阿弥陀様のご沙汰
「あれ・・・」
明風はひどい頭痛を感じた。
あまりにも痛くて、目をなかなか開けることができない。
しだいに耳に小鳥の声や、木々の揺れる音が聞こえてくる。
少しずつ頭痛はおさまった。
痛くて開けることができなかった目を少し開けた。
「あれ?」
どう見ても、大原の寂光院である。
薄目ながらも、寂光院であることがはっきりわかる。
左手には楓の手の感触がある。
「うん、一度戻って来たの」
楓の声が聞こえた。
「一度?戻ったって?」
明風は、やっと目を見開いた。
「うん、戻りましたよ」
建礼門院の手を右手に感じた。
「え?」
明風は建礼門院を見た。
建礼門院の顔色が良くなっている。
「うん、ありがとう、身体も軽くなりました」
建礼門院は、柔らかな笑顔である。
嵐盛に連れられて来た時の、生気のない顔ではない。
「これも・・・明風、いや皇子様が阿弥陀様に祈られた功徳です」
「まさか、あのような不思議な場所で・・・海に沈んだ我が子に逢おうとは・・・」
「そしてこの腕には、まだ、あの子の重さが残っております」
「本当に、皇子様には、どれほどのお礼を申し上げたら・・・」
建礼門院は泣いている。
「この寂光院で、前後不覚となり、やっと浄土へと思った時・・・」
「何度も、この私を呼ぶ皇子様のお声が聞こえました」
「皇子様の、この手の熱さも感じました」
「そして阿弥陀様にお願いされるお声」
「そうしたら身体全体が熱くなり、あのような不思議な場所に・・・」
明風は建礼門院が自分と同じように不思議な場所にいたことを確信した。
「皇子さまとのお約束がまだ、果たされていないことと」
「そして、あの子から託された皇子様の本当の母様について」
建礼門院は、涙顔ながら真剣な顔で明風を見る。
「まず、お約束のひとつの、明風と楓の子を抱くというお約束は・・・」
建礼門院は何故か楓を見た。楓の顔が赤らむ。
「大丈夫、果たすことができるでしょう」
建礼門院はやさしい顔である。
しかし、明風はまったく理解できない。
「はやく、まず、ちゃんとした夫婦にね・・・」
建礼門院は明風と楓を交互に見る。
「確かに、それを果たさずして浄土へなど、とても旅立てません」
建礼門院は笑顔になった。
「うーん」
明風は、未だよくわからない。
「明風・・・」
楓が明風の脇をつついた。
「え?」
明風は楓を見る。
「まだわからないの?」
楓は、少し呆れ顔になっている。
「まあ、不可思議な力を持つ者は、案外自らの身近なことは、わからないようで・・・」
建礼門院は苦笑している。
「楓、そろそろですよ」
建礼門院は楓に声をかけた。
「はい、わかっています」
楓は神妙な顔で応える。
「ここで言ってしまいます?」
建礼門院は楓の顔を見た。
「うーん、まず私から、二人きりの時」
楓は、恥ずかしそうに応えた。
本当に恥ずかしそうな顔をしている。
「まあ、それはそうですね、それではしっかりと」
建礼門院は満面の笑顔になった。
顔には十分、生気が戻っている。
「それから、明風の本当の母様についてです」
建礼門院の笑顔は一変した。
そして、寝床から身体を起こした。
「え?」
明風は驚いてしまう。
楓は身体が固まってしまった。
なんと、建礼門院が正座し、明風に手を合わせているのである。
確かに明風は後鳥羽院の皇子である。
しかし、未だ親王の宣下は受けていない。
明風自身、僧侶なのか、親王なのか、これからの進む道を決めているわけではない。
明運の寺の門前に、捨て子同様に置かれ、僧侶として育ったが、僧侶として「悟り」を得たわけでもなく、まだまだ修行の身である。
ただ、実父が後鳥羽院であることがはっきりした。
父に対して、強いわだかまりはあるが、今は水無瀬で風雅の道を学んでいる。
どの道にしても、修行半ばの身である。
少なくとも「国母建礼門院」に正座され、手を合わせられるほどの身分ではない。
仮に親王としても、国母に手を合わせられるなどはありえない。
「建礼門院様・・・、そのようなことは・・・」
明風は動揺した。
普通の気高い建礼門院の姿でいい。
建礼門院に手を合わせられたら、どうしていいのか、全くわからない。
「いえ、皇子様・・・」
建礼門院は、本当に辛そうな顔である。
先ほどまでのやさしい笑顔はない。
「本当に申し訳ない」
辛そうな顔のまま、頭まで下げる。
「そのようなことを言われても」
明風は全く意味がわからない。
「どうしても、今まで、お伝えすることはできなく・・・」
建礼門院は口を真一文字に結んだ。余程の言いづらい事情だったらしい。
「しかし、もはや、そのことを明かさねばなりません」
「それもこれも・・・この争乱の世から・・・」
建礼門院は再び深く頭を明風に向かって下げた。
「建礼門院様」明風は、ますます動揺する。
争乱の世が、自らの「本当の母親」に関係しているのか・・・
明風は、建礼門院の次の言葉を待った。
建礼門院は、ようやく、その目を開けた。
「鈴音」
建礼門院は右手を握る鈴音に声をかけた。
「はい」
鈴音が静かに応える。
「明風のもとに」
建礼門院は鈴音に促した。
鈴音はゆっくりと立ち上がった。
そして建礼門院の指示通り、明風の前に座った。
「明風の手を握られよ」
再び建礼門院が促す。
「はい」
鈴音は建礼門院に応え、明風の手をそっと握った。
「これから見える世界、それは阿弥陀様からの御沙汰となります」
建礼門院は、不思議なことをいい、阿弥陀仏を唱え始めた。
「うわっ・・・」
明風はその瞬間、身体の中に稲妻が走り抜けるような痺れと衝撃を受けた。
途端に意識は、朦朧としている。
既に建礼門院や鈴音、楓、寂光院の風景はぼやけている。
そして、次第に何も見えなくなった。
明風は身体全体が震え、そして意識がなくなってしまった。




