建礼門院と明風
「明運殿、それほど固くならずに・・・」
建礼門院から、緊張する明運に声がかけられた。美しく柔らかな声である。
「そんな頭を下げられても、今は出家の身、明運殿のほうがお師匠様ではないか」
「茜さん、お妙さんも遠慮なさらず、お顔をあげなさい」
建礼門院は、茜とお妙にもやさしく声をかける。
「それでは、かたじけなく・・・」明運、茜、お妙は神妙に顔をあげる。
ところが、お妙の横に座る明風はほとんど頭を下げず、笑顔のままである。
「本当に可愛らしい」
建礼門院は自分をじっと見つめてくる明風が気に入ったようだ。
「こんなに山奥にいると可愛らしいというのは小鳥の鳴き声とか、咲き始めた花ぐらいしかないの、本当に見ているだけで、何か、どきどきしてくる」
建礼門院は、うれしそうに明風を見ている。
「これほどまでとは・・・」
明風の笑顔と、その癒しの力は明運の想像以上であった。
以前、何度も寂光院を訪れたが、建礼門院の笑顔など見たことがない。
いつも、建礼門院のほうこそ、顔を下に向け、か細い声で一言二言話すだけである。
しかし、これはこれで、うれしい限りである。
明風の笑顔が建礼門院様の心の痛みを少しでも癒せればそれでいい。
ただ、不安があるとすれば、もう一つの力が、もしや変な方向に・・・と思った瞬間
「明運おじ・・・」
明運の耳に、茜の言葉が飛び込んできた。
例の声を発さない言葉である。
「ん・・・どうした・・・」明運
茜の声は緊張している。
明運は不安を感じた。
「明風、泣き出したよ!」
茜の声が震えている。
茜のいう通り、明風は建礼門院を見つめながら、涙を流し始めている。
お妙がゆっくりと明風の背中をなでている。
「泣かないって約束したでしょう・・・」
お妙が何度も言い聞かせるが、明風の涙は止まらない。
「どうしたの?お腹でも痛いの?」
建礼門院も明風の泣き顔が心配になる。
「違うよ・・・そんなことじゃない・・・」
明風は首を横に振る。
「建礼門院様・・・」
明風はたどたどしい言い方ではあるが、建礼門院に話しかけた。
「ん?なあに?」
建礼門院も明風が何を言うのか予想ができない。
本当に愛らしい笑顔を見せた後、こんな泣き顔になる。
建礼門院もどうしたらいいのか、わからない。
泣きじゃくる明風の次の言葉を待つしかない。
そして、その明風の次の言葉は、建礼門院をはじめとして、本堂に座る全てのものの、予想を超えたものであった。
「建礼門院様のところに行っていい?」
明風は泣きじゃくっている。
「え?」
明運、茜、お妙は聞いた途端に身体と心が硬直してしまった。
何と言っても国母である。
こんな子供が、国母の、そんなお近くになどありえないことである。
そんな・・・まさか・・・と思っても三人とも何もできない。
しかし、既に明風は立ち上がって、建礼門院の前に真っ直ぐに進んでいる。
そして、建礼門院のひざの前に座り、泣き顔のまま、建礼門院を見つめている。
「くすっ」
建礼門院は自分の前にちょこんと座り、涙目で見つめてくる明風が、とても可愛らしい。
「いったい・・・どうしたの?」
建礼門院は、明風の顔に自分の顔を近づける。
自分を見て、この可愛らしい子が泣き出してしまった以上、自分がなんとかしなければ・・・建礼門院はそう思い、自然に言葉と腕が伸びた。
「おいで、ここに」
建礼門院はゆっくりと明風を抱きかかえた。
これも、誰も全く予想がつかなかった事態である。
「いったいどうしたの?」
建礼門院は、明風を抱きかかえ、背中をなでている。
「ぐすっ・・・ぐすっ・・・」
明風はいまだ泣き止まず、言葉も出てこない。
「もう、しょうがないなあ・・・」
建礼門院は明風の頬に自分の頬を当てた。
何故か、明風の涙を自らの肌で感じたくなってしまった。
そして、建礼門院の頬が明風の頬、涙に触れた瞬間・・・・
建礼門院は、身体全体が熱くなった。
「どうしたのだろう・・・」
建礼門院自身予想もつかない。
突然、動悸も激しくなった。
しかし、明風がぐずりながら、たどたどしく話し出した内容は、それ以上に建礼門院の心を揺さぶるものであった。
「建礼門院様、さっき、このお寺に来るちょっと前に、小さな泉があって・・・」明風
「うん・・・」
建礼門院は次の言葉が予想できない。
「よくわからないけれど、あの泉を見た時、建礼門院様の姿が見えたの・・・」
明風の泣き方が激しくなる。
「え?・・・」
建礼門院の心が激しく揺れた。
「建礼門院様、すごく悲しそうに泣いているの」
「その姿を見たら、すごく悲しくなっちゃって・・・」
明風は既に号泣状態になった。
「そんな・・・見ていたわけでもないのに・・・」
建礼門院は、もはや、どうしたらいいか、わからない。
確かにあの泉のほとりで、いろんなことを思い、涙が止まらなかったことはある。
しかし、その時は誰にも見られてはいない。
それに、泣いてしまったのは、明風が生まれる前のこと。
「でも・・・お妙さんと泣かないって約束したから・・・我慢していたけど・・・」
明風は建礼門院から頬を離し、建礼門院の瞳の中を見つめる。
「うん・・・」
建礼門院は、この子は何か特別な力があるのだと思った。
この子はその不思議で特別な力で、泣いていた自分の姿が見えてしまったのだと思った。
建礼門院は、次の言葉をドキドキしながら待っている。
「ここのお寺に来て、建礼門院様にお逢いして・・・、じっと見ていたら・・・」
明風の唇がへの字になった。懸命に涙をこらえている。
「海が見えてきたの・・・建礼門院様が船に乗っている」
「建礼門院様の船にきれいな服を着た小さな男の子」
「建礼門院様の船の周りにもたくさんの船」
「周りの船にはお侍さんばかり・・・お侍さんたち、みんな恐ろしい顔して・・・」
明風の身体は震え、顔は真っ青である。
「お侍さんたち、どんどん建礼門院様の船に近づいてきて・・・」
「そしたら、きれいな服を着た子が、おばあさんに抱かれて・・・」
明風がそう言いかけた瞬間・・・
「もう、やめて!」
建礼門院は首を強く横に振り、明風を思いっきり強く抱きしめた。
「やめて、やめて、やめて・・・」
穏やかだった建礼門院は、錯乱状態になった。
どうして、そこまで見えてしまうのか・・・忘れられない、どうしても忘れようのないことをこんな子供が・・・
誰が教えたわけでもあるまい。こんな三歳の子供に・・・
ただ、こんなとんでもないことを見通され、錯乱状態になっても、明風を突き飛ばすことが出来ない。そんなことはしたくない。それ以上に明風を抱いていたい。
明風を自分の身体から離したくない。明風の身体は、本当に温かい。
こんなに苦しく悲しい心でも、明風の身体の温かさで、どこかほっとするものがある。
明風の心が愛おしい。明風の身体も愛おしい。明風を離したくない。
建礼門院は、激しく泣きじゃくり、明風を強く抱きしめた。
そして次の明風の言葉は、更に建礼門院の心をひきつけた。
「今日から、明風があの子の代わり、明風があの子に代わって親孝行する」
明風はその頬を建礼門院の濡れた頬に押し当てた。
「明風・・・」
建礼門院は、再び明風を強く抱きしめた。