第十六話 君でなければ意味などなくて
それがどういった行為なのかくらい、恋愛とは縁遠い私でも知っている。赤ちゃんはコウノトリが運んでくるなんて伝説を信じる歳はとうに過ぎているのだから。
髪を靡かせ、ラファエルにしがみつくラーナ様は少し背伸びをしている。仕掛けたのはラーナ様だった、ラファエルの表情を見れば間違いないのに。
絵に描いたような美しいのその光景は、まさに乙女ゲームの世界。私にとっては現実の世界はラーナ様を中心に回る創作物であった事を思い出す。
重なっていた二人の影が離れて、しがみつくラーナ様の腰を支えるラファエルの姿は男としても執事としても完璧だ。
「ラファエル、さん……私」
「ラーナ様……」
見つめ合う二人に、耐えられなくなった。
何がと問われても分からないが、ただその場に……ラーナ・エヴァという存在があまりに恐ろしくて。
「……っ!?」
後ずさった足がもつれたのは、きっとその動揺のせい。声こそ出さず、すぐに体勢も立て直したから転ばずには済んだ。
けど、さすがに気付かれないほどではなかったらしい。
「ニア……?」
「っ、失礼します……!」
困惑を隠せずに呼ばれた名前が自分のものだと、気付いた時には駆け出していた。頭を下げる事を忘れなかっただけでも誉めてほしい。
目的地なんて、食堂以外にはなくて。でも方向転換して戻るという選択肢はなかった。
ただ、訳の分からない吐き気が止まらない。
「何だ、これ……」
キスなんて、大した事ない。今まで沢山の女と噂になったラファエルが誰かとキスをするなんて、それ以上だって経験しているはず。相手が令嬢だった事は衝撃的だったけど、別に大した事ないはず。
私には、関係ないはず。
「嫌、だ」
男の人みたいだった。小さなラーナ様を胸に、それでも美しい姿勢を保っている姿は女にはない強さを見せつけられたみたいで。
あの日繋いだ手の大きさを思い出しそうになる。
「嫌……っ」
分かっていたはずの事なのに、ラファエルが男だって、ずっと知っていたはずなのに。
本当はずっと、見て見ぬふりをしていた事に気付かされた。
ラファエルは男で、私もラーナ様も女で。この間に発生する感情は同性より同僚より多彩で繊細なんだって。彼が男であると同時に、ラファエルにとって私は女なんだって。
ずっと、気付かないふりをしてた。
「……戻ら、なきゃ」
心がぐちゃぐちゃでも、私の仕事はなくならない。なくなっては困る。私の居場所は、ここにしかないのだから。
プロとして、なさせばならぬ事。私にもラファエルにもあるその責任はきっちり果たすべきだと分かっていたけれど。
振り返ってもいるはずのない影に、心が冷たくなった事実に自分を嫌いになりそうだった。
× × × ×
去っていく姿に、実は背中を見た事が少ないだなっって場違いな感想を思っていた。正された背筋はこんな時ですら美しく伸びており、ニアの好きな所がまた一つ。
「あ、あの……もしかして見られて……」
「……でしょう、ね」
「ご、ごめんなさい……私……っ」
驚いた後、申し訳なさそうに目を伏せる姿は、きっと大半の男が庇護欲をそそられる物だろう。可愛らしい顔立ちを歪ませて見せられると罪悪感も感じるんじゃないだろうか。可愛い子の泣き顔が武器になるのは、人がその顔を愛でたいと願うから。
きっと俺じゃなければ、彼女を慰め抱き締めてしまうのだろう。ラーナ様は愛される事にとことん特化しているから。
相手が、俺でなければ。
「気になさらなくて大丈夫ですよ、大した事ではありませんから」
「……え?」
「ニアには、後で俺が話します」
「で、でも……あの方の主人はシルヴィニア様ですよね?もしあの方の耳に伝わってこの間みたいになったら、私……っ」
この間、というのは食堂での事だろうか。正直彼女がくっついてくるのは出会った時から変わらないのでスルーしていたから、あれはとても助かった。
「シルヴィニア様は正しい事をおっしゃるので、今回の事についてなら問題ないでしょう」
俺が怒られる事については、問題ない。まぁニアを混乱させた事については色々言われるかもしれないけど……そこはレオ様に助太刀願おう。
「俺にとって、今回の事に意味などありませんから。蚊が止まった程度の事です」
「な、に……言って」
ラーナ様からの視線がどういう類いの物のなのか、この期に及んで知らぬ存ぜぬを通すきはない。彼女が俺に好意を抱いている事にはある程度気付いていたから。まさか突然唇を奪われるなんて……さすがに予想外だったけれど。
「さぁ、参りましょう。それとももう保健室への用はなくなりましたか?」
「…………」
「それでは、教室に戻りましょう」
「……何で」
「…………」
「何で、そんな……私の気持ち、分かりましたよね……!?」
何故、こんなにも普通にしていられるのか。
正直、平常ではない。一刻も早くニアを追い掛けたいし、誤解を解いてそのまま告白してしまいたい想いだってある。
それなのに何故、こんなにも普通に仕事をこなせるのかと言えば、今目の前にいるのがニアじゃないからだ。
ニアでなければ、何の意味もない。仕事を放り出すなんて俺もニアも許せないし、彼女からのキスも気持ちも流してしまえるのは正しく興味がないからだ。
相手がニアでないのなら、キスもその気持ちも俺にとっては無価値でしかない。
「ラーナ様のサポートが俺の仕事なので、生活のお手伝いはさせていただきます……レオ様のご命令ですから」
それ以上でも、それ以下でもないと、気付くだろう。ラーナ様は俺の答えを信じられないと言わんばかりに真っ青になっているが、俺からすれば彼女の方が謎だらけだ。
何故、彼女はこんなにも俺の心を得られる自信があるのか。
女性に優しくするのは俺の性格で、習性ともいえるくらいに自然な行動だ。今までそのせいで妙な噂もたったし好意をもたれた事だってあるけれど、ラーナ様のそれは、少し様子が違う気がした。
まるで俺の気持ちが自分に向かない可能性が皆無であるかの様に、自分以外を好きになんてならないと言わんばかりに、彼女にある俺への想いは根拠のない自信に満ちている。
「……戻りましょう」
でもその理由を知りたいとは思わない。例え彼女にどれだけ自信があろうと、俺の気持ちがその通りになる事はないのだから。
血の気の引いた彼女の背を支えながら、俺はニアへの説明を考えていた。俺にとっては虫に刺された程度の事でも、ニアにとっては違うだろう。身に染み付いたエスコートは無意識下でも作用するため、意識が別に飛んでいたのだろう。ラーナ様が小声で呟いた言葉にも気付かずに。
「どうして……フラグが立たないの」




