第十八話 変わったのは誰ですか?
正直、ラファエルのキスシーンを見てから今までどういう行動をしてきたのか覚えていない。
シルヴィア様からは何度か心配されたけど、仕事は完璧にこなせていたらしい。長年身に染み付いた習慣とはこういった所で役に立つ。
まるで夢遊病の様な意識の無い体が勝手に動く感覚に自我が戻ったのは、久しぶりに正面から見た私の動揺の種。
ラファエルが、壁に肩を預け行く手を遮る様に立っているから。
「久しぶり……でもないかな。この間会ったばっかだもんね」
「…………」
「まぁあれは会ったって言わないか、ニアすぐどっか行っちゃったし」
いつも通りだ。いつもと変わらない、ラーナ様と出会う前と同じラファエル。私の日常に欠かせない友人の姿なのに、心は不安定なまま揺らぎ続けている。
昨日のキスさえ見なければ、きっと当たり前が戻って来たはずなのに。
「何で……」
「ん?」
「何で、そんなに普通なの」
あんなシーンを見られて、どうしてそんなにも平静でいられるのか。
ラーナ様は男爵家の令嬢、いくら王子の専属といえど執事には変わりない。例えキスをしたのがラーナ様からでも、令嬢に手を出したと罰されるのはラファエルの方なのに。
いや、そんなのは建前でしかない。
『私』に見られた事は、ラファエルにとって大した事ではないのだろうか。
少なくともこうして笑って話しかけられる程度の、心を揺らがせる様な事ではないのだろうか。
「……普通に、見えるんだ」
「え……?」
「普通に、見える?あんな所見られて、ニアに嫌われたかも知れないのに?」
「ラファエル、何を」
「好きな女に他の女にキスされてる所見られて、平気だと思うの」
一歩近付いて、ラファエルの手が伸びてくる。
後ずさる私の歩幅よりも長いラファエルの手に捕らえられて、真剣な表情がすぐ近くにあった。つるりとした眼球の鮮やかな碧まではっきりと。
でも私には、そんな近さを意識する余裕はない。
今、ラファエルはなんと言ったのか。
好きと、言った。好きな女と言った。
キスを見られたと、他の女とのキスを。
ラーナ様とのキスを、見たのは誰だ。
「……わた、し」
あの場にいたのは、三人。ラファエルと、キスをしたラーナ様。
そして、それを見た私。
「……本当に気付いてなかったんだねー」
「ラファ、エル……私を、何言って」
「好きだって、言った」
混乱して自分の言葉さえ訳がわからなくなっているのに更なる爆弾を投下してくる。
間近で見る瞳は溶けた飴細工みたい、今まであった美しい形が崩れて。
ずっと優しくて、笑って馬鹿な話をしていたラファエルが、どろどろに溶けていく。
まるで、知らない男の人みたい。
「っ……!!」
突然降ってきたのは、とてつもない羞恥心。
ラファエルの持つ私への感情が、私の中でも形作られていく。これが、伝わるという事なんだろう。
ラファエルの『好き』が伝わってきて怖い。
私の頭の中丸ごとそれだけになりそうで、怖い。
「何、で……何で、そんな事、急に」
「……急じゃないよ」
聞いた事のない低い声、違う人みたい。
私の知ってるラファエルが、いなくなっていく。
「ずっとずっと好きだった、好きだよ。ニア以外の女の子皆同じに見えるくらい、俺はニアだけが好き」
言葉が、出ない。乾いている訳でもないのに声が全部喉に張り付いて、はくはくと動くだけの唇は金魚みたいだ。
声も、目も、手も指も足も、私の意思が全部ラファエルに吸い取られていくみたい。そらせなくて、振りほどけなくて、逃げられなくて。
世界に、二人だけしかいないみたい。
「ニアしか、いらない」
「ぁ……っ」
引き寄せられて、近付かれて。咄嗟に退いた腰はラファエルの手に阻まれた。
知らない人みたいなラファエルが怖いのに、逃げてしまいたいのに、体は彼に捕らえられたまま。掴む手の拘束なんて、本気で抵抗するまでもなく簡単に振りほどけるはずなのに。
ラファエルを、拒めないのはどうして。
「っ……」
近付いて来たラファエルの顔が恥ずかしくて、目をきつく瞑る。
暗くなった視界では何も分からず、ただ唇に触れた柔らかい感触と塞がれた呼吸に驚いて、反射的に目を開いた。
近すぎてぼんやりする景色は、肌色で一杯。
「っ、ん……!?」
それが誰の物なのか、伏せられた長い睫毛は白かった。
「ゃ……!」
訳がわからなくて、頭の中がぐちゃぐちゃで、何も考えられずに自由になる腕でラファエルの胸を叩いた。
いつものラファエルならそれで止めてくれる。困った顔でごめんって、痛いよなんて嘘泣きしたりして。
最後は、優しく笑ってくれるのに。
「んぅ、……っ」
息が出来ない、呼吸の仕方が頭から抜け落ちる。塞がれてるのは口だけなんだから鼻は自由なのに、全身が強張って言う事を聞かない。
これは、何だ。何が起こっているの。
これは、本当に、ラファエルなの。
「ゃ、だ……っ」
上手く働かない体を無理矢理動かして、力一杯ラファエルを突き飛ばす。加減をしている余裕は、欠片も残っていなかった。
「っ……」
「ぁ……ご、め」
振り回した手がラファエルの顔を掠めて、歪んだ表情に頭の中は混乱したまま冷めていく。さっきまで触れ合っていた唇の感触だけがいつまでもおかしい。
「…………」
もう、全部が混ざって汚れていく。変わったのはラファエルなのか、それとも私なのか。正常ではない脳内は整理しきれない情報がぐるぐる回って答えはでない。
それでもただ一つ確かなのは、もう以前のままではいられないという事だった。
「ニア……!」
その現実が恐ろしくて、どうすればいいのかどうしたいのか分からなくて、私はその場を逃げ出した。
背中に届いた声が誰の物なのか、もう分からなくなっていた。




