雲の中へ
明風が建礼門院の庵に入ると、涙をいっぱいためた楓が待っていた。
楓に手招きをされ、建礼門院のいる部屋に向かう。
「何かあったの?」
楓に尋ねるが、楓は応えない。ただ泣いているだけである。
明風は強い不安を感じた。
「もしや・・・生死に関わる何かが・・・」
楓が奥の部屋の襖戸に手を添えた。
おそらく、この部屋に建礼門院がいるらしい。
明風は緊張した。
「こちらです」
涙に湿った声で楓は、襖戸を開ける。
部屋に入ると建礼門院が横になっていた。
建礼門院の右手を、鈴音が握っている。
「建礼門院様・・・」
明風は建礼門院の横に座り、声をかけた。
建礼門院の顔色はかなり悪い。
そのうえ、最後に会った時より、かなりやせている。
「建礼門院様、明風にございます」
明風は再び声をかけた。
しかし、何も反応が無い。
「明風殿が来なくなってから、食がかなり細くなって・・・」
右手を握る鈴音が首を横に振る。
「それでも明風殿からの手紙を見ると、多少笑顔になられ・・・ほんの僅かではあるけれど、お食べになられたのですが・・・」
「ここ、一週間は、ほとんど・・・昨晩より意識も無く」
鈴音の瞳から涙が溢れている。
「建礼門院様」
明風は建礼門院の左手を両手でゆっくりと握った。
建礼門院の手はかなり冷えている。
しかし、ほんの少し脈を感じる。明風はほっとする。
「まだ、脈がある、待っていてくれたのかな」
「でも、まだ浄土に行かせるわけにはいかない」
明風は目を閉じた。
明風は心の中に、阿弥陀仏を思い浮かべた。
光と温かさに包まれた阿弥陀仏を一心に思い浮かべ、阿弥陀仏にお願いをした。
「阿弥陀様、もう少しお待ちください」
「建礼門院様にどうしても、お聞きしたいことがあるのです」
「まだ約束を果たしていないこともあります、心からのお願いです」
何度も同じ言葉を繰り返した。
次第に明風は身体がかなり熱くなることを感じた。
明風の全身から汗が流れだしている。
明風の身体からの光が強くなった。
そして明風と建礼門院の身体に異変が起きた。
明風から出た乳白色の光が明風と建礼門院の身体を包み込み、ゆっくりと広がった。
建礼門院の右手を握る鈴音と楓も、乳白色の光の中に入った。
すでに部屋全体が乳白色の光に包まれている。
乳白色の光の中で明風は、握った手の感触が異なることに気がついた。
建礼門院の手ではない。握っているのは、明らかに楓の手である。
何故、握っていた手が建礼門院から、楓の手に変わったのか全くわからない。
そして、その乳白色の光の中では、楓の手の感触がわかるだけで、周囲は光が強すぎて何も見ることが出来ない。
「ここは・・・」
明風は足元を見た。
明風は、寝ている建礼門院の横に座ったはずであるが、今は座っていない。
いつ立ち上がったのか、自分でもわからない。足元は乳白色に光っている。
雲の上にいるような、ふわふわとした感覚の中、乳白色に光る雲の上に楓と手をつないで立っているのである。
「建礼門院様はどこに・・・」
明風は嵐盛から建礼門院の異変を聞き、水無瀬から全速力で馬に乗り駆けて来た。
その相手の建礼門院の姿が、乳白色の光の中で全く見ることが出来ない。
そして不思議なことに、暑い夏の日に全速力で駆けて来たにも関わらず汗を何もかいていおらず、身体の疲れも何も感じない。
「明風・・・」
楓の声が聞こえて来た。
と同時に楓の手の力が強くなった。
「うん、聞こえるよ」
明風も、少し力を強めて楓の手を握る。
この不思議な乳白色の光の中で、楓の声とその手の力だけが、「確か」なのである。
「ここは、どこ?」楓も状況がつかめないようだ。
楓は不安な声である。
「うん、まだ、どこなのかわからない、阿弥陀様にお願いしたんだ、一心に建礼門院様をお救い下さいって、そうしたら、ここにいる」明風
「うん、でも、建礼門院様はどこに?」楓
「全く前が見えない、そもそも、ここは寂光院なの?」明風も、困惑している。
「雲の上だよね」楓
「うん・・・建礼門院様も見えないけれど、鈴音様も見えない」明風
「うん・・・どこに行ってしまったのかな、怖いよ・・・」
楓は不安を隠しきれない。握る手の力が一層強くなった。
「うーん・・・」
明風は、目を瞬かせながら、辺りを見回しはじめた。
「何かわかる?」
楓はまだ眼をあけることが出来ない。
「うん、少しずつだけれど、周りが見えるようになった」明風
「え?それで、建礼門院様は見える?」
楓の声が緊張する。
「建礼門院様は見えない、いや、光の強さが違うということだけわかる」
「光が来る方向というのか、方角というのかな、その違いは、わかる」明風
「でも、雲の中だよね」楓
「うん、雲の中の光も強いところと弱いところがある」明風
「足は動く?ふわふわした雲の上みたいだけど」楓
「うん、動けるかな」明風は一歩踏み出してみた。
「雲の上だけど、下に落ちることはなさそう」明風
「歩いてみようか」楓
「うん、あの光の強いところが、気になる」明風
「点滅している」楓もようやく眼を開けた。
「呼んでいるみたいだ」
明風と楓は、その点滅する強い光に向かって歩き出した。




