公案禅と明風
公案の本来の意味は、権威を持った公文書のことである。
公の法則及び条文であり、それに対しては、一切の私情を差し挟むことは許されない。
つまり、必ず遵守しなければならない規則を意味するものである。
これを禅宗では、仏陀の教え、道理の譬えを導くためのものとして用いている。
修行者が一切の分別や私情を交えず考え、会得しなければならない、それが公案である。
公案の出題は、眼前の状況をまず真理・真実であるとし、それをどのように受け取るのかを問う。
問題も種々雑多である。
仏そのものを問うもの、修行に関するもの、悟りに関するもの、座禅について、人生観、世界観、謎解きのようなものまである。
また、師匠が、そのような問題を出すにあたっては、何等かの理由がある。
その理由を、出された弟子は懸命に考える。
その考えることにより、一歩一歩悟りに近づく、また思考が深ければ即座に悟りに到達できるという。
「まず、第一の問題である。」
栄西は、明風を一旦見つめ、それから僧房の外を見た。
「僧房の外に、幡が立ててある」
栄西は、見た通りのことを言う。
確かに幡が立てられ、風に揺れている。
「さて、そこで問題だ」
栄西は再び明風を見た。
「幡が動いている」「いや風が吹いている」
「昔な、禅坊主たちがな、それで言い争いになったそうだ」
「明風殿は、どう考える」
栄西は、含み笑いをしている。
明風は、あきれてしまった。
風が吹いて幡に触れるから、幡が揺れる。幡だけのことではないし、風だけでもない。
両方、幡も風もあるから、幡が揺れる状態になるのである。
「幡が動いている」にしろ「風が吹いている」にしろ、どちらかには、決められない。
そもそも、どうして、二つの原因が重なり合って生じている現象を、わざわざ二つに分けるのか、質問の意図そのものがわからない。
素直に考えればすぐにわかる、簡単としか言いようがない現象なのに、それで「集団で言い争い」まで起こすとは・・・
一人で考えればすぐに「風が吹いたから幡が揺れる」と考えるだろう。
複数や集団になるから、その面子争いで、一つの意見に固執する。
真理や真実を見ないで、一つの意見に固執する。
そして、ついには徒党を組んで相手を滅ぼそうとする。
そういう一つの意見に固執して相手を認めないから、争いが起きると考える。
明風は、考えを進めるほど、簡単ではない深い問題であると感じた。
しかし、そろそろ栄西の質問に答えねばならない。
「栄西様」
明風は多少の不安を抱えながら答えることにした。
「うん、言ってみるがいい」
栄西は明風の答えを待つ。
未熟なら未熟でいい、素直に答えればそれでいいと思った。
「どちらでもあり、どちらでもありません」明風
「うん」栄西
「問題は、言い争いをしている人たちの心だと思います」
「どちらでもないことなのに、面子にこだわりどちらかに固執してしまうから、争いの原因が起き、真実から離れるのだと」
明風は、たどたどしいながら必死に考えを述べた。
何しろ、眼の前にいるのは、超一流の僧侶栄西なのである。
「ふむ」
栄西は、一応は満足した。
公案等考えたのは、今日が初めてだろうし、教科書通りの答えである。
しかし、考え方の方向性は間違いではなく、その意味での「一応」の満足なのである。
「では、第二問である、少し難しい」
栄西は、ゆっくりと話し出した。
「その昔、ある国に、父親思いの娘がいた。
その娘は父親との二人暮らしをしていたが、娘は妙齢となり結婚したいという相手ができた。しかし、父親はどうしても結婚を許さない。
娘は 相当思い悩むが、とうとう彼との愛を選び駆け落ちのようにして家を出た。
家を出てからの暮らしは苦しいものであったが、夫と協力しあい、子供もでき、立派な家を建てた。
娘は結婚して以来、父親の家に帰ることがためらわれ、戻ることはなかったが、どうしても父親の顔が見たくなった。
また父親に夫や孫の顔を見せたく思い、一度、家に戻ることにした。
家に入っていくと 驚くことに血の気のない顔をして寝ている自分がいた。
駆け落ちをした日から、血の気のない顔で寝ているだけで、何も答えないとのこと。
しかし、駆け落ちした娘が近づくと、二人は一人となり、その後父親、夫、子どもたちと幸せに暮らしたとのことだ」
栄西は、ここまで話し、一旦息を吐いた。
「さて、駆け落ちした娘と、寝たきりの娘と、どちらが本当の娘なのか」
これが質問であった。
明風はすぐにわからなかった。
そもそも、これが公案だろうかと疑問だった。公案というより、民話ではないかと。
明風は考え出した。
ここで「どちらが本当の娘なのか」などと質問するから、話が複雑になる。
自分の幸せを願う心を持つことは当然であり、そのため父の反対を押し切って家を出た。その後、苦しいながらも夫と協力し懸命に働き、子供もでき、立派な家まで建てた。
それは褒められる話だと思う。
しかし、一方、自分を育ててくれた父親への想いは、簡単に捨て切れるものではない。
懸命に働き、幸せな暮らしを築いた中でも、心に父への想いが消えることはない。
確かに幸せな暮らしを築いたが、心の一部は父の家にいるのである。
明風は娘の心を考えた。
娘は、どうしても父に逢いたくなった。
怒られるかもしれないけれど、夫や孫の顔を見せたい。
少しでも恩返しをしたい、心に決めて父の家の門をくぐる。
その時、どれだけ緊張しただろうか、どれ程懐かしかっただろうか。
夫や子供はどんな気持ちだったろうか。
自分の顔を見て、父はどういう顔をするのだろうか。
そこまで考えて明風は泣きだした。
娘を見る父の顔、父の顔を見る娘の顔。
夫や孫を見る父の笑顔。
横たわる自分を見ても理由はわかっている。
心の一部がずっとここで寝ている。
心の一部は父と一緒にいた、離れられなかったのである。
横たわる自分に近づくと、二つの身体が一つになった。
やっと一人の人間に戻れたのである。
明風は、涙が止まらなかった。
「こんな・・・いい話は・・・答えられません」
「うん、それでいい」
栄西も明風の涙で感動してしまった。
確かに様々な解釈が分かれる公案であり、難問中の難問とされるものである。
ただ明風には、素直に考え、応えてもらいたかった。
「血を分けた親子の情」
明風に欠けるものは、それである。
そもそも、実の両親の顔を見たことが無い。
この公案で少しでも、感じてもらえればいい。
栄西はその思いで、この公案を選んだのである。
第三問は、栄西は、これは明風にささげる公案だと言った。
「昔な、暑い日に一人扇子を使って涼をとっていた禅僧がいた」
「そこに、一人の僧が尋ねてきて雑談をした後、その客僧が質問をしたそうだ」
「風の本性は、どこでも変わることなく吹いているのではないか」
ところが扇子を使っている禅僧は「その通り」といい、相変わらず扇子を使い続ける。
「風はどこでも変わらず吹いているのに、どうしてわざわざ扇子をお使いになるのか」
再び、客僧が尋ねるが、相変わらず禅僧は扇子を使い続けた。
客僧は、そこで何かを感じたのか、深い礼をして、その場を立ち去ったそうだ」
「で、問題はこれを解説することだ」
栄西はここで、眼を閉じた。
しばらく明風の答えを待つ。
明風はここでも難儀する。
暑い日なので、涼しい風が欲しいのは当たり前である。
それなのに、その客僧は、「風の本性はどこでも変わることなく吹くのだから、扇子を使うのはおかしい」と考え、禅僧に問い詰めるように質問するが、禅僧は扇子を使い続ける。
そして客僧は何かを感じて、深く礼をして禅僧の前から立ち去った。
そもそも、「風の本性はどこでも変わらなく吹くから、扇子は不要」との考えがおかしい。
実際に風が吹いていないのだから暑い。暑いから涼を取りたいから扇子を使う。
当たり前の話ではないか。
「風の本性はどこでも変わらないで吹く」と言うのは、「風」の意味が異なる。
観念的な意味での「風」と、空気の動きそのものの「風」ではないか。
それに、その客僧は、暑くないのか、何故一緒に扇子を使わないのか。
ここでも「面子とやせ我慢なのか」と思ったが、栄西がそんな単純な問題は出さないと思った。
つまり風の本性はどこにでも吹いているとはいえ、何もしないで手に入るわけではない。
禅僧は扇子で仰いで、「どこにでも吹く風」を手に入れた。
扇子を使うのが早道だからである。
そして、扇子を使って風を手に入れたから、涼が取れる。
何もしない客僧は「何もしなかったことに気がついたのではないか」
それだから、いささか問い詰めるようなことをした自分を恥じ、禅僧に深く礼をして立ち去ったのではないか。
栄西殿は自分に捧げる公案と言った。その場合、風と扇子が要点だと思う。
風とは、暑い日に涼を与えてくれるもので、扇子はその道具になる。
しかし、扇子を使わねば風は動かず、涼も取れない。
明風は自分が僧侶である以上、風は人々に対する救いとか癒しだと思った。
扇子はその道具であり、今修行している仏法であると思った。
明風は、ここで身体全体が熱くなることを感じた。
そして栄西を見つめた。
「わかりました、ますます、仏法の修行に励み、人々をお救いいたします」
明風は栄西に平伏した。
栄西は、満足そうに頷いていた。




