建礼門院を前にして
明風のいう通り、三人の女性が入ってきた。
三人は、ゆっくりと、たおやかに座った。
この動きだけで、かなり高貴さを感じさせる。
明運、茜、お妙、明風も威儀を正して頭を下げる。
「徳子様、いや今は建礼門院様・・・お久しぶりにございます」
普段は沈着冷静な明運が緊張している。
茜とお妙は、身体が震えている。
ただ、明風だけは一旦頭を下げたものの、すぐに顔をあげ笑顔で三人の女性を見ている。
「あれあれ・・・ふふっ」
三人の女性の真ん中に座った女性が、くすりと笑った。
着ている僧衣は墨染めで地味なものの、布地の素材はかなり上質である。
おそらく、この女性が建礼門院であろう。
建礼門院の右隣には、先ほど本堂から顔を出した二十三、四歳の若い尼。
ずっと明風を見ている。
左隣には四歳ぐらい、明風より少し年上の娘、まだお下げ髪。
「国母であらせられる建礼門院様、お身体の具合はいかがでしょうか、日々のお勤めもお変わりなく・・・」
建礼門院を前に挨拶をする明運の緊張が高まる。
何しろ国母、建礼門院である。
建礼門院徳子は、平清盛の二女として生まれた。
父清盛は、保元平治の乱の勲功等により異例の速さで昇進し、武家出身で初の太政大臣となった。
その後、清盛の力を背景に、徳子は、高倉天皇の中宮となり、その入内から七年後、平家一門にとって待望の男児を産んだ。
男児は、生後一か月で、早くも立太子し、二年後には安徳天皇として即位した。
まさに、平家栄華の絶頂の時を迎えたのである。
しかし、絶頂をきわめた平家は、やがて旧来の支配勢力である貴族・寺社に対し、専横と思える所業を行うようになる。
その平家の専横に対し、貴族・寺社、他の武家が反発を強め、源平の争乱が始まった。
そのような折、父清盛は激しい熱病に犯され、死去してしまう。
平家への反発は、清盛の死後ますます強まり、ついに源義仲の軍勢が京を包囲した。
徳子は、もはや観念した兄宗盛から都落ちの意思を明かされ、ついに幼いわが子の安徳天皇を連れ、三種の神器を携えて、西海への旅に出ることになる。
しかし既に平家には、源氏の追討には抗す力がなく、建礼門院の頼みとする兄弟や叔父、甥たちは、次々に命を落とした。
そして、ついに壇ノ浦の合戦となる。
戦況は厳しい限り、とうとう安徳天皇の御座船は取り囲まれ、敗戦を覚悟した建礼門院の母、二位の尼が安徳天皇を抱いて、入水。
建礼門院も後を追うが、源氏の武士に、なんと熊手で引き上げられてしまう
国母でありながら捕らわれの身となり、再び京の地を踏み、東山の長楽寺で剃髪。
その後、京の都から離れ、山深いここ大原の寂光院に入寺した。
明運は、叡山の時代、徳子が入内する前から、叡山の座主のお供として清盛邸を訪ね、徳子には何度もお目通りをしてきた。
その頃は特に徳子と言葉を交わすことはなかったが、座主から言われたことがある。
「これから、必ず争乱の時代になる、平家と叡山は一時、もめたこともあった。しかし、あの当時は平家も上り調子、叡山もおおよそのところで鉾をおさめた」
「今後は平家もどうなるのかわからん。できれば、明運、この徳子様だけは、お前の力で守れるものならば守ってほしい・・・」
座主の言葉の意味は、その時はわからなかった。
座主はおそらく、平家の早い時期の滅亡を見通していたのだろう。
一介の僧侶である明運としては、国母でありながら、これほどの流転の人生を送ってきた建礼門院に対し、本当にどのように接したら良いのかわからない。
しかし、座主の頼みもある。
明運としても国母に、これ以上の苦しみは味あわせたくない。
頼朝やその裏にいる北条方は、ここまで苦しんだ国母に対し、大原の手前の花尻の森に動静を監視する屋敷を作った。
そのため、明運の寺は寂光院により近い道沿いに作った。
何をしでかすかわからない連中から建礼門院を守るためである。
明風が寺の門前に置かれた日に、馬の足音に反応して、即座に庵を飛び出したのも、そのためであった。