式子内親王の想い人
下鴨神社の御手洗池は、葵祭の際に、斎王がその手を浸し清める場所である。
長明はその神聖な水を自分たちのために明風が使ってしまったことを、驚いている。
しかし、二人とも気を失ってしまったのだから、どうしようもなかった。
「御手洗社は罪穢れを払い除く神様だろう、まあ今更、あまり気にするな」
明運は開き直っている。
未だ頭がぼんやりとしている二人のところに明風が戻ってきた。
冷たく濡らした手ぬぐいを二人に渡す。
「御手洗社の神様も、そんなこと気にしていませんよ」
明風は長明の顔を見た。
「ふっ・・・」
長明は心を読まれたと思った。
明風のその力は明運から聞いていた。ただ、それがわが身に現実となった。
それはそれで、不思議であり、面白いと思った。
しかし、明風の次の言葉で長明の表情が一変する。
「あの御手洗池には、いろんな人の想いが映っていますね」
「綺麗なお姫様がたくさん見えました」
明風は、少し、はにかんだような表情を見せる。
「以前この神社にお仕えしていたお姫様で、和歌のすごく上手な・・・」
「その人の想いが、飛び込んできました、建礼門院様とお年が近いかなあ」
「長明様もお逢いしたことがあるはず」
明風は微笑み、目の光が強くなった。
「うっ・・・」
長明は身体が震えた。
建礼門院と年が近く、ここの斎院を務めたとすれば、あの人しかいない。
明風の見通す力は、そんなことまで見えてしまうのか。
「式子内親王様か・・・」
明運が長明の肩をたたいた。
「ああ、憧れだった」
長明は苦笑する。
逢ったことがあるといっても、和歌の席に同席したぐらい。
明運とはその時以来の友人、悪友である。
明運は清盛の手配で和歌の会に参加したと言っていた。
式子内親王は、後白河院の三女にして賀茂斎院。
長明とは身分の格差がありすぎる。
ただ河合神社と下鴨神社は近い。
和歌の席以外は葵祭の際に「優先的に見かける」程度なのである。
しかし、式子内親王の歌の才能は、素晴らしかった。
才能だけではない。彼女の詠むひとつひとつの歌が、長明の心に響き渡る。
長明がどれ程技巧を凝らしても、彼女の歌には届かない。
悔しいけれど、かなわないものは、仕方がない。
せめて歌で彼女にかなう力があれば、一言二言話ぐらいはできたかもしれない。
しかし話などできなかった。その意味で「憧れ」なのである。
「問題はあいつか」
明運は誰とは言わなかった。
「ああ、あいつだ」
長明が舌打ちをする。
「確かに歌詠みとしては超一流、まあ幽玄の世界をうたわせたら、あいつ以外はカスだ」
「歌の技巧では、今後あいつ以上の者は出ない、だけどなあ」
長明はため息をつく。
「だけどって?」明運
「親の威光で式子内親王様の家司になる」
「そりゃ、親の俊成様は立派だ、それは否定しない」
「しかし、家司という立場を利用して内親王様に取り入ろうって考えが気に入らない」
「あいつが看病の真似事をしたから、哀れにも内親王様は大切なお命を落とされたんだ」
「どうもあいつは、普通の仕事ができない」
「単なる技巧だけの歌詠み、本当は性格が悪いんじゃないか」
長明はそう言ってまくしたてる。
明運は苦笑しながら聞いている。
しかし、あまりにも長い「まくしたて」に飽きた。
「お前は出家者だろうに、俗世を捨てたんだろう」
明運はあきれたように言う。
「それはそうなんだろうけどなあ」
長明は、案外往生際が悪い。
明風は長明の長口舌と明運とのやり取りを、笑いながら聞いていた。
長明と明運のやり取りが一瞬途切れた時に口をはさんだ。
「長明様」
明風は長明の顔を見る。相変わらず笑顔である。
「うん?」
長明も明風を見た。
「内親王様ですか?内親王様の想い人は、定家様ではなかったそうですよ」
明運はクスッと笑う。
「え?」
長明の表情が変わった。
「あまりにも年下で、興味がなかったそうで」明風
「うん・・・」
長明も明運も明風の次の言葉を待っている。
「法然様でもなく」明風
「うん」
もしやと思っていた名前が出てきた。長明の顔が本気になる。
「もしかすると・・・」
明風は長明の顔を真っ直ぐに見て、クスっと笑った。
「え?」
長明は次の言葉を待つ。
「ここまでにしておきましょう、ご神域ですから」
明風は、またクスッと笑い、それ以上は言わなかった。
「おいおい・・・」
長明も明運も残念そうな顔をする。
「はい、でもこの話は・・・」明風
「うん」長明
「半分以上は、建礼門院様が教えてくれた話です」
明風はそう言って空を見上げた。
再びその瞳がキラキラと光っている。
明運と明風、そして長明は再び糺の森を通って戻る。
長明とは、河合神社の前で別れた。
「いやあ、今日はありがとう」
明運が長明にお礼を言っている。
「いやいや、楽しかった」
長明もうれしそうだ。
「これで長年の胸のつかえも軽くなった」
長明は明風を見る。
明風は微笑んでいる。
「いつか、明風にも礼をせねば」長明
「お前のお礼は怪しいぞ」
明運がニヤッと笑う。
「ん?」長明
「まさか遁世の教えかもなあ」
明運は、そう言って大笑いをする。
「全く持って性格が悪いのはお前のほうだ」
長明も大笑いである。
「さあっ、遁世の教えはひとまず、都でひと騒ぎ起こせ」
長明は明風の背中をポンと押した。
「ありがとうございます」
明風は笑顔で長明に手を合わせた。
「では」
明運は右手を軽く上げて長明に別れを告げた。
長明は二人が見えなくなるまで見送っていた。




