクセルを踏み込む。4WDが小さな円を描いて急激にカーブし、遠心力でカツヤの膝に倒れかかった。反対周りだったら確実に車外へ投げ出されていたが、焦っている風でも意外に冷静なのが彼だ。
「畜生!」ハンドルを捌きながらカツヤが悪態を吐く。「待ち伏せにしちゃエラく遠くから出てきたがっ……!」
確かによく分からない距離からの登場ではある。直前に大きなミスをした心当たりはないから、単にアドラシオンの遺留品というエサに我々は釣られたと考えて良い気もするが、その場合逃げる隙を与えない程度に近距離から強襲して来なかったのは変だ。
コトン、と軽い音を立て、口紅がカツヤのポケットからドアと座席の隙間に落ちた。視線の先、落下の衝撃でキャップと本体が分かれる。
外れたキャップの内側から、青い糸くずのようなものがしゅるりと伸びて縁に纏わるのが見えた。
次いで――ミニチュアのような黒いシルクハットを被った小さな小さな青色の蛸が、蓋の中からぬるりと現れた。
……。
一体どんな事態が持ち上がりつつあるのか思考が追い付いていないが、そんなわたしに向かって蛸は八本あるうちの腕の二本(前腕?)を使って被っていた帽子を持ち上げ、慇懃に会釈してみせた。
とりあえず、こちらもひょこりと会釈しておく。
「……カツヤ」
「何だ!」
「ええと、服がどこかに引っかかってるみたいだ。しばらくこの体勢でいても問題ないか?」
「大丈夫か!? 怪我してないよな!?」
「ああ……うん」
もたもた起き上がろうとするフリをして時間を稼ぎつつ、ミニチュアの蛸と見つめ合う。
とりあえず何かしらのヒントが欲しいところだが、そもそも意思の疎通が可能な相手かも分からない。いや、会釈してくれたのだし、心情的には友好な相手だと思いたいが。
と、蛸が脱いだ帽子から筒状に丸めた紙片を取り出し、くるくる開いてこちらに掲げてみせた。
『初めまして。ペネロペ』
紙片には、青い文字でわたしの名が書かれてあった。
次の瞬間、青文字が解け、細かな青色の粒子となって紙上で霧散する。直後またみるみる凝集し、別な文章が形成された。文字は細かな砂で書かれてあるらしかった。
『ここへ黄の兵隊が迫りつつある』
『これ以上長くは留めておけない 逃げてくれ』
『左手の砂丘にトンネルがある』
『またいつか』
最後の文字が散ったタイミングで、蛸は突如さらさらと砂に崩れ、上に帽子と紙片の刺さった小さな砂山と化した。次の瞬間タイヤが石でも弾いたのか車体が軽く揺れ揺れ、その衝撃で砂山は跡形もなく飛び散ってしまう。
「黄の……」
「何!?」
「あの砂丘だ」わたしは左前方に見える大きな砂丘を指差した。「あそこを目指してくれ」
「――了解だ!」
わたしの意見にいちいち何故と訊かないのがカツヤの指針らしく、それはわたしにシャーマンとしての役割を期待しているからなのだそうだが、果たして他者に意見できるだけの自然との交感能力が自分に備わっているかは我ながら大いに疑問であり、わたしとしては専門的な知識を有するカツヤにサバイバル方面は全てお任せしたい――のだが、今は考えるより先に自分の考えを伝えてしまっていた。確かな根拠はないけれど、親切そうな蛸だったし……。
カツヤがハンドルを切り、アクセルを強く踏み込む。
一瞬、浮遊感があった。フロントガラスに目を向ける。尋常じゃない速度で目当ての砂丘が迫ってきていた。多分地面が動いていて、移動する地面と同じ向きに車が移動しているために速度が加算されている。――みるみる、みるみる大きくなる巨大な砂山の、遠近感の狂うほど滑らかな砂膚。
そこにトンネルなんてない。
カツヤに心の中で激しく謝罪している間に、世界が暗転した。
あの蛸は、何だか信用して良い相手なような気がしたのだけれど……