後鳥羽院と白拍子
後鳥羽院は高倉天皇の第四皇子として生まれた。
即位は寿永二年、五歳の時である。
平家が安徳天皇や建礼門院を伴って都落ちの際に、三種の神器を持ち去ってしまい、結果として神器を伴わない即位となった。
若いころから、蹴鞠、琵琶、笛、相撲、水練、射芸に熱中し、また和歌には特異な才能と関心をよせた。
その結果が、新古今和歌集の選であり、今、明風たちの前を歩く藤原定家も選者として後鳥羽院に取り上げられたのである。
「本当に何をやっても、人並み以上に熱中し、こなされる」
「面白いとあれば、身分の上下など気になさらない」
栄西は、日ごろの後鳥羽院の行状を思い浮かべ、複雑な笑みを浮かべる。
「そうだなあ・・・」
明運もあまり浮かれない顔になる。
「最近はな、あの連中がでかい顔だ、それで定家もあまり、いい顔をしない」
栄西は前を歩く定家のしかめ面がわかるようだ。
「鼓打ちとか、琵琶弾きぐらいならいいけどなあ」
「白拍子となると」
明運は、心配が深くなってきている。
白拍子は中世日本における芸能民集団に属し、今様や朗詠を歌いながら舞う舞女である。
男や子供の白拍子もいたが、ほとんどは女である。
また。芸能民集団は、芸能ばかりではなく、櫛、馬、綿等の売買にも従事し、諸国を自由に通行して活動を行うものもいる。
その自由な遍歴ともいえる往来自由は、そもそも後白河院が、漁撈の民、商工業者、人形使いや舞女、白拍子、遊女まで含む諸芸人等の非農業民を保護していたことに由来する。
公卿にしても、舞女、白拍子を母とする人が数多くみられる。
さらには、これらの女性を母とする皇子さえいたのである。
事実として、後白河院のあと結果的に治天の君となった後鳥羽院の屋敷にも、多くの遊女や白拍子が、ほぼ木戸御免で出入りしている。
なかでも仙洞御所においては、白拍子等の諸芸人による猿楽の乱舞等が連日連夜である。
「明風は、まあ、あのような連中には馴染めないだろうなあ」
栄西も不安である。
「なにしろ、まだ仏道しか教えていない」明運
「当たり前だ、お前はそれしか教えられない、しいて付け加えれば、刀槍だ」栄西
「刀槍は、あまり教えていないが、まあ、強くもなく、弱くもない」明運
「そうか、多少は教えたのか」栄西
「ただ、特徴はある」明運
「特徴?刀槍の?」栄西
「ああ、守り上手だ、ほとんどよけられてしまう」
「打ち込まれることもないが」
明運は、明風の不思議な特徴を語る。
「ああ、それは読まれているのかもしれないな」栄西
「そういう気もするが、何しろ、戦いに覇気が見られん」明運
「いや、あれが覇気を持ったら、誰も・・・」
栄西が言いかけた時、明風が突然振り向いた。
「あの、争い事は大嫌いです」
明風は、難しい顔をしている。
そしてすぐに前を向いた。
「・・・読まれたか」
栄西は、首を横に振る。
「よそう、何も考えるな」
明運も、お手上げの状態である。




