菊の御紋
栄西はここで公案を更に出すことを止めた。
既に夕日が僧房の中に差し込んできている。明風に少し休憩を与えなければならない。
少なくとも昨日からの京歩きで、明風に落ち着く時間も必要だと思った。
明風に、しばしの座禅を指示し、僧房の外に出た。
「終わったか」
僧房の外には明運が立っていた。
「ああ、なかなか」
栄西は苦笑する。
「なかなかとは、何だ」明運
「いや、禅では、それほど知識の多寡を問わない」栄西
「意味がわからん」明運
「簡単に言えばだ、心は通じた、明風の心は、緑の野原に清々しい風が吹いているな」
「その心に触れたのさ」
栄西は嬉しそうな顔をする。
「そうか、感じてくれたのか」
明運も嬉しそうな顔になる。
「よく育てたなあ、大変なことをな」
「こんなことは明運にしか頼めなかったのだと思う」
栄西が明運をねぎらう。
「まあ、頼まれたことは守るさ、あの御紋を見れば、しかたがない」
明運の顔が厳しくなる。
「そのお方から書状をいただいた」
栄西も厳しい顔になった。
「ああ、やはりな」
明運は何故か納得したような顔である。
「やはりって知っていたのか?」
栄西は怪訝な顔になる。
少なくとも、明運が知っていることはありえない。
嵐盛も明運には「知らせていない」と言っていた。
嵐盛は、嘘偽りを言う人間ではない。
「いや、嵐盛が嘘偽りを言うことはない」
明運は栄西が心に思ったことをそのまま言う。
「おい、また読んだのか、全く」
栄西は、明運が心を読んだことに、あきれている。
「そう、変な顔をするな。禅僧は泰然自若でなければな」
明運は、読めてしまったことは仕方がないと言った顔をする。
「それにな」明運
「うん」栄西
「お前の僧衣の中の書状の御紋を教えたのは明風だ、明運は読めなかった」明運
「何だって?」
どうして、自分の僧衣の中にある書状がわかるのか。
そのうえ、その書状の御紋まで・・・
明運なら、ある程度、そのような力はあることは知っていた。
しかし、その明運が読めないようなものを、明風は読んでしまったのか・・・
栄西は、身体が震えている。
「何だってじゃない、事実だ」明運
「そんな、まさか・・・」
栄西は明らかに動揺する。
先ほどまでの風が動くとかいった公案どころではない。
「おいおい、お前の心が揺れてどうする」
「それじゃ師匠がつとまらんぞ、まして明風相手に」
明運は、本音だった。
明風の「力」に、一々動揺していたら師匠は出来ない。
それは、昨日からの京歩きで、自ら実感している。
そして、おそらく法然も親鸞も感じ取っているはずである。
「・・・そうか・・・」
栄西は、明運の言葉の意味の一部ではあるが、理解した。
「それでな」
栄西は話を進めようと思った。
「扇子を動かさなければ風は起きない」
栄西は明風に出した自らの公案を思い出し、苦笑する。
「わけがわからん笑いをするな」
ここでまた明運に突っ込まれるが、気にしていては話が前に進まない。
「隣の僧房で」
栄西は、隣の僧房を指さした。外では話が進められないらしい。
「うん、それがいいだろう」
明運も栄西の意図を理解した。
栄西と明運は隣の僧房に入った。
「これだ・・・」
栄西は少し緊張しながらも、卓の上に書状を置いた。
明風が「読んだ」ように、「御紋」が押されている。
「開けよう」
明運の声も少し震えた。
「うん・・・」
栄西は、ゆっくりと封をほどく。
「書状」の内容が、栄西と明運の前に明らかになった。
内容そのものは、至極単純なものである。
「むぅ・・・」
明運が口をきつく結んだ。
「これは・・・」
栄西も言葉を発することが出来ない。
「菊の御紋か」
やっと明運が口を開いた。
明運は明風が明運の寺の門前に置かれた日を思い出す。
本当に寒い日だった。馬の音に驚いた。
「もしや鎌倉方が建礼門院様のお寺に、何か無礼なことを・・・」
「建礼門院様をお守りしなければ」その思いだけで、庵を飛び出した。
槍を携え、戦闘も覚悟した。何しろ、鎌倉方は、何をするかわからない。
追いつめて、天子さえ海に沈めてしまうような、人に非ざる下賤な輩たちだ。
しかし、寺の門前で明運が見たのは、この「菊の御紋の産着」に包まれた赤子である。
明風を育てながら、いつもこの「菊の御紋」が心にあった。
それ故、明風の育て方は慎重を極めた。
「御紋」のことを伝えたのは、本当に心が通じ、信頼している相手だけに限られた。
「十六の菊弁の書状は、これだけの言葉しかない」
栄西は書かれていることの意味を考える。
「水無瀬へ・・・か」明運も眼を閉じる。
この単純な書状の意味を探らなくてはいけない。
書状の要素は二つだけである。
すなわち、「菊の御紋」と「水無瀬へ」だけである。
「この書状を素直に読めば」
栄西は、慎重に言葉を選ぶ。
「うん」明運
「菊の御紋が、水無瀬へと招いているということだ」栄西
「その通りだ」明運
「この単純にして要件のみの書状、受け取った相手の都合は何も考えていない」栄西
「いや、この御紋のお方は、相手の都合を考える必要はない」
「それができる唯一のお方だ」
明運は、栄西の心が揺れていると感じた。
少し強めに言い切った。そして自分の迷いも断ち切った。
「菊の御紋に招かれれば、行くしかない」
明運は、栄西を強い目で見つめた。
「そうだな、逆らうことができるものではない」
栄西も、心を決めた。
「さて、それなら準備だ、一度着替えねば」
明運は立ち上がった。
「そうだな、とても、その汗臭い恰好では」
栄西も明運に同調する。
「我がままを通せる唯一のお方」に会える恰好ではない。
そしてその恰好は明風もしかりである。
「この寺の物を使え」
栄西は、建仁寺に置いてある僧衣を使わせることにした。
「いや、かたじけない」
明運は、丁寧に礼を言う。
「まあ、僧衣を取りに大原に戻ったなどと言えば、何を言われるかわからん」
栄西は苦笑する。
「そうだな、何しろ遅いことを好まれぬ」
明運も苦笑している。
「しかし、本当に急がねばならないようだ」
栄西が突然、立ち上がった。
「ん・・・」明運も立ち上がった。
僧房の外から何か音が聞こえてくる。
人の声も多い。
「出よう」
栄西は、慌てて僧房の外に出る。
「うん」
明運も続く。
「まさか、また不穏なことでも・・・栄西の寺にまではないだろうが」
栄西と明運は、不安を抱えながら僧房を出た。
「・・・これは・・・」
僧房を出た栄西と明運の前に、信じがたい情景が広がっていた。




