青の砂漠、硬いシート、国際宇宙ステーション
『もし、何もない場所がこの地球上に存在するとしたら、それはナミブ砂漠をおいて他にないだろう。ナミブとは現地語で何もない土地を意味する。世界で最古の砂漠だけあって、その寂しさはすでに完成されたそれだ。全くの虚無が砂の原を覆い、疎らに生えている植物や、僅かに生息している動物たちをもその味気ない灰色の胃袋の中に収めてしまっている。時間という名の大河すら、その砂漠では流れるのを止めてしまったようだ。水は失せ、時の本流からも見放されたそこは、骨のように白く乾き切った世界。まるで白黒の活動写真から切り取ったフィルムを砂の舞う空に張り付けたように、風化した寂しい情景が、その砂漠では永遠に繰り返されている。――』
わたしは静かに息をついた。
枯れ葉のように乾いたページ。一昔前の色褪せた文庫を、背の後ろに垂らしていたスピンを一番最初のページに挟んでそっと畳む。
擦り切れた灰色の表紙に大きなブロック体で題として印字された空想科学物質の名と、その下に小さく書かれた副題を指先でなぞり、声に出さずに呟く。
『Ether』
――その不在証明――
光の仮想媒体。その実在を肯定しようとした科学者たちの膨大かつ綿密な思考検証により、逆にその不在を確信されることとなった皮肉な物質。
不在証明、ね。
宇宙空間全てを満たす概念になりかけたのに、結局は空想科学の世界に甘んじることとなったそれの惨めな境遇について思いを巡らしつつ、わたしは文庫を膝の上に下ろした。
太めの本を読了したことによるささやかな充足感に浸りつつ助手席のシートに身を沈め、窓外を後ろに流れるインディゴブルーの風景へと目を向ける。丁度、一際大きな丘陵がすぐ間近を過った。『月夜の闇空のような深い青』の肌をしたなだらかな傾斜が、ドア・ウィンドーには収まりきらないほど何処までも続いている。
それはほとんど山と言って良いほどのサイズなのだが、見た通りに表面はサラサラの砂地で少しの草も生えていないからやはり大きな丘と言うのがしっくりくる。頭上高くに昇る太陽の白い光に照らされた面に時折星屑のように瞬く砂粒の反射が、砂丘の暗い青のあちこちでチカチカと光る。絵で見た星月夜が泡のかたちを取って昼の大地にぽこぽこ顕れたようで、見た目には幻想的だ。
「外に何かあったか?」
後方に走り去るそれらの丘陵を追いかけるのに夢中で、無意識に身を捻ってドアに寄りかかっていたらしい。背中から訝し気な声を掛けられた。
「何もない」
そう言って前を向く。ルームミラーに浮かぶ、ハンドルを握る男の鋭い視線と目が合った。長い運転に疲れているらしく、黒曜石のような瞳のまわりがうっすら充血しているのが分かる。
「丘を見ていただけ」
カツヤは今、少し神経質になっている。安心させるよう言葉を重ね、ミラーから目を逸らした。
そうか、と気のない返事が返される。
「尻、痛くないか?」
「道の無いところを奔ってるんだから、揺れるのは仕方ないよ」
「そう言ってくれるとありがたいけどよ」
ドアに肩をもたせたまま横目でミラーを伺うと、彼の視線はもう向かう前方に注がれていた。
再び窓外の景色に目を戻す。一様に続く青色の風景が、動画の繰り返しのように途切れることなく窓の中を通り過ぎていく。
わたし達二人の乗るグレイカラーの四人乗り4WDは、甘やかな群青の砂原を奔っていた。一面、波打つように隆起しており、大きさも形状も様々な丘陵が至る所に見える。寂寥とした大地は色といい質感といい絵で見た海のように広大かつダイナミックで、宙に舞う砂塵によって薄く青みがかったせいで若干毒々しい色合いを孕んだ薄墨色の遠い空をうねうね区切るスカイラインまで、まじりけなく真っ青だ。
この景色を初めて目にしたとき、神秘的な大地だと思った。
でも、そんなわたしの横で、カツヤはこの眺めを明らかな異観だと言った。
砂漠が青いのは変なのだそうだ。
何が変なのかわたしには分からないが、夜にそんな色合いに見えることはありえるとしても、よく陽の照った日中にこんな色をしているなんて不自然極まりないとのことだった。
自然な砂漠は、アプリコット――『赤みのある乾いた黄色』をしているらしい。
そう言葉で色の説明をされたって、それがどんな色合いなのか、だからわたしには思い浮かべることが難しいのだけれど、まあ『自然』を知っている彼がそう言ったのだからと、取りあえずこの砂漠は変だ、という認識は共有しておくことにした。
色のおかしな異様な砂漠。
けれど砂漠の色が何色だろうと、自分には構わないのだと思う。
結局のところわたしは、彼が『こんな色』というこの色を、ただ素敵に感じてしまう幼稚な感性しか持ち合わせていないのだ。
「……」
シートの上でこっそり身をよじり、お尻のポジションを変える。
……。
お尻が痛い。
風景を見て気を紛らすのは、この感じだと限界が近い。
「カツヤ。後、どのくらい車で奔るんだ?」
途中何度か休憩を挟んだが、もう半日以上は車を奔らせている。結構な移動距離だ。
この砂漠は地図で見ると真ん中のくびれた楕円形をしている。そしてとてつもなく広い。一番狭いくびれの位置を直線で渡ろうとしてさえ一日や二日ではとても越えられないほど広大だ。けれどわたしたちの取る行路と逆向きに砂漠が動くため、そこまでかからないだろう、半日もかからないんじゃないかというのがカツヤの見立てだった。
しかし半日以上経った今もこの青の砂漠地帯を抜け切れずにいる。
彼の見通しが甘かったとは思わないが、風景が延々と一様に続いたまま地勢の変わり目が全く見えないので、砂漠の終わりが未だに感じられない。
――それに。
向かう先に目を凝らす。悠々と空を浮かぶ黒い綿雲の群れ――〈黒雲〉が、先へ行くほどだんだん濃くなっているように思う。連中は何かに興味を惹かれて集いつつあり、そしてその何かがわたしたちの目標物でもあるのは間違いない。〈黒雲〉自体がほとんど無害だとしてもあんなに目立つやじうまが塊になっていたのでは遠くからどんな危険な存在が呼び寄せられるか知れたものじゃなく、それに被せて砂漠を抜け切れないという事態まで持ち上がっているために今のカツヤはかなり気が気でない。
だから口を噤んでいたのだが、臀部の疼痛はいよいよ旅程について尋ねるキックをわたしに与えてくれたのだともいえる。別に、この景色を見収めるのは名残惜しいから、今夜は砂漠で車中泊、なんて事態になったって構わないのだけれど。むしろ、昼の光のない世界でこの砂漠がどんな表情を見せてくれるのか、本当は少し興味がある。旅行者気分が抜け切らないと、カツヤからは叱られてしまうだろうが。
「――実は分からない」
カツヤはミラーの中で苦んだような顔をした。
「ここは元々ナミブ砂漠だ。現地の言葉で、ナミブとは『何もない』を意味した。それくらいシンプルな土地だった。しかし青のカラーマンがここを自分の領土にしてから、砂漠は常に大陸を蠕動し、不定期に急激な収縮と拡張を繰り返してはかたちを更新し続けている。砂漠越えするにあたって大まかなパターンを狙ったつもりだったが、おれたちが侵入してから奴がこの青砂を予想とは別の方向に流動させたのだとしたら……一応のあてがあるとはいえ、いつ抜けられるか……抜け切れるか、分からない」
「気付かれたのかな?」
「それはないと思う……が、嫌なタイミングではある」
ナミブ砂漠。何もない砂漠。
サイドポケットに詰めている文庫の一冊を取り出し、最後のページの発行年を確認する。十年前の2020年――つまり〈色災〉の六年前。
ナミビア共和国探訪について記された先人の旅行記ということだったので旅の助けになるかもしれないと思い持ち出してきたが、ガイドとしては全く役に立たなかった。まあ、移動時間の良い暇つぶしになったので全くの無駄ではなかったが。読もうか迷ったが、お尻が痛くて集中できそうにないのでやめておいた。
外はどこまでも青い。いや、空に部分的な黒さも混じりつつある。
この本に載っていたような有名な砂丘はきっと拝めないのだと思うと、少し惜しい気もする。或いはわたしが先程眺めていたあの大きな丘こそその砂丘だったのかもしれないが……確認する術はない。
かつての情景は、色彩は、全て失われてしまった。
「気長に行こう」
取りあえずカツヤを励ますつもりで、わたしは言った。
どうせ世界は不自然の極み。今更何を焦ったって仕方がない。
しかし――さて。
臀部の疼痛を訴えて日没前に砂漠を越えようとするカツヤの計画を諦めさせるか、或いはデリケートな部位の問題について告白するという泥を被らずこのまま疲れ目のカツヤに運転を続けさせるか。
どちらの選択をこの男は嫌がり、どちらの選択を喜ぶのだろう?
少し考えたが、これはきっと考えて分かる問題ではない。
こういうときは外因、つまり状況の外的変化に選択を仮託するのが罪悪感の少ないやり方だ。近く到来する、もうこれ以上は一歩も歩けなくなるぞというラインを見極めて、そこでさりげなく伝える。これでいこう。
ただの先延ばしに過ぎないそんな後ろ向きな指針を決め、また気づかれぬ程度に身をよじったとき、4WDが緩やかに停車した。
「あれを見ろ」
カツヤが指差した正面、青い砂塵の向こうにうっすらと、斜めに突き立つ巨大な翼のシルエットが見えた。その上は特に〈黒雲〉が濃く、白黒写真で見た宇宙空間のようなのっぺりした暗黒を演出している。
翼、といっても、それは柔らかな羽毛に覆われている鳥のそれとは全く違っていて、感覚としてはむしろ昆虫の翅に近い。直線と直角により組み上がった、機能性のみを突き詰めた人工的なデザイン。
「目的地だ。呑まれていやがった」
カツヤが嬉しそうに言う。
――宇宙研究開発実験施設。国際宇宙ステーション。
地上に墜ちた科学文明の結晶は、何もなかったはずの砂漠で、それでも巨大な要塞のように荘厳な迫力を放っていた。
「畜生」
カツヤは喜んでいるとき汚い言葉を使いがちだ。
「別の星に来たみたいで、むかつくほど不穏だぜ」
一応は敵地である砂漠の真ん中に目標が落下していたという好ましくない事態に対し、カツヤが苦笑交じりに零した感想は、わたしの心に思いがけなくしっくりくる。
まさしくそんな眺めだ。ユングの提唱した集合的無意識には、もしかすると異星の原風景なるものも含まれているのかもしれない。
一面の砂原、宙船の残骸、黒い背景……。
「慎重に近づこう。周りに気を配っていてくれ」
「分かった」
目標を見つけられたからかいくらか気を取り直した様子で、カツヤはローの速度にギアを倒し前進を再開した。
頽れた翼の根本、跡形もなく散乱した巨大な残骸類が、遠目には小さな町のようにすら見える。
わたしたちはあそこで見つけなくてはならない。
アドラシオン・ジェネの遺留品。いまや遥か遠くへ行ってしまった、赤の残滓を。