建礼門院の不安と嵐盛
建礼門院は本堂の地蔵菩薩の前で読経をしていた。
建礼門院は雨の日は特に気分がすぐれない。雨の音が水の音となり、海の音となる。
どうしても、わが子を失った日のことを思い出してしまう。
「いったい、誰が悪いの?」
父清盛の命で中宮となり男子を産んだ。その男子は武家の血をひく最初の天子となった。
その後、父清盛は他の源氏などの武家だけではなく、旧来の支配勢力である公家たちまで、ないがしろにして、平家だけを重用した。
しかし、それは当然、周囲の反感を呼び、とうとう争乱の世に導いてしまった。
「そもそも天子など産まなければ・・・いや、あの子が天子にならなければ・・・」
あの子も死ぬこともなければ、私もこんな流転の人生を送ることもなかった。
他にも、思い出すことは限りなくあるが、いつも堂々巡りである。
読経をしていても同じこと、結局気が晴れることはない。
「こんな日は何をしているのだろう」
建礼門院は「わが子になる」と言った明風が気になった。
明風と一緒にいる時だけ、この世の憂さが消え去る。
明風が笑うと心の中の淀みや苦しみが溶けてしまう。
明風と一緒にいる時だけが生きている気がする。
しかし、雨はどんどん激しさを増している。
建礼門院は、何か言いようのない不安を覚え、どうしても明風の様子を知りたくなった。
「もし、風邪をひいていたら薬を、寒かったら綿入れを」
豪雨の中ではあるが、長年使っている寺男を呼び、明運の寺に走らせることにした。
「とにかく不安なの、明風がお前の目の前で書いたものを何か持ってきて」
「あの子の顔をしっかり見てきて」
雨音は激しさを増し、建礼門院の不安は高まる。
「わかりました」
寺男にしても、かなり歳を取っている。
この豪雨の中では気が進まないが、国母建礼門院の言葉であれば、応えるしかない。
「では」
寺男が本堂を出ようとしたその時、地蔵菩薩の足元の床板が、ガタンと動いた。
「しばし・・・」
男の声がして、床板が外された。
建礼門院が驚く中、床板の下から総髪の男が顔を出した。
「おおっ・・・」
建礼門院は男のもとに近寄った。
「お久しぶりです、建礼門院様」
総髪の男は本堂に上り、頭を下げる。
なんと、明運の双子の兄、嵐盛である。
「確かに久しぶりです、嵐盛」
建礼門院は、ますます驚いてしまう。
清盛の館にいた時からの知り合いである。
叡山の座主の紹介で明運と一緒に来ることが多かった。
明運は読経を行い、嵐盛は庭を手掛けた。この寂光院の庭も実は、嵐盛の設計である。
「明風は、今明運の寺にはいません」嵐盛
「え?」建礼門院
「実は、明信と大原の里に出向き、読経や説法をしていたらしいのですが・・・」嵐盛
「うん」建礼門院
「途中で、こんな大雨になり、雷もなり・・・その後・・・」
嵐盛の顔が曇る。
「その後、どこにいるの?」建礼門院の声が震える。
「いや、行方が知れず・・・明運の寺に戻ってなかったので、もしやと思い・・・」
「明運の寺から駆けつけて見たのですが・・・」嵐盛
「それから建礼門院様にはご報告しておりませんでしたが、火急の連絡等のためにと、明運の寺の本堂の下から、ここの本堂の下まで、地下道を掘りました」
「いざという時の・・・」
嵐盛の声も低くなる。
突然大きな雷が鳴った。あまりの大きさに本堂が震えた。
建礼門院が蒼くなった。
「そんなことはどうでもいい!明風を探し出してください」
「どんな状態でもいい、早く、ここに、この母のところに・・・」
建礼門院は泣き伏してしまった。




