ニュー・インペリアル・トマトな終末
自分が抱いた数秒前の感想を、今のわたしは否定している。そして認識を組み直す。その繰り返しだ。世界は少しも変化していないはずなのに、風一つ吹かず、穏やかなままなのに、それがわたしの目にはまるで嵐の前の静けさのように映る。認識できない現象を魔法と呼んでいいのなら、私の見ているものはまさしく赤の魔法だ。天地創造の逆再生。赤き混沌への帰着。
見渡す限りの水平線に下端を浸し、凪いだ水面を赤く染める真っ赤なトマトが、蔕の真ん中にパッチリ開いた大きな目玉をぎょろつかせて空高く聳える入道雲の波間からこちらの岸を嘗めるように見廻している。
ニュー・インペリアル・トマト。落日を目の当たりにしているはずなのに、置かれたトマトを真上から眺めたような――水平線の向こうで夕陽のように赤く滲んだ光を発する巨大トマトの方こそわたしを見下ろしているのだけれど――異様な眺めだ。まともじゃないのが明白な、冗談みたいな異観だ。
蔕を中心に据え、放射状に筋張った赤い果皮が円形の輪郭をキュッと引き締めている。それが何とも瑞々しい。だが美味しそうとは思わない。ギョロギョロと中心で輪転する眼球が、どう考えたってトマトには余計なパーツだ。トマトの一つ目。なんて破壊力のある蛇足だろう。周囲を疎らに縁取っているしなびたがくがみすぼらしい睫毛みたいに見え、少し無残な感じがする。人間のとよく似た眼だが、トマトにはおそらく頭骨がないので、眼窩ではなく、表面に直接埋まっているらしい。球の半分が果肉に埋もれ、残り半分が蔕から飛び出している。だからあの目には瞼が無い。瞬きも出来ないまま見開かれ、必死に何かを見つけようとするかのように動き回る瞳――その眼差しがどこか虚ろなのは、乾き切ってしまっているからかもしれない。そう考えると、少し不憫な気がした。
水面にぽつんと現れた砂州にわたしは立っている。端から歩いても十歩足らずで反対の岸に着いてしまうくらい小さな、滑らかな楕円の砂地だ。当たり前のように、その砂も赤い。抓んで指の腹ですり合わせると、乾いた血みたいな微細な赤が指先の指紋を浮き出した。この砂地の砂の一粒一粒が全て赤いのだと思うと、途方もないような気持ちになる。
周囲の湖は鮮やかな血の色をしている。不気味なほど鎮まり返った水面に、空の赤色を映している。四方を見回しても果てが見当たらないから海漠のただなかに居るような気がしてくるけれど、きっとここは湖だ。どこまでも広大な湖。いくら風がないとはいえ、銅箔を薄く極大にまでのし広げたように平たく固まった水面は、海と呼ぶにはあまりに静かだと思うから。
小さく息を吐き出して、わたしは自分の足元に目を落とした。真っ白ななよなよしい足が、赤い砂浜に体重の分だけ軽く沈んでいる。小さくその場で歩を踏むと、細かな砂がしゃりしゃり鳴った。
これはわたしの足。
この世界で、わたしだけが、色を持たない。
「――GAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaaa……――」
大絶叫、と呼べるほどの甲高い悲鳴が大気を揺らした。
空のトマトに注意を戻す。丁度、湖の果てが捲り上がり、今まで海と空の境だったはずの水平線が、まるで宏大なペティナイフの刃のようにトマトの眼球にぐじゅりと抉りこんでいくところだった。
あれだけ大きなトマトでも泣き叫ぶほど痛いのだろう。……眼球に切り込まれるなんて、想像を絶する痛みに違いない。
トマトの叫び声に押し流されるように、その周囲に浮かんでいた雲が散り散りにばらけ空に溶けていくのが見える――途端、強烈な突風がわたしの居る砂洲を吹き抜けた。巻き上げられ、激しく吹き付ける砂混じりの赤い波飛沫。わたしは吹き飛ばされないように身を屈め、しなる鞭のように吹きつけてくる赤みがかった風の暴力から顔を庇い、吹き狂う赤い嵐の向こう――遥か彼方のトマトを必死に見続けた。
燃え上がった空の先、赤く煮えたぎったトマトの灼け爛れた果皮がじゅうじゅうと耀く。ニュー・インペリアル・トマトを太陽と同じ属性の枠にそのままはめて考えるなら、切り裂かれたことで内外の熱的均衡が大きく崩され、裡に膨大な熱量を抑えておくことができなくなったというところだろうか。トマトの融けた果肉は沸々と泡立ち、泡立った先から破裂して、溶岩のような果汁を吹いている。その巨大さゆえ、巨視的には元のかたちを保ってはいるけれど、大いなる自然の怒りを思わせる活火山の群生をその表面にフジツボのごとくびっしり纏った赤く灼けた弩級トマトの崩壊する様は、恐ろしく終末的なモニュメントだった。
視線の先で、反り上がったペティナイフが強引にトマトを真ん中から切り開く――悲鳴が断ち切られた。両断された眼球の半分が、ぐでっと中途半端に断面の鋭利な縁からまろび出る。しまりをなくした薄い果皮の下からでろでろと内容物が溢れでる。黒々した臓物が飛び出すのではないかと思い一瞬顔を背けようとしたが、溢れ出たのは拍子抜けするほどトマトらしい瑞々しい果汁で、不快感は全然ない。
赤いゼリー状の物質が同色の果汁とともにドバドバと漏れ出ている様は、炎熱が融けて耀く流体となったよう。果汁はペティナイフの腹を伝ってこちらに垂れて来ている。その刃は捲れ上がった湖面で、つまりこの砂州を囲う湖と接続している。だからわたしは押し寄せるトマト果汁を、まるで波濤のようだと思った。まだ遠いが、目視できる時点でこの砂州に到達するまで僅かな時間だろう――なんて予想は、こんなにふざけた超現実的な事態において、あまりに楽観的過ぎたらしい。
ペティナイフの腹に残ったトマトの上半分、遠近感さえ定まらないほど巨大なそれが、湖面の傾斜に乗って、こちらへゆっくりと滑り出すのがわかった。
既に流れ出ていた果汁が潤滑液の役割を果たしたのだろう。巨大なトマトの半身は、大気を震わせながらどんどんどんどんとその影を大きくしていく。
ニュー・インペリアル・トマトが、赤き象徴が、太陽が沈むのだと、そう思った。
空の赤が深まる。
夜が近付く気配がした。
暗闇さえ染め上げる赤が、視界を、覆う――
気付くと、湖が凍っていた――いや、乾いた血のように凝固していた。
辺りは酷く寒い。顔を覆っていた手を恐る恐る下ろし、自分の肩を引き寄せるようにして震える身体を抱き締めた。
見上げると、トマトの半身を担ぎ、空を覆うばかりに切り立った波濤が、千の海獣の牙のように尖った幾億もの波の切っ先をわたしに突き付けたまま、時が止まったように宙で静止している。
その赤一色の異観の中に、わたしは一点の『赤』い人影を見つける。
毛先のふんわりと巻き上がった長い髪。しなやかでやさしい、均整の取れた姿態。
同系色の中に居ながら決して交わることなく、はっきりしたシルエットを保ったまま悠然とこちらを見下ろす――原色の赤。
「――見つけた」
わたしは長い、白い息を吐く。
「アドラシオン・ジェネ」
彼女の名とともに。