混沌のハーモニー(三十と一夜の短篇第27回)
草木が揺れている。
風が凪ぐ。
上空で止まった雲が、動きをなくしたが、形だけは少しずつ変えていっているようだった。
虫がずっと私の周囲を飛んでいる。
何も考えないで、私は虚空を見ていた。
見たままの光景が付属情報など何もなく、そのまま入って来るばかりで、この時間がただ私には快適だった。
このままいられたらどれほどいいものか。
もうすぐ、戦が始まるとの噂だった。
平穏だというだけの理由で滞在しているこの国も、今やその唯一の取り柄である平穏さを、失ってしまうというのだから、またも僕は移動しなければならないようだ。
風を感じていられるこの草原に寝転ぶ日も、もうないのだろうか。
ふと、美しく咲いている花を摘んだ。
手折られた花は尚も美しく、無情な運命には負けない、強さを持っているようだった。
一生懸命に咲いていた花を外から殺した、私のしていることこそが、国王たちが盛んにしていることなのだろう。
国王たち、あるいはその側近たち、か。
国内の領土を広げるという幻想に囚われて、永遠に満足しない、無限の空腹に晒されている。それのいかに憐れなることか。
私の職業は音楽家。
宮廷や教会に呼ばれて、オルガンを奏でる日々は楽しい。
戦争中であろうとも、呼ばれたら国を越えるし、だれもに仕えておりだれにも仕えていない。
強いて挙げるなら、この私の主君となるものは、自然だというものかな。
偉大であり、だれに侵されることもなく、だれもに慈悲を与え愛されて存在する、この自然というものの価値を、知ってもらいたいものだ。
そうしたら、戦の馬鹿らしさとて伝わるはずだ。
神は争いを望まなかった。
隣人愛を語るその口で、多くの人を惨殺する令を出すのだから、救世主の誕生から暫く、世界は随分と荒れてしまったものだと思う。
私はしがない音楽家、何をする力があるでもない。
できることといえば、想いを音楽に乗せて、聞く人に届けることだけ。それとて、受け取り手に正しく届かなければ、何を意味なすでもないのだ。
結局は、私は民の苦しみを生贄に、娯楽を提供するだけなのだ。
思考はいつでも私を嫌な気分にさせるから、もう少しだけ、無の時間を楽しんでいたくて、私は意識を手放そうとした。
先程の花が風に吹かれて、無残にも私の上に花びらを散らした。
つまりは、そういうことなのだ。
思ってしまえばもう無理で、我が音楽の感性までもが奪われてしまう前に、私は歩き出す他なかった。
この田舎にまで広がってこようとしているのでは、世界の中に、戦に巻き込まれないで済む場所などもう残っていないのではないだろうか。
いっそ狙われた平和の地、ローマへでも行くとしようか。
少なくとも、これから平穏を壊され、強制的に戦地にさせられようとしているこの国よりは、安全であるに違いない。
神のご加護がある。教会で奏でられる音楽には、殺気立った兵たちとて武器を捨てるはずだ。
どれほどの罪を犯し人道を外れた人であろうと、神殿を穢すようなことはしないように、神への祈りを捧げるものを、神の御前で殺めるもののいるものか。
教会にいればこそ、神がお救いくださることだろう。
遠くの勝ち鬨も死臭も戦火も、気付いていないふりをして、極めて涼やかな顔で私は歩いた。
花々に彩られた豪奢かつ自然的な香りのする上品な屋敷への招かれであり、あの日は、ひどく上機嫌であったことを覚えている。
若かった私はまだ戦というものをよく知らなかった。
幾度となくその戦火に呑まれてきたはずであるのに、なぜだかそれまでの私は、いつの日も自分ばかりが救われていた。
神に愛された存在たることを本気で信じていたし、なのだから、音楽の才の他にも特殊な力を持っていることを当然だと思っていた。
全くもって偶然からなる勘違いであり、愚かにもいつか神の名を騙り、そのくせ散った命に祈りも捧げなかったものだから、天罰が下ったのであるに違いないのだろう。
指が鍵盤を叩いたとき、音を立てて鍵盤が崩れ出したのだ。
原因は敵の襲撃であった。
外から美しくも脆い壁の屋敷を打ち、壁に面していたパイプオルガンが、真っ先に壊れてしまったというわけであろう。
衝撃の中に私は放り出され、一刹那前には私の演奏に聞き惚れてくれていた人が、死体へと変わる様を見た。
殺されてもよかったはずなのに、そのときにも私は生かされてしまった。
さすがに無傷とはいかなかったものの、命が脅かされるほどの傷は負わなかったし、そういう意味では、神が特殊な力で助けてくれたのだと言えなくもない。
あの惨さは、思い出せば吐き気を催すような、一旦はその場で死んでしまいたかったと願うほどの光景ではあったが、それでも私は生かされていた。
今もまた、思い出して辛くなる。
あれ以来ローマへは行けなかったもので、もう十年ぶりくらいになるだろうか。
トラウマも根強いけれど、懐かしさがあることも真実に決まっていた。
それなのに、私は、懐かしさのためにも一歩を踏み出すことができなかった。
辿り着いたその場所は、私が知っている姿とは違ってしまっていたから。
血に汚れた街となる影というものは、見ないふりを必死にしていたとはいえ、こうも影の深くなっていようとは思わなんだ。
そのあまりの悔しさに私は笛を取った。
オルガン至上主義は変わっていないからこそ、今は、笛を吹きたいと思った。
懐にしまってはあるものの、あまり位の高い方に聴かせるものでもないと、自然の中でのみ吹いてきた笛。
それを口に挟み、哀しみの旋律を奏でつ、私は街中を独り行進した。
この音が途切れたら、私の命も途切れてしまう。
今まで私が生かされてきたのは、この意味であったことか。
演奏の中で自分でも発見させられ、たった一本の笛からなる旋律が、徐々に広がっていっているような錯覚に陥った。
まるでハーモニーであった。
私の音色に主君が応えてくれているようだった。
風は荒れ、空が灰色になり始める。
もしやこの街が私をそんな気分にさせる力を持っているのか、あの愚かしい感覚が蘇ってくる。
私は選ばれた存在にして、また、私こそが人々に待望された救世主なのだ。
変な気分になって、いつの間にか私はどこへまでも走って行ってしまっていた。
遥か彼方へまで駆け回っていた私を雷が貫いた。
私は、死んだらしかった。雷によって、天へと誘われて、それは私が選ばれし存在である証明に違いなかった。
一人の音楽家が死んでいた。
音楽家らしく、オルガン砲と名の付くものに撃たれて、所謂ただの流れ弾であったのだが、選民思想だけでなく救世主であるという自惚れまでを抱えて、彼は死んだ。
彼が愛していた草花が、彼を包み隠したもので、かつて一世風靡した音楽家は死体もなく死んでいた。
消えて、いた。
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