手形
無機質な解剖室の解剖台上にある遺体はまだ若い、十代後半の少女だ。佐々頼慎吾は手を合わせた。自分も子を持つ親であり、少女の両親の心中を思わずには居られなかった。
「道路に飛び出しての事故死です」
遺体の頭元に立つ検視官、藤沢宗慶はクリップボードに止めてあった資料から顔を上げると少女の顔をまじまじと見つめて息を吐く。
「生前はさぞ綺麗な子だったのでしょうに。勿体ない」
健康維持のために適度に鍛えた身体と理知的な振る舞いをするハンサムな男だが、欠点は誰にでもあるものだ。宗慶は見た目の良さで人を引き付けもするがその口で引かせもする。まるで『花が枯れてしまった』と惜しむような口調に慎吾は眉を顰めた。
「その言い草はねぇだろう」
「失敬。綺麗なものをまた一つ失った世界の損失を思うとつい本音が零れてしまいました」
「俺が言いたいのはそういう事じゃねぇよ。だからお前は結婚できねぇんだ」
「酷いな。私だって勿論生きた女性が好きですよ。ただ、綺麗なものに目がないだけです」
「ったくこの変態が。異常まではいかなくてもスレスレっつぅか、いちいち危ねぇんだよお前の発言は」
くたびれた慎吾と若々しい宗慶では歳に開きがあるように見えるが実際は二つしか違わない。慎吾が高三の年に宗慶が同じ高校へと入学して来てからの付き合いだ。あの頃は職場の上司と部下になってまで付き合いが続くとは思いもしなかった。というか思いたくもなかった。
「貴方に隠したって今更ですし疲れるだけですよ。それに先輩のことは気に入っているんです。疲れ切った中年の形は兎も角、昔から変わらないその性格は『綺麗』ですからね」
「ヤメロ。鳥肌が立ったじゃねぇか」
腕を擦る慎吾を笑顔で眺める宗慶は「無駄話はここまでにして」「前置きがなげぇんだよ」本題に入った。
「この辺りを見て貰えますか」
長い指が少女の右耳の下辺りを指す。慎吾は霞むそれに目を細めた。徐々にはっきりと視えるそれは節くれだった指をした小さな手形だ。
「これ、お前は視えてねぇな」
「残念ながら。鑑識に居る知人が他には視えていないようだと相談に来たんです。こういうのは先輩の専売特許だったじゃないですか」
慎吾は眉間に皺を寄せた。そう言って学生の頃はどれだけこの男に引きずり回されたことだろう。
「俺は視えるだけだ。何も出来ねぇ」
「伝手が有るじゃないですか」
「今の俺は唯の人と変わんねぇんだ。家とはもう関係ねぇよ」
「でも、それとこれとは別でしょう?」
知ってしまえば放っておくことが出来ない慎吾の性分を宗慶は知っている。確信から浮かべられた笑顔を何度殴りたいと思っただろうか。だが慎吾は息を吐いた。いちいち殴っていては此方の拳がもたないだろう。諦めるのが一番だ。
「・・・・・・分かった」
「それでこそ先輩です。それにしても、こういう時に特班という立場は便利ですね」
特班とは《特別機動捜査班》の略称だ。何やら凄い事件でも追っていそうだが、実際は組織内で役に立たない者やはみ出し者を集めた署の墓場だった。未解決事件のファイル整理や人手不足の補助要員などが主な仕事だ。雑事が多く《なんでも屋》と揶揄されることもある。
「なにか分かったら教えてくださいね」
完璧な笑顔で送り出そうとする宗慶を慎吾は剣呑に睨み付けた。
「それは事件解決のためだよな?」
「勿論」
真剣な顔での即答を胡散臭いと思いながら、慎吾は解剖室を後にした。