お妙の過去
建礼門院は、激しく泣きじゃくりながら明風を抱き続けている。
明運、茜、お妙、そして建礼門院の両隣に座る若い尼と幼い女の子は、どうすることもできない。
ただ、若い尼は、明風が建礼門院に抱かれてから、ずっと顔を下に向けたままである。
「茜」
明運は例の声を発さない言葉を茜にかける。
「うん・・・」茜
「これほどの力とは、思わなかった」
「おそらく壇ノ浦のことが見えてしまったのだろう」明運
「うん、そうでなければ建礼門院様は、あんなにはならない」
「言い出しようがなくて、誰も言わなかったけれど・・・」茜
「うん」明運
「ただ・・・」茜
「ただ?」明運
「建礼門院様の嘆きは消えることはないけれど・・・」茜
「うん・・・」明運
「明風が、それを包み込んで癒している」
「明風は今、建礼門院様に抱かれているけれど・・・」茜
「うん」明運
「建礼門院様の心をそのまま抱いて温めているのは明風・・・」茜
「うーん・・・」
明運は、茜と同じように感じている。
ただ、今後の展開が全く読めない。
隣に座るお妙の不安な表情も気にかかる。
明運は「今日から、建礼門院様の子供になって親孝行・・・」と言った。
それでは、今まで懸命に明風を育ててきたお妙は、どうしたらいいのか。
お妙の心がまた、再び暗闇に閉ざされるようなことになったら・・・
お妙は八瀬の邑出身である。
明運、そして明運の双子の兄の嵐盛とは遠縁になる。
嵐盛は八瀬の邑の長であるとともに、京を中心として南都奈良や近江までの様々な寺社や公家の庭を手掛けてきた。
お妙はその嵐盛の口利きで、後鳥羽院に仕える高貴な公家の屋敷に奉公に出た。
その公家は「高貴」というだけで、お妙には詳細は知らされなかった。
お妙が気になって嵐盛に尋ねても、嵐盛は口を濁す。
「事情を知ると、危険であるから」という理由である。
そもそも、その公家自身が事情を秘せられ、後鳥羽院に仕えているということである。
源平の決着以降、平家、特に清盛の血筋は朝敵として京の都から追放された。
そのうえで「危険」と言うのならば、平家と清盛に縁があるということになる。
もちろん、公には他の門閥に紛れ込まされる形で、巧妙に隠されているが、いつ露見するかわからない。
そして露見した時点で、六波羅や夜盗に襲われる危険が高まってしまう。
「その事情」で嵐盛は口を濁したのである。
健康ではつらつとしたお妙には、すぐに、その公家の手がついた。
お妙は不安を覚えたが、それ以上に、その公家に深い魅力を感じた。
やがて、女の子供が生まれ、一時は公家の屋敷の中で一緒に暮らした。
しかし、京の街は、夜盗も多い。検非違使や六波羅までが、夜はその一味と化す。
その夜も、原因は不明であるが、小さな諍いから争乱が始まった。
決着が簡単につかず、火付けにまで発展した。
火は密集した京の街に燃え広がり、街衆まで争乱に参加する。
その公家の屋敷も争乱の中で襲われ、公家自身命を落とした。
お妙は必死に娘をかばったが、襲われる混乱に紛れ、娘は見えなくなった。
結局、お妙だけが急を聞いて駆けつけた嵐盛に救われ、八瀬の邑に戻った。
しかし娘は未だ、行方が知れない。
明運も、いろいろと伝手を使って調べてはいるが、確証が持てない情報が多い。
誰かとても高貴な公家で源氏でも平家でもないお方が救い出し、白拍子の集団に託したとの噂もあるが、その後の「行き先」がわからない。
明運としては、そのような不確かな情報をお妙に告げることはできない。
それだけに、明風が建礼門院に抱かれている姿を見ると、天地ほど身分の差があるものの、「明風を取られてしまう」その悲しみと寂しさが再びお妙の心を闇に閉ざすのではないか、明運は、お妙の表情や今後が心配でならない。