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遺跡の中で

こんばんは、最近の作業BGMが志方あきこさんの楽曲になっている遊月奈喩多です!

「金色の嘲笑~麗しの晩餐~」とか、ヘビロテしっぱなしなのです。

砂漠の繁華街デゼールロジエで追っ手と遭遇し、エスタの住むテラニグラを目指すことになったカイルとルキウス。しかしそこには既に、エデンからの魔手が放たれているのでした。しかし運良く(?)食料切れとなってトルッペン砂漠の遺跡に立ち寄ることになりました。エスタの知り合いがいるという遺跡に向かう一行。

一方、エデンでは「あの男」が作戦通りのテラニグラではなく、奇しくもカイルたちのいるその砂漠に目を付けていたのでした……。

以上が前回までのお話です。

今回は遺跡で色々なことが起こります。仲間たちの絆にも亀裂が……!? 入るとか入らないとか。

ではでは、本編スタートです!

 デゼールロジエを擁する広大なトルッペン砂漠。

 いくつものキャラバンが協力しなければ越えられない、という過酷さから名付けられたその砂漠には、かつて抗争の中で滅びていったいくつもの国が在りし日を偲ばせる廃墟だけを残している。その中の1つに、かつて世界の富豪が集まり栄華を極めたとされる都市の残骸があった。

 エスタが馬車を走らせたその都市の残骸――遺跡には、前史における抗争によって滅びた地に長らく住んでいた者たちの子孫が身を寄せ合っている。「遺跡の民」と総称される彼らのような者たちは、エデンの誕生を皮切りに生み出された新しい秩序に適応できずに追い払われた者として伝えられていた。

 エスタに連れられて遺跡を訪れたカイルは、唖然として目の前に広がる光景を見ている。

 無論、その遺跡に警戒心を向けていたルキウスも、そして食料の補給のために知己のいるこの遺跡に立ち寄ることを決めたエスタもまた、カイルと同じ驚きと共にその場所に立っていた。

 遠くから見たときには確かにあったはずの遺跡が、そこにはなかったのである。

 跡形もない砂漠。

 そこには、荒涼としてすらいない、むしろ整然とした静寂すら感じるほどの砂漠だけが広がっていた。

「どういうことだ? 遠くから見ても、近付くときだって、間違いなくここに見えていたはずなのに!」

 普段冷静なエスタも、かなり驚いたのだろう、声を荒らげて辺りを見回す。その首筋に流れる汗は、きっとトルッペン砂漠の暑さのせいだけではない。

 そう、異常だったのは遺跡の消え方だった。

 遠くからは見えていた。だからこそ、ルキウスはそこから自分たちを見る何者かに気付いたし、エスタは知己のいるこの遺跡に向かうことを決めたのだ。

 馬車で近付いていくときにも、遺跡は見えていた。それは、誰の目にも明らかなはずだった。

 しかし、到着した途端に、見えていたはずの遺跡は幻のように消えていた。いつの間にか消えた、という方がいいだろうか。3人のうち誰も、遺跡が消えた瞬間に気が付かなかったのである。

 それでも、自分たちの行く手で何かしらの能力が使われたことだけは察しがついた。そして、自分たちにこうした力を見せてくる者は、恐らく……。

「エデンからの、追っ手……?」

 呟くルキウスの声が弱々しい。

 カイルも、その単語に戦慄せずにはいられなかった。

 デゼールロジエで遭遇した魔族の少年の、こちらを嘲笑うような顔が脳裏に浮かぶ。その後カイルに向けた、混じり気のない怒りと殺意も。

「いや、恐らくお前さんたちが会った追っ手ではないだろう」

 震え上がるカイルに、エスタが言う。

「これは爆発したとかそういう類のものじゃない。ここには何もない。そんな消え方だ。もし先回りして爆破されたのだとしても、瓦礫の1つや2つは残っているはずだろう? だから、少なくとも遺跡を消したのはそいつの能力ではない」

 冷静な口調を取り戻してカイルに言うエスタではあったが、その内心が穏やかではないことは傍にいるカイルに伝わってしまっていた。仮に先日の少年ではなかったとしても、得体の知れない能力が自分たちの目の前で使われていることは確かであり、エスタの狼狽を隠した言葉では不安を晴らすことはできなかった。

 このままここで手をこまねいているわけにはいかない――エスタは遺跡での食料補給を諦め、テラニグラを目指すことにした。途中で他の遺跡を見つけたらそこで補給できるように頼んでみればいい。もっとも、このトルッペン砂漠にある他の遺跡は、エスタが目指した所ほどの大きさはなく、集落と呼ぶのが妥当な大きさではあったが。

「よし、あまり長居もしていられないからな。馬車に乗るぞ!」

 エスタの声に従い、馬車に乗ろうとしたカイルは、突然ある可能性を思い立ってエスタに声をかけた。

「エスタさんの能力って、たとえば幻覚とかを見破れたりってしませんか?」

「幻覚? ……はっ!」

 何かに気付いた表情をしたエスタは、「よく気付いた!」とカイルに言ってから、能力を使う。

「……2人とも、こっちに来るんだ。入り口が見つかったぞ」

 言いながら、何もない方角へと歩き始めるエスタの姿を、そしてエスタに能力を使うように言ったカイルの安堵した横顔を、ルキウスは訝しげに見る。彼には、エスタの指し示した場所が何もない砂漠にしか見えていないからである。

 それはカイルも同じだったが、エスタの言う「入り口」に向かってルキウスの手を取って歩き始める。

「なぁ、カイル!」

「たぶん大丈夫だよ、ルキウス。エスタさんが行った先から遺跡に入れるはずなんだ」

 カイルは恐らく、「エスタについて見えもしない入り口とやらに向かって大丈夫なのか」とルキウスの言葉を解釈したのだろう。そして、安心して、と訴えるように笑顔を向けている。ルキウスが言いたいことはそういうことではなかった。しかしその笑顔を前にすると自分が感じた疑問などは些細なことのように感じたし、何よりいつまでも外にいたくはなかったので、「入り口があるなら入ってやる」くらいの気持ちでカイルの後に続くことにした。

 ――何で、幻覚かも知れないなんて思ったんだ?

 だからルキウスは、質問の形をとってはいたもののいつもとは違う、まるで別人のように確信に満ちていたカイルの口調に対して抱いたそんな疑問を意識の片隅に追いやってしまった。


 エスタの後について歩いていた2人は、いつの間にか太陽の光が遮られていることに気付いた。足下も砂の感触ではなく、硬い石の感触だった。慌てて辺りを見回して、自分たちが石造りの遺跡の中にいることに気が付いた。

「!?」

「おっさん、これってどういうことなんだよ?」

 驚く2人を振り返ったエスタは、「ここにはな、幻覚を使える能力者がいるんだ。前もこうやって入っていたのを、すっかり忘れていた」と罰が悪そうな表情を浮かべた。

「何だ、そうだったのかよ。慌てたこっちが馬鹿みてぇだな」

 呆れ交じりに悪態を吐くルキウス。しかし、無事に遺跡の中に入ることのできた安堵もあって、その声は少し穏やかだ。カイルも安心して、辺りを見回す。

「エスタさん。そういえば馬車は大丈夫なんですか?」

 自分たちは遺跡の中に入ることができたが、機械馬を外に出したままであることに気付いたカイルが、エスタに尋ねる。エスタはその質問に穏やかな笑顔で答える。

「あぁ、それなら大丈夫だ。あれは遺跡の内側に入っているからな」

 それから、奥の方に広がる暗がりに目を向けて、「そうですな? エーデ卿!」と声を張り上げた。

 エスタの大声はカイルたちのいる場所――間取りからして、どうやらそこは廊下らしかった――によく響いた。そしてそれに応えるように、暗がりからは無機質な音がコツ、コツ……と聞こえてくる。誰かがこちらに向かってくるのだろう。

 少し歩みのペースが遅いらしい音の主が、天井に走る亀裂から差し込む昼間の陽光の下に現れたのはそれから数十秒後のことで、その姿を見たカイルは、知らず息を呑んでいた。

 現れた老人には、肉体と呼べる部分がほとんど残っていなかった。

 生まれ持った肉体が残っていると言えるのは、薄く痣のついた生気のない顔から胸部にかけて、そして今にも千切れそうにぶら下がっているだけの左腕だけだった。腹部に幾重にも巻かれた包帯の下も、恐らくはほとんど意味を成していないのではないだろうか、彼が1歩進むごとに、上体が不安定にぐらついているのが目に付いた。四肢に至っては、辛うじて体と繋がっている左腕以外は全て付け根から義肢に変わっている。

 ただ、老人――エーデ卿の生気のない顔において唯一その青い瞳には、若者と見まがうほどに精悍な光が宿っているように見えた。

「久しいな、グラディウスの若造」

 エーデ卿は、体中を蝕んでいる腐敗など気にも留めていない様子で、外からの客人を出迎える。エスタは彼の背後を見つめるように応じた後、「いつものお付きはどうした? ……やられたのか」と、後半は声低く尋ねた。

「この砂漠に生まれついた者なら、仕方のないことかも知れないがな」

 首を振りながら答える卿の声音には、苦渋の響きがあった。カイルはその意味を正確には理解できなかったが、この遺跡では恐らくそう低くない頻度で死者が出ているらしいことはわかった。その重い空気を打ち破るように、エーデ卿はしわがれた声を少し張り、カイルとルキウスに向き直った。

「それにしても今日は珍しい客を連れてきたものだな、グラディウスの若造よ。少年たちよ、私の名はテュルキース=エーデという。お前たちの名を聞かせてはくれないか?」

 右腕で突く杖を支えにして体の向きを変えたエーデ卿は、ぎこちなくも恭しく、2人に向けて一礼した。

 悪意のない優しげな声に、2人は名乗る。

「そうか、カイルとルキウスか。グラディウスの弟子……というわけではなさそうだな、子等よ」

 エーデ卿の声音に、疑惑というよりは単に疑問と形容できるような色が混ざる。エスタに向き直った卿は、少し険しい声で、「隠そうとしても、我々には通じないことはわかっているな?」と言った。しかし、その声音には外から来た3人の客を案じているからこその険しさがあることが窺えた。

「わかっている。貴方のご友人にはそういう能力があるからな。……しかし、盗み見るというのは無粋な気がせんでもないですぞ、エーデ卿」

 降参だと言わんばかりのエスタの言葉に、悪戯っぽく小さな笑いを喉から出すエーデ卿。

「なに、我々はお前の不利になるようなことはしないつもりだよ、グラディウスの若造」

 笑い皺を目尻に刻みつけたまま、踵を返す卿。3人を振り返って、「こちらへ来るといい。遺跡に住む皆に会わせたいからな」と穏やかな口調で誘った後、先ほど現れた暗がりの中へと消えて行った。


 それから程なくして、カイルとルキウスはトルッペン砂漠に住む遺跡の民と出会うこととなった。

 3人はエーデ卿に連れられるまま、暗がりを抜けた先にある、薄ら明るい広間のような場所に辿り着いた。

 遺跡に住んでいるのは全部で4人。そのうちの1人は、この遺跡のある一帯を治めていた家の末裔であるテュルキース=エーデ卿。魔族である彼は、幻覚を見せる能力を持っている。といっても、エスタ曰くそれは幻覚を見せるというよりはむしろ結界を張るといったものに近く、ある一定範囲に入った者全てを例外なく幻覚の中に引きずり込む、というのがより正確な能力であるらしい。

「この遺跡が見えなかったというのは、エーデ卿の御力ですよ。エスタさんのように、見たものの質を見抜くような能力を持っていない限り、視覚だけでなく範囲内にある全てが騙されるのです。だから当てずっぽうで触ろうとしてもこの遺跡には手を触れることもできませんし、たとえば遠距離から何かを当てるということもできないんです」

 と、興奮気味にエーデ卿の能力について補足説明したのは、同じく魔族の青年ガルゲン。彼が持っているのは、手に持った物を何であれ自分の望む形に変えることができるものである。しかしそれは一時的なもので、大きい物であるほどその持続時間は短い。主立った用途は、少し遠くにあるオアシスで水を汲むために器と移動手段としての乗用車を作ることなのだという。

「何てことのない力なんですけど、それでも外まで動けるのはぼくだけなので……」

 言いながら、ガルゲンは少し頼りない笑みを浮かべて柔らかそうなシナモン色の髪を掻く。「いいや、こいつの能力はあると何かと便利なのだ。色々と助けられているんだぞ?」というエーデ卿の言葉に、その笑みに照れが滲む。年齢的にはカイルたちよりそれなりに上のはずだったが、ルキウスは彼の人のよさそうな笑顔を見て、カイルとあまり変わらないくらいにも見える、と思った。

 次に名乗ったのは、車椅子で移動しているフランツという男だった。ふと車椅子の端が欠けているのを認めた彼は、「ガルゲン、後でまた頼んでいいか?」と言う。どうやら、フランツが使っている車椅子もガルゲンが能力で作り出した物らしい。ちなみにフランツ自身はこの遺跡に住む唯一の人間であり、更にこの遺跡の出身ではないらしい。

「この砂漠で足をやられてな……。死ぬかも知れないと思ったところで、たまたま水汲みに出ていたこいつに拾われたんだよ」

 ガルゲンを指差すフランツ。かつては武器職人であり、また自らそれを売る商人をしていたという彼は、そこで培った技能を活かして遺跡の防犯設備を整えているのだという。

「まぁ、もっともエーデの旦那の力のおかげで、今はただの鉄製品の修理屋みたいなもんだがな。そういやエスタよぉ、あんたの馬もだいぶキてるみたいだから、後で直しといてやるよ」

 そう言ったフランツの笑顔には、遺跡での生活が彼にとって充実したものであることと、何よりエーデ卿への信頼が窺えた。

「そして、孫だ。血は繋がっていないが」

 エーデ卿が背中を押して自己紹介を促したのは、ファーネという魔族の幼い少女だった。人懐っこい笑顔で3人の前に立った彼女は一切口を開かず、紙に文字を書き始める。そこには年齢にそぐわないと思わせるほど見やすい文字で自分の名前を書き、3人を歓迎している旨を伝えてくれた。

「ファーネちゃんは、いわゆる千里眼の力を持っているんです。でも、小さい頃にそれで見たくないものを見てしまったようで……、っ」

 そこまで言ったところでガルゲンは慌てて口を噤む。その後、「あぁ、ごめんねファーネちゃん! そうだ、ちょっと待ってて……」と言いながら沈んだ表情の少女の前で何かを作ってみせて、その顔が綻んだのを確認してからどこか違う所に連れて行った。ファーネはカイルたちを振り返ってぺこっ、と頭を1度下げてから、楽しげに走っていく。

 その姿には目を細めたものの、その前に彼女の表情を曇らせたガルゲンの失言に対してだろう、深い溜息と共に「まったく……」と呟くエーデ卿。

「あれが言った通り、幼い頃にファーネは自分の能力で恐ろしい物を見てしまったらしい。それが何なのかは聞けなかったが、それ以来口を開かなくなってしまったのだ」

 本当に、よく話す子だったのだが……エーデ卿は気の毒そうな目を、ファーネがガルゲンと共に消えた通路に向ける。

「それでも、あの子は我々の目でいると申し出てくれたのだ」

「目?」

 ルキウスが尋ねる。

「我々の中で、遺跡の外に出て行動できるのはガルゲンだけだ。私やフランツはもちろんだが、ファーネのような幼い子が出るにも、今この砂漠は危険だからな。だからこそ、千里眼のように広範囲かつ高精度に物を見られる能力が必要であることを理解してくれているのかも知れん。

 あの子が声を失ったとき、私は1度あの子を見張り台から降ろした。それ以上あのような幼子に怖い思いをさせたくはなかったからな」

 それでも次の日、ファーネはエーデ卿が眠りから覚めるより前に見張り台に立っていたらしい。

 エーデ卿が降りていていいと繰り返し言っても、ファーネは尚も立ち続け、紙に文字を書いて、能力を持ってこの遺跡にいる以上は役に立ちたいと訴えたのだという。

「そこまで言わせてしまうことに不甲斐なさを感じないでもないが、やはりあの子は責任感がある子なのだろうな……」

 その口調はファーネを労わるようであり、そして誇っているようでもあった。

 カイルはふと、その言葉に引っかかりを覚える。

 エーデ卿は、というよりも周りにいた大人たちは、あの幼い子に役割以外のものを与えることができていたのだろうか、と。

 今でも十分に――カイルから見ても――幼いように見えるファーネ。彼女が声を失ったのがいつなのかはわからない。しかし、今よりも更に幼かっただろうファーネが、もしも他に何も与えられることもなく役割から外されたら……? 

 カイルは、その気持ちを少し想像することができた。

 ミスをしたり、能力不足だったり、ファーネの場合のように突発的な出来事によるものだったり、頼まれたことを達成できなかったときに、何のフォローもなく、ただ頼み事をされなくなるだけ。それは、幼心にも「必要とされなくなる」恐怖を味わわせてしまうものだったのではないだろうか。

 ファーネが与えられた「役目」にこだわったのは、エーデ卿が評した責任感というよりも、そういった類の感情がもたらした結果なのではないだろうか?

 もちろん、目の前で穏やかに彼女のことを語っているエーデ卿がそれを狙っていたとは思えない……思いたくはない。それでも、ふっとそんな思いが、カイルの胸を掠めた。

 少し重くなった空気に押し潰されたかのように静かな息を吐いて、エーデ卿はにこやかな表情を浮かべた。

「すまないな、客人をもてなす場でするような話ではなかった。グラディウスは少し私の話に付き合ってもらおう。カイルにルキウス、お前たちは自由にこの遺跡を見て回っていてくれ。外には出ないように気をつけてな」

 そう言って、エーデ卿は広間を出て行く。エスタは「なに、そう長い話ではないだろうさ。すぐ戻る」とカイルたちの耳元で囁いてエーデ卿の後に続いた。

 後に残されたカイルは、そうは言われたもののすぐには動きにくくてしばらく所在なさげに辺りを見回していたが、ルキウスの「何してんだ、カイル? せっかくだから行ってみようぜ!」という声に誘われて、エーデ卿とエスタが消えた通路の左側にある、外からの光が漏れていると思しき通路に足を向けた。


 通路を通っていると、脇にはいくつかの小さな部屋があった。

 中を覗いてみるとどの部屋にも簡素な家具があったが、長い間使われていないのかうっすらと埃が積もっており、その様を見るにつれて、元からあったはずの静寂が重さを持ったように感じられた。

 その静寂は、恐らく帰る者のいなくなったカイルの生家にも訪れている種類のものだ。

「カイル、もう行こう」

 沈痛な面持ちで部屋を眺めているカイルの様子を察したルキウスが、半ば引き摺るようにしてカイルを通路へ連れて行く。

 それから更に通路を進むと、そこにはまた1つ、今度は大きな部屋に出た。先程カイルたちが通された広間よりも広いだろうその部屋の奥には、何かの像が飾られている。

「何だろう……、これ」

 思わず見上げるカイル。その顔には、興味から来る笑みが薄く浮かんでいる。

 ルキウスはそんなカイルの様子を見て少し安堵し、すぐにそんな自分に動揺する。

 だから、何で俺がこいつの心配なんてしなくちゃならないんだ! 別にカイルがどんな様子だったとしても自分には影響なんてないのだから、気にする必要なんて欠片ほども、これっぽっちもない。それなのに、気が付くといつもカイルのことを目で追ってしまうし、カイルの様子がおかしいと自分まで何かおかしくなりそうな気持ちになる。

 その気持ちについて深く考えることすら何か悔しかったルキウスは、「ほんとに、お前って危なっかしいよな」と言葉に出して自分の気持ちにかたを付ける。カイルが「いきなり言うね、ルキウス……」と苦笑する姿など別にどうだっていい。というか少しはそこで怒れ。

 そんなルキウスの思いを知ってか知らずか、カイルは隣でむっつり黙っている彼に気付いて「あぁ、つまんないよね。他にはどんな所があるんだろうね?」と尋ねる。

「べ、別にそういうわけじゃ、」

「他の場所に行くってんだったら、俺がいい場所を教えてやろうか?」

 後ろから、愉快そうな声が聞こえてきた。

 振り返った先には、車椅子ではなく杖でこちらに近付いてくるフランツの姿があった。

「あ? あの車椅子なら、すぐに壊れちまった。ガルゲンの力でも、俺が座れるくらいの物ってなるとそんなに長くは使えないらしくてなぁ……。まぁ、メインの移動手段はこっちだよ。それに、エーデの旦那に比べりゃこの足はまだまだ動くわけだからな」

 そう言ってまた笑うフランツに、2人は何も言葉を返せずに戸惑う。

「……と、それはいいんだ。とりあえず、何か聞きたいことはないか?」

「え?」

「いやな? どうせエスタのことだ、ここについてはそこまで詳しく説明なんてしてやいないだろうから、気になったことも多いんじゃないか? と思ったんだよ。なぁに、本当に答えられないことには答えないから安心しろって! フランツ先生が教えてやんよ」

 安心していいのかよくないのかわからないことを言ってやはり笑っているフランツ。その笑い方から気のいい人物であることは何となく窺えるが、どこまでが質問していい範囲なのか掴みにくいような……。

「あの爺さんの体、一体どうしたんだ?」

「――!?」

 ルキウスが躊躇いなく尋ねた内容にカイルは耳を疑ったし、フランツも少しだけ目を瞠った。

 エーデ卿の体を這い回るように埋め尽くす腐敗。四肢はほとんど付け替えられ、上体を支えている腹部も、もはやそこを境に上半身が崩れ落ちてもおかしくない状態になっているらしいことは、幾重にも巻かれた包帯の上からでも察することができた。通常の状態ではないことは窺えたが、それこそ触れてはいけないことだったのではないか……と思うカイルは「ちょっと、ルキウス!」と小さく叱るような声を出す。

「ん? このおっさんは何でも聞いていいって言ってたろ?」

「そうだけど……」

 それでも限度というものがある。だが、何か問題があるのか、と言いたげにしているルキウスの瞳は純粋な疑問だけを宿していて。だから、カイルはそれ以上強く言えず、代わりにフランツに「す、すみません!」と謝るくらいのことしかできなかった。

 その姿を見て、フランツはぷっと噴き出す。

「お前ら、面白いな! たぶん近くで見てるやつは飽きないと思うぞ!? その魔族の坊主の言うとおりだ、気になるよな!? まぁ、笑い事じゃないけどよ。……あれは、この遺跡で生まれた魔族に固有の風土病みたいなものらしい。エーデの旦那が言うには遺伝子の問題が、とかそういうことらしいから、人に伝染るってもんじゃないみたいだがな」

 それでも、少し前はもうちょっと体の形を保ててたんだけどな。

 その言葉は、エーデ卿の命がもう長くないことを示しているように思えた。恐らく、彼の体は次第に崩れていく。それは現実味のない話のようだったが、卿の姿を見た後では、疑いたいと思っても疑いようのないことだった。ルキウスも、神妙な面持ちで聞いている。研究棟の中で「死」をいつも感じて生きていた彼にも、目の前で話していた人物にも死が迫っているという事実は、また違った感覚をもたらしていた。

 フランツは、2人の沈黙に少し気まずそうな表情を浮かべながら、静かな声で続ける。

「…………ま、そういうことだ。でもこれは、この遺跡に生まれた魔族はみんな覚悟してることらしいからな。俺やお前らが気にしなくたって勝手になるし、気にしてたって結果は変わらない。だから――」


 ドォォォォォォォォォォォォォォン!!!


 フランツの声は、突如響き渡った爆発音で遮られる。

「――――っ、攻めてきやがったか!?」

 咄嗟にカイルとルキウスを抱えて地面に倒れながら、フランツは音の方角に目を向ける。

「やけに音が近い! ってか、もしかしたらこの遺跡じゃ……。おいっ、お前らはこの部屋にいろ! 俺は他のやつらをここに連れてくるっ!」

 そう言ってフランツは、片足が動かないとは思えない速さで移動していく。

「行こう、ルキウス!」

「おぉ!」

 待っていろとは言われたが、この状況で素直に待っているわけにはいかない。遺跡の中で何が起こっているのか、そして誰かが巻き込まれないうちに助けに行かなければ。その気持ちが2人を動かした。

「掴まってろ、カイル!」

 返事を聞く間もなくルキウスはカイルを抱きかかえて、遺跡の通路を走り出す! 途中で通路に倒れていたフランツを拾い上げ、広間に辿り着く。そこには、ファーネが1人きりでいた。

「――――っ」

 訴えるような目つきでルキウスに縋り付くファーネ。

「どうした!? あの爺さんとエスタのおっさんはどこだ!?」

 ルキウスの問いに答えるように、階段を指差す。見ると、階段の上には砂煙が充満して、微かに熱も伝わってくる。

「…………っ!!」

 カイルは、一瞬躊躇するような表情を見せた後、階段を駆け上がった。慌てた表情で、ルキウスも後を追いかける。

 階段を上がった先は、更に煙が充満し、視界はほとんど遮断されている。

 その中から、苦しげな呻き声が微かに聞こえる。この数日にわたって、ずっと聞いていた声だ。

「エスタさん!」

「カイル、あんまり走るな!」

 何も見えないまま、2人は声が聞こえた方に向かう。決して広くはないはずの建物だったが、目が利かない状態だと果てしなく広いようにも感じられた。時間が経つにつれて、天井のどこかに開いたらしい穴から煙が逃げていくとようやくおぼろげながら物が見えるようになり、階段の近くにエスタが、部屋の中央にエーデ卿とガルゲンが倒れているのが見えた。

「エスタさん!」

「爺さん、ガルゲン!」

 ルキウスが部屋の中央に、カイルはエスタの所へ駆け寄る。エスタはカイルの声に答えて、口を開く。

「カイルか……? オレは大丈夫だ。それより、エーデ卿たちの方を……」

「大丈夫です! 今ルキウスが、」

「見るな!」

 ルキウスの必死な制止の声が間に合わず、カイルが目を向けると、ルキウスに揺らされて意識を取り戻したらしいエーデ卿と、そして近くで倒れているガルゲンと思しきもの。

 エーデ卿を庇おうとしたのか、全身が黒く焼け焦げている中で背中の傷が特に酷いように見えた。そして、ガルゲンがファーネの前で作ってみせていた小さな玩具が傍らに転がっている。そして何より、爆風によって吹き飛んだのだろうか、つい先刻まで2人に柔和な笑顔を見せていた頭部が、恐怖に歪んだ顔のままで、エスタの倒れる階段付近とエーデ卿の倒れる中央部の中間辺りにあった。それによって、この場に居合わせた者たちはガルゲンの死を現実のものとして受け入れることになった。

「――――――っ!」

 背後から聞こえた息を呑む声に、カイルは背後を振り返る。慌てて彼女の両目を隠そうとしたが、見開かれた緋色の瞳を見て、その行為が何の意味も成さないことを察した。その後から階段を上がってきたフランツも階上に広がる惨状を目にして、「嘘だろ……」と力なく呟くだけだった。



 トルッペン砂漠の遥か上空。

 エデン公用機から、カイルとルキウスを捕らえに来た看守長ロドリーゴは砂漠を見下ろしている。

「この辺りでは、エスタ=グラディウスに無関係のレジスタンスが育っているとか言っていたな」

 見下ろした砂漠はロドリーゴの記憶以上に荒廃しており、彼がエデンから発ったばかりの頃に予想したような、補給の為に立ち寄ることのできる場所などないように思えた。

 もっとも、機械馬で数日かかる距離を1時間で移動する速度による肉体的な負担は想像以上のもので、すぐに見つからなくてもそれはそれで、体を休める意味では好都合だった。

 そんな砂漠にさえも、エデンに反旗を翻そうという者が複数いるということに、ロドリーゴは何やらおかしさを覚えて笑いを堪える。堪えたのは、隣に乗る白衣の男が「理解などできんがな」と不愉快そうに鼻を鳴らしていたからである。ただでさえつまらない任務である、それ以上つまらない思いなどすることはない。

「しかしな、スミス看守長。そうした理念を持っていたのも始めのうちだけだよ。今やあの集団は、周囲のものを萎縮させて勢力を伸ばして略奪を繰り返すだけの、ただの蛮族だ」

「……」

 前々から思っていたことではあるが、この男を含め、中央収容所の研究棟に勤めている連中はどうも自分たち以外のものを見下す傾向にあるようだ。それは操縦士も感じているのだろう、あれこれと話を振っていた口は、何も話すまいという怒りにも似た沈黙を保っている。囚人どもの口汚い罵倒を軽くいなしてきたロドリーゴですら、思わず閉口するほどだった。

「作戦を共にしている――いや、もう我々の所に来たことのある貴方には話してもいいのだろうな、スミス看守長。我々は今、エデンが始まった頃から脈々と続く遠大なプロジェクトを引き継いでいるのだ」

 疲労の混じる声音だ。

 恐らくは、外での任務には慣れていないのだろう――ロドリーゴはそう分析する。

「エデンを築いた偉大なる科学者、黒崎戀くろさきれん。彼女が始めた計画は、まだ終わってはいない。それを引き継いでいるのが、我々テラの研究員なのだ。中にはその役目の重さに耐え切れず逃げ出した者もいたというが、私からすれば考えられん話だ」

 黒崎戀。

 その名前を知らない者は、恐らく世界のどこにもいないだろう。幼い頃から戦いに身を投じ、成長してからもそこから離れることなく過ごし、教育機関に所属して何かを学ぶという機会など一切なかったロドリーゴですら、その名前は「現代世界を創り上げた偉人中の偉人」として知っていた。

 普段ならばその程度の感想を抱く程度で、何も返しはしなかった。しかし、つまらない任務で、しかも圧力による肉体の疲労がある中でいけ好かない男からどうでもいい話を聞かされるという責め苦に、思わず口を挟んでいた。

「黒崎戀なら知っているが、お前たちが本当にその計画を引き継いでいるのかは怪しいものだな。日夜ああやって魔族や人間を実験台にしているのだろう? それが本当に共存計画なのか?」

 この男の鼻っ柱を叩き折れば、少しは無聊の慰みにはなるだろう。

 そう思って発した言葉は、予想もしていなかった大笑いで返された。嘲りの色も皮肉の気配もない、本当に面白い冗談を聞いたとでもいうような笑いに。怪訝な顔をするロドリーゴに、白衣の男は笑い過ぎで目尻に溜まった涙を拭いながら口を開く。

「あぁ、すまない。そうか、貴方にもそのように伝わっているのか。少しは収容所部分の職員とも情報を共有しておいた方がいいような気もするのだがな……。まぁ、いい。それがサンブル所長の方針なのだろう。あの方には逆らえないからな」

 サンブル所長。

 そう呼ばれた人物に、ロドリーゴは会っている。

 その人物に――彼女に命じられたからこそ、彼はこの公用機で脱走者を探しに来ているのだから。


『彼のようになった貴方を見たくありませんので、脱走者の少年、特に魔族の方は何としても連れ帰ってくださいね? 私も少しはお手伝いさせてもらいますから』


 人の形を失って不死の苦痛を文字通り植えつけられたロドリーゴの部下を冷たく一瞥して、命令を下した女性科学者。

 ニュイ=サンブル。

 エデンの中央に据えられた建造物テラの地下3階に秘された、むしろテラの本体とも言える研究棟の所長。そしてそれは、即ちエデンにおける本当の支配者であることを、中央収容所を始めとするテラ内の施設に勤める者のごく一部――ロドリーゴのようにそれぞれの施設の責任者を任されている者――は知っている。

 偉そうに命令されて、ロドリーゴが一切手を出せなかった、出そうという気持ちが本能によって押さえ込まれた唯一の相手。

 少女のような外見をした、銀髪の研究者。

 しかし、彼女の冷たい表情は、見るもの全ての心を凍えさせることだろう。ニュイ=サンブルにはそういった雰囲気があった。

 その信奉者であるらしい――気が知れない、とロドリーゴは内心苦々しく思った――男は、熱を込めて語りを続ける。

「あのお方は、実に熱心な研究者だ。自らが実験台になってまで、《エデンの蛇プロジェクト》を完成させようというのだからな。我々にも真似できるものではないよ」

「エデンの蛇?」

 その意味はわからなくとも、何か不穏な響きを持ったその名前に、ロドリーゴは思わず聞き返す。

「あぁ。そもそも黒崎戀が提唱したプロジェクトは、表向きは人間の技術と魔族の能力を活かすことによって共存を図るという計画だったが、その本心は別のところにあったのだ……」

 得意そうに語る白衣の男。しかしその声は、突如鳴り響いた爆発音によって掻き消された。

 驚きのあまり言葉を失う白衣の男と操縦士。しかし、ロドリーゴはようやく訪れた好機に笑う。

「そこにいるのか、カイル……!」

 公用機の操縦士を怒鳴りつけ、爆発音の場所へ向かう追跡者。

 その影がエーデ卿の治める遺跡に迫るまで、あと少し。



「では、その追っ手とやらが……?」

 最初に遺跡の民たちと顔を合わせた、階下の広間。

 状況が状況であるだけに隠しておくわけにはいかず、カイルたちは全てを打ち明けた。自分たちがエデンで囚われの身であり、そこから逃げ出したこと。脱走して以来、エスタがそれに協力してくれていること。その自分たちを追ってくる者がいること。……その追っ手が爆発に関連する能力を使うらしいこと。

「てことは何か? ガルゲンが死んだのは、その追っ手のせいかも知れない……ってことか?」

 フランツの言葉に、カイルたちを責める響きはなかった。

 それでも、責任を感じないわけにはいかなかった。

「すみません……」

 ルキウスも、口を開いて何かを言うわけではないものの、同じことを考えていることは、俯いた沈痛な顔と硬く握られた震える拳から察することはできた。つい先刻まで生きてそこにいた人間が物言わぬ骸となって死んでいる。その空虚感が、ルキウスを沈黙させていた。

 自分たちのせいだ。

 2人は自責の念に駆られた。

 しかし、そこに口を挟んだのは「ちがう」という静かな声だった。

「ファーネ?」

 エーデ卿が驚きの声を上げる。ファーネはそんな声を歯牙にもかけず、カイルの前に立ち、強い目を向けた。それは、カイルを励まそうという類の瞳ではなく、カイルを通り越した先にある、何か別のものを激しく睨みつけるような瞳だった。

「お兄さんたちのせいじゃない。ガルゲンが死んだのは、あいつらのせい。だって、わたしのお父さんもお母さんも、お姉ちゃんも、友達も、みんなあいつらに殺されたんだから」

 あいつらが悪い、あいつらが許せない……憎悪の言葉が、幼く小さな唇から次々に溢れ出てくる。ファーネの指す「あいつら」に心当たりがあるのか、エーデ卿とフランツの顔色が鬱々としたものに変わる。その間にも、もう誰に向けたものでもないファーネの怨嗟は続く。

「もうよしなさい、ファーネ」

 エーデ卿の制止の声が届いたのは、10回ほどそれが繰り返され、怒気が混ざり始めた頃だった。そしてファーネは、また口を閉ざして広間から出て行った。

 その背中を悲痛な眼差しで見つめた後、エーデ卿は溜息混じりに「すまない」と述べた。

「あの子の言うように、この砂漠には元から危険な存在がいる。元々はこの砂漠に住む同胞だったのだが、いつからか徒党を組み始めた者がいてな。我々が暮らすような遺跡を巡っては破壊と略奪を繰り返す集団が生まれてしまったのだ。あの子の家族は、ここから南東に行った所にある遺跡で皆殺しにされたのだ。母親の能力で亜空間に隠されていたあの子を残して。

 だから、あの子はその集団……やつらはただレジスタンスとだけ名乗っているが、レジスタンスに対する憎しみが人一倍強いのだ。ここでの生活で安らぎを与えてやれていると思っていたのだが、まさかこんなことになるとは……」

 ガルゲンの死によって、彼女の憎悪は再び燃え上がった。憎悪に燃える彼女の様子を思い出したカイルは、知らず背筋を振るわせる。悲しみを感じる以上に、ファーネに対して恐怖を感じてしまっている自分を、すぐさま恥じることになったが。

 エーデ卿は悲しげに首を振る。

「しかし、その感情は間違いなく争いの種となる。あの子自身が、あの子が今抱いているような憎しみを向けられる側に回るようなことはあってはならない。それだけは何としても避けなくてはならない……!」

 その言葉に、フランツも頷く。

「ファーネは、ガルゲンには特別懐いてたからなぁ。それもあって、尚更あの調子なんだろうよ。何とかするって言ってできるもんではないと思うが……」

 この遺跡の中で、ガルゲンがどういった存在であったのか、彼らの言葉だけでは全てを知ることはできない。それでも、たった4人で身を寄せ合っていた彼らにとって、1人が無残な死を遂げたことは、とても大きな悲しみであるに違いなかった。

 あの爆発がレジスタンスによるものか、エデンからの攻撃であるかは判然としない。

 しかし、どういうわけか、警戒しても爆発はその1度きりで、誰かが中に入ってくるというような気配はなかった。カイルとルキウスを連れ帰ろうとする者であればそれは考えられないし、仮にレジスタンスの爆撃であったとしても、略奪を目的として行われるはずの行動ならば爆破だけしてそのまま立ち去ることなど考えにくい……とエーデ卿は言う。

 沈痛な静寂の中で、エスタは広間に設けられた窓から外を見て、小さく呟く。

「とりあえず、敵の姿は見えない。今のうちにここを離れておいた方がいいかも知れないな」

 その言葉にカイルは耳を疑った――このタイミングで発せられたその呟きは、まるで危険が迫る可能性があることを知ったから自分たちは逃げる、と言っているように感じられたのだ。それはルキウスも感じたのだろう、カイルが声を上げるより一瞬早く、エスタに詰め寄って怒鳴りつける。

「おい、おっさん! それって冷たいんじゃねぇのか!? あんた言ってたじゃねぇかよ、ここのやつらには世話になったことがあるんだって……! 俺は今までそういうやついなかったからよくわかんねぇけど! でも、こういうときには、――――――」

「ルキウス。それにカイル。それは自分の置かれた状況を理解した上で言っていることか?」

 エスタは静かな声で2人に言う。

「エデンは、世界に名だたる大都市であることは、カイルなら知っているな? 同時にあそこは、この世界の秩序を担っていると言ってもいい。お前たちはそこから逃げ出しているのだ。もちろん、あそこには色々疑惑がある。エデンに対する疑問と反旗の種は世界中に散らばっている。オレだってその1人だ。だからこそオレはお前たちが逃げるのに手を貸している」

「それは、手を借りている僕たちはその恩を感じて、黙ってあなたに従えということですか? 手を貸してくれているあなたに危険が迫らないように、それを第一に考えろって、そういうことですか?」

 静かな物言いが、却ってカイルの癇に障った。

 気が付いたときには、怒気を孕んだ言葉が口から漏れ出していた。

 そんなカイルの言葉に、エスタの顔が険しくなる。

「爆撃があったとき、お前たちは何を考えた? デゼールロジエでリシャールがお前たちを狙った追っ手に怪我を負わされたな、そのときに何を感じた? ただ自分の身が危ないと、捕まりたくないと、それだけか?」

「――――っ!」

「現状として、お前たちはエデンに楯突いている。そしてエデンは秩序維持の名目でお前たちを追うだろう、そしてそれに加担した者は何であれ悪となるだろう。オレはその覚悟ができている。いずれはエデンを崩す為に色々な算段を立てているのだからな。しかし、この遺跡に住む住民のように、そういった事情と無縁で生きてきた彼らにしたらどうだろうか。そしていざエデンの連中が来たときにお前たち――いや、オレたちがここにいるのが見つかったら、彼らに対して何が起こるだろうな。それについて考えたことがあるのか、とオレは訊いているんだ、カイル=エヴァーリヴ」

 その言葉はカイルとルキウスの頭を冷やすには十分過ぎるものだった。

 エスタはこう言っていた。危険が迫っている中で無理に長居すれば、関係のない他人を巻き込むことになると。エスタのように、ただ加担している可能性があるというくらいの者であれば彼に接していた者に対してその度合いは多少軽いかも知れない。

 しかし、2人は紛うことなき脱走者である。エデンが地下に秘める非人道的な実態などは関係ない。脱走者を隠匿したと扱われてしまえば、またその捕獲を妨害したと認められれば、それは反逆と見なされるだろう。そうなれば、やはり収容所に入れられるのだろう。そしてカイルが味わってきた地獄を――それに近い責め苦を味わうことになるのだろう。もしくは、エスタの妹のように「事故死」することになるのかも知れない。

「オレたちは、やつらに見つかってはいけない。そして、やつらに見つかるとしても、それは誰かの近くであってはならない。それはその『誰か』を犠牲にすることに他ならないのだからな」

「………………」

 2人は、何も言えなかった。

 エスタの言葉には、2人に事実を理解させる以上に、彼自身の何かしらの後悔が見えたような気がした。苦しげに紡がれたその言葉を、2人は肯定するしかなかった。その様子を見届けて、エスタはエーデ卿に向き直る。

「では失礼します、エーデ卿。貴方から聞いたことも確かめなくてはならないからな」

 爆発が起こる前に、2人で話していたエーデ卿とエスタ。そこでの会話で何かがわかったらしかった。双方の表情の険しさからその内容の深刻さが窺えるが、それがどのようなものであるのか、カイルには尋ねる勇気が出なかった。

 深く頷いたエーデ卿は、そんなカイルとルキウスにも言葉をくれた。

「子等よ、お前たちもまた来るといい。我々は、いつでも歓迎するぞ」

 優しげな言葉。それを自分たちに向けてくれる彼らが傷つくようなことはあってはならない。カイルは、そう強く思った。

 そして、遺跡を出ようとした3人は、その背中を小さな手に引き止められた。

 服の裾を掴まれたカイルが振り返ると、そこにはファーネがいて、「まだもうちょっと待って」と言う。

「今、お兄さんたちをさがしてる人が空の上にいるの」

「――――っ!?」

 エスタが強く反応する。

「ファーネ、やつらはこの上にいる。ということか!?」

 ファーネが頷く。

「でも、大丈夫。この遺跡の中にいれば、外からは何もできないから。お爺様の力はそういう力なの」

 カイルはその言葉を聞いて、ガルゲンの説明を思い出す。

『この遺跡が見えなかったというのは、エーデ卿の御力ですよ。エスタさんのように、見たものの質を見抜くような能力を持っていない限り、視覚だけでなく範囲内にある全てが騙されるのです。だから当てずっぽうで触ろうとしてもこの遺跡には手を触れることもできませんし、たとえば遠距離から何かを当てるということもできないんです』

 それを思い返したとき、カイルはある引っ掛かりを感じた。

 しかし、自分たちを狙っている追っ手がすぐ近くにいるという事実に動揺し、すぐにその引っ掛かりは脳の片隅に追いやられた。

「たぶん、見つからなかったらまた違うところに行くと思うから、おじさんもそうなってから行った方がいい」

 そう言って、ファーネは広間の方へ戻って行った。ファーネの千里眼は精度が高いからその辺りは信頼していいだろうとエスタ。出るところを見つかるわけにもいかない。巻き込まないことも大切だが、何より捕まるわけにはいかない。

 ファーネの言葉を信じて、3人は遺跡の中でもうしばらく過ごすことになった。


 しばらく、と言っても、重苦しい沈黙の中で待ち続けている時間は長いものだった。

 待っている間、エスタはフランツのところへ行っていた。先刻受けていた申し出通り、機械馬の整備を頼んでいたのである。ただ、エスタの機械馬は速度と安定性に特化した機種であるらしく、細かい指示が必要だったのだ。

 ファーネは「ガルゲンにお別れしてくる」と言って、彼の遺体が置かれている部屋――カイルが何かの像を見つけた広い部屋に行ったきり、戻って来ていない。ルキウスは入口のあたりで何かを考えているような素振りを見せていたので、カイルは1人きりでエーデ卿と向かい合っていた。

「何か尋ねたいことがある……という顔をしているな。私に答えられる範囲でなら答えるぞ?」

 あくまで穏やかな口調のエーデ卿。

 その言葉に、カイルは不夜の街デゼールロジエで聞いた、ある噂話を思い出した。もしかしたら自分たちの旅の目的地になるかも知れない――そう思った場所。

「エーデ卿。最果ての海という場所をご存知ですか?」

「最果ての海、か……」

 デゼールロジエで立ち寄った店にいた3人の酔っ払いが話していた話。そこでは全ての理不尽や苦痛から解放され、誰もが本当の意味での幸福を得ることができるといわれているらしい。しかしそれは、3人組の中でも年配だった男が子どもの頃に近所の語り部から話を聞いた程度のものであり、どこにあるのかも、何があるのかもはっきりとはわからないらしかった。

 その話を聞いてから、カイルの頭の片隅にはずっと≪最果ての海≫のことが留まっていた。

 話の内容が気になったことももちろんあったが、その話を聞いたとき、話には出てきていなかったはずなのに≪最果ての海≫という呼称がカイルの中には自然に浮かび上がった。そして、不思議なことではあるが、その名前が脳裏に浮かんだ瞬間、中央収容所の中でルキウスに助けられたときに感じた懐かしさに似た感覚があったのだ。

 どこか痛みを伴う、既視感に似た感覚。

 幸福という言葉の響きにも惹かれたが、カイルはその感覚の正体を知りたかった。だから、そこについて得られる情報は少しでも多くほしいと思ったのだ。

 エーデ卿は少し考え込んだ後、あぁ……と呟いて話を始めた。

「その場所のことなら、私も聞いたことがある。何でも、そこでは全ての苦痛から解き放たれて、幸福の中で生きられると言われていた場所だ。本来ならエデンがその役割を担うはずなのだろうが、現実はそういかないからな。その地を夢見る者もかつては多かったが……。お前たちの旅の目的地はそこなのか?」

 その問いかけに、カイルは少し躊躇してから「少なくとも、僕の目的地はそこのつもりです」と答えた。

 エーデ卿はカイルの答えを聞いて、やはり躊躇いがちに口を開いた。

「私は……、あくまで私の意見ではあるが、やめておいた方が賢明だと思っている。エデンができて百数十年が経っている。その間に、共存した両種族の世界は、それまでとは比べ物にならないくらいに広がった。恐らくはこの星に我々の知らない地などないのではないかと言うほどに。

 それでも、お前の言う最果ての海のような場所は見つかっていない。少なくとも現時点では確認されていない。そもそもそのような場所は実在しないのではないか? もしくは、あったとしても既に滅びているのかも知れない。案外、グラディウスの若造と共にテラニグラで暮らしていても満足できるかも知れんぞ?」

 その声音には、最果ての海という荒唐無稽な存在に縋ろうとしているカイルを嗤う響きはなく、心の底から案じている優しさを感じられた。そして、彼が勧めたテラニグラでの暮らしも、確かにいいものであるかも知れない。テラニグラもまた世界有数の大都市であり、暮らしに困ることはないだろう。そして何より、そこならばエスタの庇護を最大限に――エデンを出てから今に至るまで受けてきたものよりもかなり手厚く――受けることができるに違いない。

 この数日間、隣にルキウスがいることはもちろんカイルにとって大きな支えだったが、エスタが前にいる。その安心感はとても大きなものだった。それを思うと、エーデ卿の提案は、自分が考えているものよりも遥かに賢明だし、遥かに心が楽なものだった。

 それでも。

 いや、だからこそ。

「僕は最果ての海に行ってみたいんです」

 守られるだけの自分から脱け出すために。誰かを守れる自分になるために。そこに根拠はなかったが、カイルにとっては最果ての海に辿り着くことと彼自身が求める答えはイコールのような気がしていた。

 エーデ卿は、そんなカイルの答えをどう思ったのだろうか。それはわからなかった。

 しかし、「ならば……」と口を開いた。

「その地は、この大陸の西端にあると言われていた。そこまで辿り着くのは恐らく困難を極めるだろう。だから、無理をしてでも着こうなどとは決して思うな。引き返すことを躊躇ってはならない。退くことも1つの勇気であることを、ゆめゆめ忘れるなよ」

 しわがれた――それは老齢によるものだけではなく、体内の腐敗によって声帯も既に正常ではないことに起因しているのだろう――、しかし力強く優しい声だった。

「カイル!」

 振り返ると、入口で何かを考えていたルキウスが、自分の方に走ってくるのが見えた。

「どうしたの、ルキウス?」

 その様子がいつもと違っていることに気付いたカイルが尋ねると、「何かおかしいことに気付いたんだけど」と前置きをしてから、ルキウスはカイルに尋ね返した。

「この爺さんの能力の幻覚って、外側からは『ある』ってわかってないと触ることもできないって、ガルゲンが言ってたよな?」

「うん……」

 ガルゲンの説明では、エーデ卿の能力の範囲内に入ったものは、外側からでは全く知覚できなくなるのだという。エスタの能力のように見ることに特化した力でない限り範囲内の物を知ることはできず、知覚できていないときに何かをしようとしても、たとえば遠くから何かで狙ったとしても決して当てることはできない……というのがエーデ卿の使う「幻覚」なのだと。

「外からは、当てられない……?」

 カイルは、先刻感じた引っ掛かりの正体に気が付いた。

 ルキウスも、それを口にする。

「あの爆発ってもしかして、中から誰かがやったんじゃないか?」

「そんな……!」

 カイルが困惑した瞬間だった。

「ぐ…………っ」

 小さな呻き声がすぐ近くから聞こえて、胸を押さえたエーデ卿が振り返ったカイルの目の前で倒れた。埃が薄く積もった床に倒れた体の下からは大量の血液が染み出て、カイルの靴も濡らす。まだ温かいその感触に、そして目の前の光景に言葉を失っているカイルと、前方を睨み付けるルキウス。

 2人の視線の先には……。

「お前、どういうことだよ!」

 ルキウスの声に、怒りと少しの緊張が混じる。

「帰っていてくれればよかったんですけど、追っ手とやらも間が悪いですよね。だけど、ぼくも待てなかったので」

 その声に、先刻までと変わらず穏やかな声とにこやかな表情で、能力で作り上げた剣を右手に持ったガルゲンは答えた。

こんばんは、遊月奈喩多です!

砂漠のお話を書くに当たって資料がほしい……的なことを思っていた遊月でしたが、結局写真集くらいしか使いませんでした(まぁ、今回は遺跡メンバーのバックボーンとか関わり合いがメインのお話だったので。むしろ前回こそ必要だったか?)。

残暑が厳しいですが、皆様はお元気で過ごされているでしょうか? 遊月は今日、職場の同僚から「大丈夫か?」と言われて「大丈夫ですよー」と答えた数分後に1回倒れました。水分補給大事!

ということで、最後にどうでもいい話を挟みましたが、また次回お会いしましょう!

ではではっ!

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