表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/34

砂漠の幻

こんばんは、本格的に夜専門と思われそうになってきた遊月奈喩多です!

もう、会社のPCでも「な」「ゆ」「た」の予測変換は私の名前の字になりましたよ……フフフ

それはともかく、今回は第2話です。かなり時間が空いてしまいましたね、すみません。

前回までの、『最果ての景色』

人間と魔族が共存する世界。楽園と謳われる都市、エデンの監獄で絶望的な生活をしていたカイル=エヴァーリヴは、魔族の少年ルキウスに誘われるままに、監獄の外へ出ます。そして、エデンから離れるためにエデンに疑問を持つ魔族の豪商、エスタ=グラディウスの助力を得て砂漠の街、デゼールロジエに辿り着く……というところまでが、前回の大まかなお話でした!

しかし、そんな彼らを付け狙う影も迫りつつあり……!?

それでは、本編スタートです!

 夜のない砂漠の街、デゼールロジエ。

 エデンから抜け出してそこに到着した次の日、カイルたちはエスタに連れられて薬を売る手伝いをすることになった。デゼールロジエの近辺は見渡す限りの砂漠地帯であり、薬の原料になるものがあまり採れない。そういう地域では薬の希少価値が高くなりがちで、当然の結果として薬自体の価格も高くなりがちだという話は道中でエスタから聞いていたし、何となくカイルには理解できる話だった。

 そして、デゼールロジエで2人を伴ってエスタがしようとしている仕事は、そうした地域に安価で薬を卸すこと、また薬屋のない地域においてはその薬を直に販売することである。

「よくわかんねぇけど、安く売るって損なんじゃないのか?」

 出かける前、覚えたての知識を総動員してそう尋ねたルキウスだったが、「そこいらの薬師とは、質と規模が違うからな」という一言で片付けられてしまった。

「まぁ、とにかくだ!」

 安ホテルのベッドで勢いをつけて立ち上がったエスタは、「オレの旅に同行するわけだから、一応商売の手伝いはしてもらうぞ?」と2人に言った。自分たちをエデンの外に連れ出してくれて、その上まだ守ってくれているのだからそれくらいはして当然と思ったカイルと、不満たらたらのルキウスは、明るい日差しの下へと出て行った。

 しかし、いざ売り始めてみると不満なんて言っていられないくらい忙しかった。飲み屋が多いデゼールロジエでは、酔い止めであったり二日酔いを抑える薬であったり、アルコールを摂取した者たちにとって必要な薬に対する需要が高かったようで、その需要を読み取っていたエスタの露店は大繁盛だった。客に中には昨夜カイルたちに声をかけた男もいて、「おっ? お前ら昨日の。兄ちゃん、もう酔いは大丈夫なのか?」とルキウスに心配げな声をかける一幕もあった。

 売り始めて1時間ほどして、客足が少し落ち着いた頃、エスタは「いい機会だから、少しこの街を見て回ってきてもいいぞ。リシャールのやつなら今時間があるだろうからな」と2人に言った。

 寝不足だったこともあって遠慮しようと思ったカイルだったが、この言葉を聞いて舞い上がったのがルキウスである――無論、カイルたちにはそれを隠そうとしていたが。そのルキウスに引かれる形で、カイルもデゼールロジエを見て回ることになった。

 エスタの携帯端末で呼び出されてやって来たリシャールに連れられて、2人は明るいデゼールロジエを歩いた。

「ねぇ、ルキウス。大丈夫?」

 デゼールロジエが眠りに就くといわれる朝――遅くとも午前6時には全ての飲食店が閉まるとはいえ、歩いている道にはまだ濃厚な夜の残り香が漂っている。昨夜のように体調を崩したりしてはいけないと思ったカイルは、こまめにルキウスの様子を気にしていた。

 そのカイルに、ルキウスは気も漫ろな態度で「あぁ、大丈夫だけど?」と答える。

「もし気持ちわるくなったら言ってね? すぐにどこかで休もう」

「んー、今のところ何ともないんだよな。……たぶんこのおっさんが飲ませてくれた薬のおかげだと思う」

 後半部分は前を歩くリシャールに気を遣ってか声を潜めて、ルキウスは答える。言われてみれば、昨夜のルキウスは酒の匂いを嗅いですぐに酔ってしまっていたのだから、今こうして歩いて会話をしていられるという状態は、やはりリシャールの作った薬のおかげなのだろう。

「それにしても苦いけどな。やっぱりあれ、薬じゃないのかも」

「ちゃんとした薬よ、ルキウス? それにおっさんじゃなくて『お姉さん』でしょ?」

 いつの間にか立ち止まってルキウスを見下ろしていたリシャールの笑顔が、妙に怖い。ルキウスも思わず「はい……」と敬語になってしまうほどの迫力に、カイルまで同じように返事をしてしまった。

「ところでカイル。師匠せんせいとはどういう風に出会ったの?」

 しばらく歩いていると、リシャールがそう尋ねてきた。

「えっ?」

「ううん、何か師匠があんたのこと随分気にかけてるみたいだから、ちょっと気になっちゃって。あの人があんなに気にするのって、妹さんくらいだったからさ」

「…………」

 エスタの妹。

 彼がエデンに対して疑問を抱くようになったきっかけを作った人物。彼女が中央収容所に入れられて「事故死」したことで、エスタはその詳細を調べるようになり、今ではエデンの反対勢力をまとめる存在にまでなっている。

 何度目かに会ったとき、彼からその話を聞かせてもらったことがあったが、それでも「妹」についてはほとんど詳しいことを聞けなかった。敢えて尋ねることでもなかったように感じていたし、何より話をしているときのエスタの表情からは、まだ失った妹への愛情が強いことがありありと窺えたからだった。

「リシャールさんは、知ってるんですか? その……エスタさんの妹さんのこと」

 単なる好奇心とは認めたくはなかったが、カイルは純粋に知りたいと思った。エスタにとって、恐らく誰よりも大切だった存在。それを知ってどうするのか、と問われたときの答えが見つからないから、この気持ちは単なる好奇心と思われても仕方がないのかもしれない。それでも――

 ぽん、と頭を大きな手で撫でられる。

 見上げると、リシャールは優しげな、それでいて少し悲しそうな微笑みを浮かべていた。

「わかるよ、その気持ち。アタシも似たようなこと思った時期があったから。直接は会ったことないけど、いっしょに旅をしてたときの師匠は妹さんのことばっかり話してたの。この花は妹に似合いそうだ、とか自分が薬師もやってるのは妹が小さい頃に熱を出したのがきっかけだ、とか。もう耳にタコができるくらい。本当に愛しているんだなって、凄く伝わった。そんな妹さんを失った悲しみを共有して、支えてあげたいって思ってたんだけどね……」

 ふっ、と遠くなったリシャールの瞳に、カイルはそれ以上のことを言えなくなってしまった。軽はずみに訊くべきことではないとわかっていたはずなのに。リシャールにとっても悲しいことを思い出させてしまった。後悔のあまり、視線を地面に向ける。

 一方、ルキウスもカイルとは違う理由で何も言えずに下を向いていた。

 ……妹。家族。

 自分にもそう呼べる存在がいるのだろうか?

 考えても、恋しいとか会ってみたいという気持ちすら湧かない。考えられるような状況ではなかったのだろうから仕方がない――カイルに今自分が感じている気持ちを打ち明けたらそう言うのだろう。実際そうなのだから、反論のしようもないのだが……。

 リシャールは再度カイルの頭を、そして反対の手でルキウスの頭を撫でて、「まっ! お互い話したくなったら話すってことにしましょ!」と話を打ち切った。

「ほら、見てみて! あそこ、師匠のお気に入りの店なの」

 リシャールが指差したのは何かいかがわしい雰囲気を漂わせた装飾が目立つ建物で、カイルは反応に困って辺りを見回す。そのとき、気付いた。

「リシャールさん、この辺りってこんなに静かなんですか?」

 カイルの言葉に、リシャールも辺りを見回す。

「いえ? この辺りって昼間でもやってるレストランとかがある通りだから、もっと賑やかなはずなんだけど……。変ねぇ」

 リシャールも首を傾げる。カイルは何か妙な胸騒ぎを覚える。

 瞬間。

「伏せろ、カイル!」

 ルキウスの声に反応して屈みこんだカイルの頭上を、銃弾が掠めた。

「…………っ!!」

「ちょ、ちょっと! 何なの!?」

 髪を僅かに焦がす温度が、もしも反応が遅れていたらどうなっていたかを暗示してカイルの背筋を冷やす。思わず後ろを振り返ったカイルをルキウスが止める。その視線は前――銃弾が放たれた方角を向いたままだ。再び前を向いたカイルが見たのは、通りの中央に立つ1人の少年だった。左手に握られた拳銃はカイルに向けられたままだ。しかしその2発目が放たれることはなく、代わりにその少年はにやり、と口元を歪めた。

「久しぶりだね。会いたかったよ、ルキウス。そしてカイル=エヴァーリヴ」

 親しげな口調で歩み寄る少年。

「ちょっとちょっと! いきなり撃っておいて久しぶりも何もないんじゃないの!? 2人とも早く逃げなさい! どういう知り合いかわからないけど、師匠の所に、」

「少しどいていろ、人間」

 少年が言うや否や、リシャールの巨体は真横の壁に叩きつけられた。

「リシャールさん!」

「行くな、カイル!」

 慌てて駆け寄ろうとするカイルを、ルキウスが今度は手で掴んで引き止める。「でもっ!」と言いかけたカイルは、再び鼻先を掠めた銃弾に沈黙せざるをえなかった。

「安心していいよ、カイル=エヴァーリヴ。その人間は死んでいない。死なない程度には手加減したさ。あまり殺すなとお姫様にも言われているしね」

 嘲笑の色を浮かべながら、再び少年は近付いてくる。後ろで1つに束ねられた髪は夜闇にさえ残る色味が一切ない黒で、衣服も黒ずくめだ。黒くないのは、こちらに銃を向けている手と同じく生気を感じさせない青白い肌と、にこやかな表情と裏腹に冷ややかな気配を滲ませる金色の瞳くらいのものだった。そして顔にある痣は、その少年が魔族であることを証明していた。

 そして、こちら側には面識はないにもかかわらず名指しで呼んでくる相手。つまり――

「エデンからの追っ手……?」

 脱走者である自分たちを連れ戻しに来たのだろうか。近付いて来る少年に後ろに下がるカイルと、身構えるルキウス。そして少年は事も無げに頷き、「ルキウス。お姫様がキミの帰りを待っている。なに、用件はすぐに済むだろうさ」と告げた口をまた笑みの形に歪ませた。

 睨み付けるルキウスの顔を笑顔のまま見つめ返す。

「自分からは来てくれないのかい?」

「誰があんなとこ戻るかよ! あの女に言っとけ、俺はお前らなんかの思い通りには絶対ならねぇってな!」

 ルキウスの吐き捨てるような怒声を聞いた少年は両手を広げて大袈裟に嘆く身振りをした後、むしろ嬉しそうに「まぁ、それでこそキミたちだ。くくっ、もしボクがこのまま帰ったらあのお姫様はどれだけ悔しがるだろうね? まったく、顔が目に浮かぶようだよ」と言った。

 そしてその場に――2人の数歩ほど前で立ち止まる。金色の瞳に見つめられたカイルは、その冷たさに思わず身をすくませる。その視線から庇うようにカイルと少年の間に入ったルキウスは、カイルに「逃げろ」と囁いた。

「えっ!?」

「大丈夫だ、こんなやつすぐにぶっ倒して追い付くから」

 ルキウスとしては、本心からカイルが傍にいない方が好都合だった。その方が自分の行動範囲も制限されなくなる、そう思ったのだ。しかし、その思考を先回りするように黒衣の少年が嗤う。その目は、相変わらず2人を射抜くように見つめている。

「もう遅いよ、ルキウス。ボクだってあのお姫様にキミを連れ帰るように命じられている。来てくれないのなら、無理にでも捕まえるしかないね」

 少年が陶器のように白い指を鳴らすと同時に、突然近くの建物が轟音を立てて爆発した!

「――――っ!?」

 一瞬のうちに起こった爆風に吹き飛ばされる2人。背中を強打して、ルキウスの視界が明滅する。むせ返ったまま息を吸おうとした喉を、白い手が襲う。

「ぐっ……! か――――っ」

「無駄だよ、キミはボクと来るんだ」

 薄れる視界の中央から聞こえる自分を嘲笑う含み笑いに抵抗しようとしたルキウスだったが、体に力が入らない。その姿を、また敵が嘲笑う。

「頚動脈に少し圧力を加えれば、脳へ行く血液は大幅に減らせる。それは人間だって魔族だって同じだ。もっとも、そんなことすらキミには学ぶ機会はなかったろうけどね。とにかく、キミを気絶させるくらいならそう力を入れる必要もないんだよ?」

 そうは言いながらも、少年はその細身の外見からは想像もつかない握力でルキウスの首を絞めている。喉の辺りから頭頂部にかけて熱と鈍痛がじわりと広がっていき、頭の中がどろどろの液体が満たされていくような不快感がこみ上げる。吐く息すらなくなり、意識が混濁しかけたとき、不意に力が緩んだ。

「――――っ!」

 押し殺した呻き声が聞こえ、それはすぐ舌打ちに変わる。

「カイル=エヴァーリヴ。キミの番はまだだったんだけど……やっぱりキミが1番の厄介者か」

 憎々しげに呟く少年の右腕には、小さなナイフが刺さっていた。リシャールが護身用にとカイルに持たせていた物だ。少年はルキウスの首から手を離し、その場に立ち上がる。

 近付いてくる少年から距離をとろうとして、カイルは爆発した建物の瓦礫に躓いてその場に尻餅をついてしまう。その姿を見下ろす少年の瞳は冷たさを増し、口元からは笑みが消える。その代わり、混じり気のない殺意を隠すことなくカイルに向けながら、足下の瓦礫片を踏み潰して呟く。

「この破片くらいの存在のはずだったキミが、咄嗟にこんなことをできるとはね。キミは本当に、いつも大事なところで狙ったようにボクの邪魔をしてくれるよ……」

「…………っ!」

 声にならない悲鳴がカイルの喉から絞り出される。

「キミのような人間の少年の首なら、きっとルキウスを気絶させるよりも楽に砕くことができる。少し早いかもしれないけど、キミにはここで消えてもらうよ。何があるかわからないからね」

 咄嗟に後ろの金属片を掴もうとしたカイルだったが、「そんなことはさせないよ」という少年の声とともに突風が巻き起こり、金属片は音を立てて吹き飛ばされる。悲痛な声を漏らすカイルの首に手を伸ばそうとした少年の動きが、舌打ちとともに突然止まる。

「おーい、誰かいるのか!?」

 遠くから、この街の住民だろうか、大人の男の声が聞こえた。それに続いて、爆発音を聞きつけたのだろう、喧騒の気配を感じた。

「――時間切れか。キミら2人だけならどうにでもなったが、仕方ない。今回は退くよ」

 徐々に近付いてくる人だかりを忌々しげに一瞥して、鳴り響くサイレン音の中で少年は言う。

「だが、いずれにしても結末は変わらない。キミたちも直にそれを理解できるさ」

 最後にそう言って立ち去る少年の背中は、数秒後に到着した人だかりの向こうに消えた。

「なんだなんだ、何が起こったんだ?」

「おい、あれエスタ先生と一緒にいた……!」

「大丈夫か、お前ら!」

 そんな声を最後に、カイルの意識は闇に沈んだ。


「なに、襲われた?」

 建物――クラブ『砂漠のバラ』の爆発事故の現場からの救出という形で、カイルとルキウス、リシャールの3人はデゼールロジエの病院に担ぎ込まれた。ルキウスが――そしてカイルよりも先に意識を取り戻したリシャールが訴えた黒衣の少年の姿は見つからず、その痕跡も残ってはいなかった。カイルが意識を失ったのは単に緊張が解けただけのようで、傷としては壁にぶつかったときの擦り傷くらいのものだった。

 しかしルキウスの方は、首を絞められたせいだろう、頚骨に小さなひびが入っており、治療が必要だった。

「ともかく、早く発たにゃいかんな。まさか機械馬で1日かかる所にもう追い付いてくるとは思わなかったが……」

 信じられない、という様子で言うエスタだったが、実際にルキウスをエデンに連れ戻すための追っ手が現れている。機械馬の走行速度と性能を思えば、この場合はエスタのように襲撃者の存在を疑うことは至極当然とも言えたが、実際にルキウスが首を絞められており、カイルの手には誰のものとも知れない血液が付いている以上、その現場に居合わせなかったエスタでも彼らの話を信じざるをえなかった。

 カイルの目が覚めたら自分の所に連れてくるようルキウスに言い置いて、エスタは機械馬を預けている電子格納庫へ足早に向かって行った。リシャールもエスタに付き添って部屋を出て行き、1人取り残されたルキウスは、傍らのベッドで眠っているカイルへ目をやる。そこには、安心しただけで気絶してしまうような、自分と比べてあまりに弱い、戦いにおいては近くにいない方が好都合に思える人間の姿があった。

 だけど…………。

 ――――もし、こいつがいなかったら俺は……?

 その思いが、脳裏に浮かぶ。

 相手は明らかに自分より強かった。いとも容易く追い詰められて、あと少しで意識を失うところまでになった。もしカイルがナイフを使っていなかったらエデンに連れ戻されて、また苦痛だらけで閉塞した実験体としての、死に向かうだけの日々が待っていたのだろうか。

『ルキウス、貴方は――いえ、貴方の目はいずれ私の一部になる』

 それまでは死ぬな。その言葉の意味を、ルキウスは理解している。『核』と呼ばれる部位――それが自分の場合は目であることもルキウスは教えられていた――を取り出された魔族がその後迎える末路を、ずっと水槽の中から見つめていたのだから。

 耐え難いほどの恐怖が押し寄せてくるのを感じて、ルキウスは明るいブロンドの髪に爪を立て、皮膚を破らんばかりに力を込める。頭皮に食い込む爪がもたらす痛みへの逃避には、もう慣れていた。いつ死が訪れるともわからない研究棟での日々は頻繁に彼の精神を蝕んでいた。今になって思う。自分の身を案じて涙を流す存在を知った、今ならば思う。生物として認められずにいた「あそこ」での日々は、あまりに恐ろしかった、と。

「戻りたくない……!」

 我知らず、弱々しい声が喉から漏れる。

 震える両膝をそのままに、ルキウスは荒い息遣いで頭を抱える。中身をかき混ぜられるような感覚が恐怖に拍車をかける。固く目を閉じ、それでも先刻見た追っ手の身の毛もよだつような嘲笑が忘れられず、小さな呻き声が震える。

「ルキウス……?」

 傍らのベッドから、細い声が聞こえた。見ると、ベッドの上でカイルが薄く目を開けて、心配そうにこちらを見ている。

「どうかしたの? ……首は、大丈夫だった?」

「あ、あぁ。あれくらいどうってことねぇから」

 恐怖の淵から自分を救ったその姿はあまりに脆そうで、少しでも力を加えられたら簡単に崩れてしまいそうに見えた。しかしあの時、もしも傍にカイルがいなかったら自分はきっと死ぬまで実験体として扱われ、そして道具として殺されることになったのだろう。カイルは確かに、その窮地から自分を救ってくれた。その弱くて小さな手に、自分は救われた。ルキウスは思わずベッドに身を横たえたままのカイルの手を握っていた。

 今まで感じたことのなかった、優しい温もりを持った手だった。

「――ルキウス?」

「……な、何でもねぇよ。あ、そ、そういや、エスタのおっさんが馬のとこまで来いって言ってたからな。目ぇ覚めたんだったら早く来いよ」

 相変わらずまっすぐに自分を見つめてくるカイルの顔から思わず目を逸らし、ルキウスは病室を後にする。病室から出る直前に振り返ったカイルは、ちょっと待ってて、と言いたげな表情を向けてそのまま支度を始めている。ルキウスは、その姿を見て安堵する。

 危ないところだった、さっきの独り言を聞かれていたら、きっとまたこいつは自分のことを心配する。別に嫌なわけではないが、何というか鬱陶しい。それに、何だかわけのわからない気持ちになる。すぐに聞かれなかったところをみると、たぶん聞かれてはいなかったのだろう。

「じゃあ、待っててやるからさっさと来いよ」

「うん、ありがとう」

 ――それもやめろって。そう言いたくなったのを堪えて、ルキウスは部屋の外に出た。

 その背中を見てからカイルは病室を見回す。エデンの病院では見られなかった暖色の壁が少し目新しいその部屋には自分の他にも1人いるようだったが、その姿はカーテンに遮られて見えなかった。ルキウスと入れ違いに入って来た看護士に礼を言ってドアを出ると、律儀に近くで待っていたルキウスに連れられて格納庫へ向かうことになった。

「遅ぇぞ、カイル。もうおっさんが待ちくたびれてるかも知れない」

「ごめん、じゃあ行こう」

 それからデゼールロジエの街を2人で歩き始めた。昼から夕方の茜色に変わり始めている空の下、街は既に朝方起こった事件のことなど忘れたように――爆発によって自分の店をなくした『砂漠のバラ』の店主は例外として――夜の賑わいへとその熱を高めて始めているように感じた。

 何かが気に障ったのか、少しも振り返らないままエスタの所へ向かって行くルキウスの後ろ姿を見つめるうち、カイルはベッドで聞いた彼の呟きに思いを馳せていた。

『戻りたくない……!』

 刹那、いくつかの情景がカイルの脳裏をよぎる。

 中央収容所から自分を連れ出したときの自身に満ちた姿。エデンのことを知らないと言ったときの少し寂しげな表情。しかしそれ以上に外の世界との出会いを心から喜んでいる姿と、それを素直に表そうとしない言動。能力の使いすぎで倒れたときの、すぐにでも止まってしまいそうな儚い呼吸。追っ手が言った「お姫様」……きっとルキウスが「あの女」と呼んだ人物への隠しようもない怒りの声。

 そして意識が戻った瞬間に視界に入った、恐怖に戦き頭を抱える姿と、その呟き。

 縋るように重ねられた、少し冷たくて……たぶん自分よりも少し小さな手。

 今、自分の前を歩いている少年の抱えるもの。その全てを肩代わりできるなんて思っていない。自分にはそれほどの力はない。それでも、彼が自分を守ってくれていたように、自分も彼を守りたい、守れるだけの力がほしいと、カイルは心から思った。

 格納庫に着くと、エスタは愛馬「IAR‐3型02135」の傍らに立って荷物を積み終えようとしていた。

「おぉ、目が覚めたのかカイル。まぁ、色々言いたいことはあるが、とにかく行こう」

 エスタはあくまで穏やかな表情のまま、最後の荷物を馬車に載せた。馬車の中から、「師匠、これで全部?」という声とともにリシャールが顔を見せる。そして、カイルとルキウスに気付いてにこやかに手を振った。

「カイル、もう起きて大丈夫なの?」

「大丈夫だよ。こいつ、安心してぶっ倒れただけなんだから」

 馬車から下りて心配そうに駆け寄って来るリシャールの言葉には、ルキウスが間髪入れずぶっきらぼうな口調で答える。カイルもその言葉に続いて「はい、もう大丈夫です」と頷きながら答える。

「そう? でも一応これ持っておくといいわ」

 そう言ってカイルに小包を手渡した。中に入っていたのは、いくつかの薬。リシャールはそれを覗き込んでいるカイルの耳元に近寄り、周囲には聞こえないような――話しかけられているカイルでも聞き取りにくいような――小声で囁いた。

「師匠から聞いたわよ、あんたたちエデンから逃げてきたんですって? しかも収容所から。だったら、師匠の町に連れて行ってもらうのがいいと思うわ。あそこはたぶん安全だから」

 それまでになく真剣な顔で言うリシャールに、「ありがとうございます」と礼を言って離れようとしたカイルはまた肩を捕まれて引き止められた。

「カイル。……師匠のこと、よろしくね」

 そう言った後、「あっ、じゃあアタシお店の仕込みがあるから、もう帰るね! 師匠とルキウスにもよろしく言っておいて!」と足早に街中を戻っていった。リシャールの雰囲気を思うと、最後に抱きついたりしてきてもおかしくないと心の準備をしていたカイルは、その意外なほどあっさりとした別れに一瞬拍子抜けしたような気分になったが、ルキウスの「カイル、そろそろ行こうぜ!」という声に応じて、すぐに馬車に乗り込むことにした。

 だから、少し離れた所からその様子をリシャールが悲痛な目で見ていることには気付けなかった。


 2人の少年が馬車に乗ったのを確認したエスタが、機械馬の手綱を強く握る。主の力強い手を感じた機械馬はデゼールロジエを1歩出た瞬間、西北西の方角――エスタの住む大都市テラニグラを目指して駆け出した。見る間に砂漠の街が遠ざかっていく。それほどの速度で移動していても馬車内に振動が伝わってこないのは、高感度のバランスセンサーが搭載されているからだと自慢げに話すエスタ。何でも、そのセンサーはエスタの所有する工場で製造されたものであるらしい。

 砂漠の旅は長い。特にデゼールロジエを擁するトルッペン砂漠は、まだまだ西へ続く。隊々(トルッペン)というその名の通り、いくつものキャラバンが協力しない限り越えることはできないと、かつては謳われていたらしい。機械馬で旅しているとその実感はあまりなかったが、そう言われても不思議ではない広さがあることを、カイルは示された地図を見て理解した。

 エデンからデゼールロジエまで1日足らずで辿り着くことのできた機械馬でも、デゼールロジエを発って数日後、まだテラニグラには着いていなかった。機械馬に搭載された設備によって砂漠に特有の温度差に苦しめられることはなかったものの、途中途中で見かける生物の死骸を見ると、自分たちにもこうなる可能性があるのだろうか、とカイルはわずかに不安を覚えた。

 そして、この旅をいつまで続けていられるだろうか……とも。エデンからの追っ手の存在が、そして奇妙な予感がカイルの心を波立たせる。

 一方、ルキウスは陽光が降り注ぐのも構わず、窓に張り付いて外の景色を眺めていた。

 彼の目には、広大な白が映っていた。空は青く、陽光を浴びて白く輝く砂がどこまで続いている。その光景は、エデンでは決して見ることのなかったものであったし、またデゼールロジエに着くときには気を失っていたから、彼にとっては初めて見る光景だった。こんなに世界は広かったのか――ルキウスは、半ば呆然とした気持ちでその言葉を胸に浮かべた。喜びや感動というよりも、途方もない虚脱感に近いものを、この瞬間の彼は感じていた。

 ……それでも。

 ルキウスは、より遠くへ――見えることのない砂漠の向こうを見るように――瞳を向ける。

 俺はあそこには絶対に戻らない。あんな地獄みたいな所があるなら、それこそ反対の所だってあるはずなんだ。ルキウスは、知らないことだらけの世界というものに思いを馳せた。

 そして、砂漠の旅はまだ続く。

 途中で、いくつかの廃墟を見た。人間と魔族が過去に世界中で繰り返していた抗争はこの地域にも及んでおり、かつて現在の1割ほどの面積であったこのトルッペン砂漠を取り囲むように栄えていた双方の国を滅ぼした。カイルが見つけた石造りの瓦礫であったり墓標であったりは、その全てがそれら亡国の繁栄の痕跡であるとエスタは説明した。多くの命が戦火に焼かれ、残った僅かな命もまた、人間が使った兵器や魔族の使った能力の残滓、もしくは同胞の屍に群がる虫を媒介にした伝染病の猛威のうちに消えていった。

 後に残った無人の城や宮殿も時間の流れとともに風にさらわれ、今現在見ている瓦礫からそうした命の名残を感じることなど、カイルにはできなかった。今いる場所がかつて緑豊かな地であったあったらしいというエスタの説明も、容易に信じられるものではなかった。

 ふと、それまで黙って外を見つめていたルキウスが口を開いた。

「なぁおっさん。ちょっと聞いてもいいか?」

「おぉ、どうした?」

「さっき話したやつみたいに、いくつもの能力を使える魔族っているのか?」

 それはルキウスだけではなく、カイルの中でも燻っていた疑問だった。魔族は1人につき1つの能力しか持たない。それがカイルの、いや恐らく魔族側も含めたエデンの一般住民たちの常識だろう。しかし、ルキウスを連れ戻しに、そしてカイルを殺そうとしたあの追っ手は…………。

 エスタは少し考えてから、口を開いた。

「オレもその辺りについて詳しく知っているわけではないが、魔族の能力が能力核を元にしているのは知ってるな?」

「はい」

 首を傾げるルキウスに代わって、カイルが答える。

 人間とほぼ変わらない外見をしている魔族が、それにも関わらず人間とは一線を画す要素――異能力を持っているのは、体内に「能力核」と呼ばれる部分が1つあるからである。「能力核」という固有の部分があるわけではなく、どの部分が能力核になるのかは決まっていない。本人にもそれは自覚しにくいものであるらしく、魔族住民は生後間もない時期での検診が義務付けられており、そこで能力核を知ることになる。

 この部分を著しく傷つけられた場合、魔族は能力を失うだけではなく命の危険にも陥りかねない。生後間もなく受ける検診には、自身のアキレス腱にもなりうる能力核の場所を確認させ、自衛の意識を持たせる狙いがある――そこまでが、カイルの知る「能力核」についての全てだった。

「オレにしたってそうだ。オレが持っているのは目で見たものの価値であったり成分であったり、そういうものが見える。物の売り買いだったり薬の調合だったり、まさにうってつけの能力ってワケだな。それとこれ、その要領で他の魔族の力も見えてな。

たとえばルキウス、お前の能力は空間を切って繋げる……そんなところじゃないか? カイルを連れて逃げたりできたのもそのおかげだな?」

「……あぁ」

 この言葉にはルキウスが頷く。自分の能力については幼い頃から散々教え込まれてきたのだ。いずれ「あの女」のものになる為に。

「まぁ、見ようとしなきゃ見えないもんだがな。それでも一応出会ったやつは全員見たつもりだぞ? 能力によってアレルギー反応を起こしやすい薬なんかもあったりするからな。で、オレが今まで見てきた限り、2つ以上の能力を持つやつは1人もいなかった」

「ってことは、あいつの能力も1つだけってことなのか?」

 信じられない、という口調でルキウスが尋ねる。それはカイルだって同じだった。あの黒衣の少年が引き起こしたと思われる爆発と突風が同じ原因であるとはとても思えなかった。風については小規模の爆風だったのではないかというエスタだったが、カイルにはそうは思えなかった。もっとも、カイル自身が能力を持っているわけではないから詳しいことは何もわからないが。

「……例外がないわけでもないだろうが、あまり考えられんなぁ。複数の能力なんていうのは」

 しかしあるいは……エスタは黙考する。

 ルキウスが囚われていたらしい中央収容所内の研究棟ならば、あるいはそういった技術が――誰かから何らかの手段で取り出した能力核を別の誰かに移植するような技術が研究されているのではないか……と。確証のない話ではあるが、調べてみる必要はあるかも知れない、とエスタは思った。

 再び廃墟群に差し掛かった辺りで、ルキウスが少し慌てた声で「おっさん!」とエスタを呼んだ。

 エスタにはその声が何を思ってのものであるかわかったのだろう、「あまり大きな声……いや音を立てるな」と潜めた声で返した。

「どうしたの、2人とも?」

 ただ1人状況の変化を理解できずにいたカイルも、馬車の中に流れる空気に従って小声で尋ねる。警戒心を剥き出しにしてじっと目を凝らしているルキウスと、その姿を不安そうに見つめるカイル。そんな2人を見かねたエスタは、安心させるようにカイルの頭を撫で、「あそこに遺跡が見えるな?」と遠くを指差す。その指先を、カイルは目で追う。

 その先には、かつて富豪の住まう大都市として栄華を極めた地の名残が残っていた。鉄筋で組み立てられた構想建造物が森のように乱立していた在りし日の面影を残しているのは、今や「人類が作った最も高い建造物」として名高い巨大な廃墟だけである。周囲には、それに比べると遥かに高さが低く、かなり古い年代の物と思われる建築物が立ち並んでいる。

「カイル、気を付けろ。あの小さい建物からこっちを覗いてるやつがいる」

 尚も警戒心を剥き出しに話の腰を折るルキウスを、エスタは軽い口調で窘める。

「ルキウス、そう警戒するんじゃない。あそこにいるのは敵じゃなく、いわゆる『遺跡の管理人』だ」

「管理人?」

「……、『遺跡の民』とも言い換えられるかも知れんな。彼らには、この遺跡以外に居場所がないからな」

 遺跡の民。

 そう呼ばれる人々について、エデンで普通の生活を営めていた当時真面目な学徒であったカイルは少しの知識を持っている。

 以前、抗争が止まった後の歴史である「後史」――エデンを始めとする共存計画が実行されたことにより世界は大きく変わったとされ、その最たるものである抗争の終わりを境に「前史」「後史」に分けられるようになった――の講義で習ったところによると、それはある特定の民族を指すわけではないのである。

 いわゆる前史に分類される時代に世界中で燃え盛った戦火。その中では人間も魔族も等しく大切なものや住む場所を失っていった。

 その後、黒崎戀らが掲げた計画によって新しい秩序が築かれ、大半の者はそれに救われ、または適応し、現在の世界を受け入れている。しかし中には、そうして築かれた新しい世界に順応することができず、例えば今カイルたちが旅をしているトルッペン砂漠の遺跡のような、かつて祖先が住んでいた――現在では荒れ地と化している――地に住み続ける者もおり、それを総称したのが遺跡の民という呼称である。つまり、「遺跡の民」というのは何もこの遺跡に住む者たちだけを指すわけではない。

「かなり少ないって言われてましたけど、まさかこんな所で見ることになるなんて……」

 ルキウスほどでもないが、カイルの声音にも警戒の色が混じる。エデンでの教育を当たり前に受けていたカイルにとって、彼ら遺跡の民はほとんど異世界の存在に近い。恐らくカイルでなくても、エデンの都市内で暮らしている者は似たような反応を示すだろう。エデンを疎い、エデンから逃げ出したとしても、やはりカイルはエデンの住民なのであった。

「……遺跡の民になるのは決して少数派ではないぞ、カイル。エデンではどう教えられてきたか知らないがな」

 その声音に、浅からぬ悲しみのような色が混ざっていることを察したカイルは、口を噤む。エスタの過去には、何らかの形で遺跡の民との関わりがあったのかも知れない。かつて世界中を旅して、今でも世界を股にかけて商いをしている彼には、きっと自分たちには見えていない世界の姿が見えているのかも知れない……と。改めてエスタとの距離を感じたカイルをよそに、「ここまで来たし、顔くらいは出しておくか」と呟いて、エスタは機械馬の手綱を握る。

 その力に反応して、機械馬は猛スピードで何者か――遺跡の民がいる廃墟へと向かい始めた。

「おい!? あそこに行くのかよ!」

 警戒していただけに、ルキウスの声に険しさがある。

 カイルが言ったような境遇を持つ遺跡の民とやらを警戒しているだけではない、ルキウスは少しでも早くエデンから離れたかったのだ。そうでないと、デゼールロジエに現れた追っ手の言葉が呪いのように絡み付いて離れないような感覚がして、体中が侵されて行くように思えたのだ。

「昔な、ここの長には世話になっているんだ。それに、そろそろオレたちの食料が尽きそうだろう? ここは薬を買えるような場所ではないからな、売ればわりといい食い物と交換できることもあるんだぞ?」

 エスタの暢気な口調と、今にも鳴き出しそうな自身の腹の虫に腹を立てる。そして、激しい不安に胸を掻き毟られるのを感じた。

 予感がある。

 もうすぐ、何かが自分たちに迫ってくるような気がする。

 だから、早くここから離れないと……! ルキウスは尚もエスタに訴えようとした。それでも、その間もなく馬車は遺跡へと向かっていく。そして、馬車は一際大きな廃墟の前で止まり。

 エスタの顔に、驚愕の色が浮かんだ。



 砂漠の街、デゼールロジエ。日が落ちて眠りから覚めたこの街にも、夜の闇は存在する。その闇に溶けるほどに憔悴しきった大柄な男が路地裏に構えられた移動式バーカウンターで頭を抱えていた。

「アタシは、何てことを……!」

「リシャールさん、もうそれくらいにして下さい。あなたが酔ったら……」

 傍らに立つ青年――リシャールが店主を務める『ラパン・エキャルラット』のウェイターが彼を宥めるように手を置くが、その手はすげなく振り払われた。

「大丈夫よ、師匠直伝の薬飲んでるんだから……。むしろ酔えたらどれだけいいか」

 リシャールの声音に、自嘲の影が濃くなる。それを聞いた青年はむしろ必死な口調で、まるで自分が弁解するかのように「あれは仕方のないことじゃないですか!」と声を上げる。リシャールは、その大柄な体が小さく見えるほどに気分を沈ませていた。

 その姿を見たウェイターが、更に声を荒らげる。

「リシャールさんが責任を感じることじゃない! むしろあなたは、」

「うるさい!」

 一喝。

 泣きそうな怒声が、泣きそうな顔で反論する青年の口を閉ざす。

「何て言ってくれたって変わらないの。アタシは、師匠たちを……ううん、あの子たちを裏切った……!!」

 そう言って、とうとう泣き崩れたリシャール。傍らに立つウェイターは、その姿を少しの苛立ちと、そして激しい悲しみともに見下ろす。

 どうして。

 どうしてこの人は、自分が助かったことを喜べない……!?

 ウェイターには、その理由がわかっている。

 それはきっと、それほどまでにあのエスタという薬師のことを想っているからだろう。そしてそれと同じくらい、エデンから命からがら逃げ出してエスタに保護されたという、自分とまったく同じ境遇を持つあの2人の少年に同情しているからなのだろう。

 そんなところに自分は救われたし、惹かれている。きっとその性格こそがリシャールの魅力なのだろう。それでも、あの場面で自分たちに選べる道など、それしかなかったのだ。そう割り切れない性格が、彼の魅力であり、弱さでもあるのだ。

 ウェイターの脳裏には、そのときの場面が蘇る。


 それは、謎の少年から襲撃を受けて意識を失った後のこと。

 リシャールはエスタから荷物を機械馬の馬車に積む仕事を言いつけられて、先に向かっていたエスタから数分ほど遅れて病院出て、格納庫へ向かっていた。そのときには、リシャールの体調を心配したウェイターの青年も付き添っていた。

『リシャール=ヴィビランシュ』

 冷たい声が、背中に投げつけられた。

 その声が、普段この街で耳にする浮かれたような声でも、病院を訪れる者のほとんどが発する浮かない声でもなく、ただ「止まれ」と命令するような声音に、まずウェイターが噛み付こうとして、リシャールに窘められる。

 振り返った2人の前には、いつからそこにいたのか、数人の――見ただけでどこかの看守をしているだろうと推測できる服装の――男が立っていた。

『えっと、何の用かしら? アタシたち急いでるんだけど……』

 何か厄介な予感を感じたリシャールはすぐさまその場を離れようとしたが、男たちは彼を呼び止めた時と同様、「決して逃がさない」という意志を感じさせる声音で『待て』と声を上げる。無論、声で引き止めるだけではない。中央に立つ男が声を発すると同時に、2人の周囲を看守が取り囲む。

『我々はこの街に脱走者がいると通報を受け、テラから来た者だ。心当たりがあるはずだが』

 テラ――エデンに存在する、中央収容所。そこはかつて、リシャールの日常となっていた場所だった。男たちが誰を探しているか、病院でエスタから全てを聞かされていたリシャールにはわかっていた。かつての自分と同じ境遇にある彼らを見捨てるわけにはいかない。リシャールはいつもそうしているように、とぼけてやり過ごそうと軽口を叩くために口を開きかけた。

『貴方に拒否権はない。もしも我々への協力を拒めば、脱走を手助けしたエスタ=グラディウスの命を保証することはできない。もちろん、貴方自身の命もね』

 その一言は、リシャールの口を噤ませるのには十分だった。

 かつての友人であり、何より自分に未来を与えてくれた恩人でもあるエスタの命をかける天秤など、リシャールには存在しなかった。

 沈黙を自分たちに好都合のものと看破したのだろう、中央の男は笑いながら言った。

『なに、貴方が直接あの少年たちに危害を加えなくてはならないというものではないさ。ある場所に彼らを誘導してくれさえすれば、それでいい。それで貴方の師が関わった件については見逃してさしあげよう。それも、貴方の行動次第だがね』

 そして男が示した「ある場所」は、リシャールの知る限り最も安全なはずの場所だった。


「それにしても、まさかテラニグラまであそこの支配下にあるなんて……」

 テラニグラは世界有数の大都市であると同時に、数々の大企業が本社を構えていることが理由で、企業機密保護の観点から外部による過度な干渉を拒否できる権限を持つ唯一の都市でもあった。そのテラニグラにすら、エデンの――というよりも中央収容所・テラの――手は伸びているのかと思うとリシャールは空恐ろしい気持ちになった。

 そして何よりも、言われるままにそんな場所へカイルたちを誘導してしまった自分への嫌悪が絶え間なくこみ上げてくる。

 それでも、エスタの命を見捨てるわけにはいかなかった。

 ウェイターはそのまま酒を飲み始めたリシャールを痛ましげに見つめながら、彼のポケットに入れられた通信端末を密かに取り出し、「少し失礼します」と先程までと違う冷静な口調で告げて、ビルの陰へ向かった。

「もしもし、こちらデゼールロジエの……」

 その声は街の隅に追いやられた夜闇よりも尚密やかで、しかし怜悧な響きを持っていた。



 轟音を立てて、エデンの空港から公用機が飛び立つ準備をしている。

 あまり見られないその光景は、広大なエデンの中でも噂が駆け巡り、多くの市民が目にするところとなった。一体何が起こるのだろう? 市民たちの目には一様に好奇心と期待の光が灯されている。しかし、その公用機に乗る人物が建物から出てくるところを見て、彼らはその物々しい雰囲気に思わず目を背けることになった。

 公用機に乗り込むべく現れたのは、看守長ロドリーゴを始めとする数人。その中には白衣の人物も数人いる。

 彼らは、外部からもたらされた情報によって脱走者を追うためにエデンを発つのであった。ロドリーゴの顔には、亀裂のように深いしわが刻まれている。その姿を見た市民は震え上がり、空港周辺からはたちどころに人だかりが散っていった。

 市民の視線など気にする必要はなかったが、一応はそれを見届けてからロドリーゴは公用機に乗り込む。

「どうして今まで行方がわからなかった!?」

 ロドリーゴの口から苛立たしげな怒声が漏れる。収容棟である地下1階から逃げ出した人間、カイル=エヴァーリヴ。そして研究棟である地下3階から逃げ出し、白衣の女が奪還を命じた魔族、ルキウス。その居場所が明らかになったのは2人がエデンを抜け出してから数日経った後のことだった。彼らはデゼールロジエでエスタ=グラディウスという魔族の商人と行動を共にしていることが確認された。

 ロドリーゴは苛立っていた。

 中央収容所からの脱獄をさせてしまっただけでも彼の矜持には浅からぬ傷が付けられていた。その上にエデンからも脱走させるなど……。

「エデンの周りは電子障壁になっているはずだ! 開閉部にも俺の部下が配置されている! その中をどうやってあいつらは脱け出したっていうんだ……!」

 公用機に乗り込んでからも怒りを隠さないロドリーゴに対して、侮蔑を隠そうともせず、白衣の男が笑う。

「それは貴方の部下に問題があったのだよ、スミス看守長。エスタ=グラディウスは我らに手向かう輩を保護しているという側面を持っている。恐らくは妹の復讐を企てているのではないか? 当時は今ほど被験体の生死には拘っていなかったからな」

「……連れ戻すしかないな」

 エスタ=グラディウスという商人が売る薬に依存している看守が少なからずいることについてはロドリーゴも理解していたし、多少の危惧もしていた。それでもそのような「些事」に関わろうとしなかった自身の怠慢が招いた事態なのだろう、とロドリーゴは不本意ながら認めた。

 それを察したのだろう、白衣の男は口の端を歪めながら口を開いた。

「あぁ。その為にこれから、テラニグラへ向かう。あそこはエスタ=グラディウスの本拠であるし、我々の協力者もいる。うまくすればやつが我々に反旗を翻そうとしている証拠なども見つかるやも知れん。この計画の重要性を理解して、くれぐれも慎重に動いてもらおうか、スミス看守長」

「言われるまでもないことだ」

 明らかに自分を見下した発言に、隣で話す男の頚椎を破壊するのに要する時間の計算を始めたロドリーゴであったが、それは自分に課せられた役目ではない。自分が受けた仕事は、脱走した2人の捕獲だ。より正確に言うならば捕獲を命じられたのはルキウスについてのみであったが、ロドリーゴにとってはあくまで2人ともを捕獲することが使命であった。

 そうしたら、魔族のガキなどこのいけ好かない連中に渡してやってもいいが、カイルのやつをどうしてくれようか。いつぞやそうしたように、涙と汗と糞尿を垂れ流しながら気を失うまで嬲ってやろうか。あぁそういえば、酒と薬で意識と感覚を狂わせてその様を正気に戻った本人に見せたときの反応も、実に面白おかしいものだったなぁ……っ!

 不機嫌だったロドリーゴの顔に、不敵な笑みが浮かぶ。

「トルッペン砂漠へ向かえ」

 そして、その笑みを消して操縦士に命令する。その言葉に、隣の男は「何を言っている」と声を荒らげる。

「我々はテラニグラへやつらを誘導した! そこならば被験体の捕獲に加えて反乱分子の殲滅の可能性もあるからだ! やつらはもうデゼールロジエを出たのだぞ!? それをどうして……!」

「デゼールロジエからテラニグラまでどれくらいの距離があると思っている? たとえ高速で動き続けられる機械馬だとしてもその期間はそう短くはない。そうしたら食料なども尽きるのではないか? どこかで必ず補給するはずだ。そこを叩く! トルッペン砂漠の集落を重点的に探れ!」

 怒りと欲望に身を委ねているとは思えない分析。かつて傭兵として世界の至る所で戦い、その中にはトルッペン砂漠も入っている。その広さと特質を、身を以て理解しているからこその判断とも言えた。

 そして何よりも恫喝に近い声音での命令に、操縦士は半ば怯えながら「はいぃ!!」と一声。

 次の瞬間、エデン公用機は既に響いていた騒音を掻き消すほどの音を立てて蒼穹へと切り込むように飛び立った。

「この速度なら、テラニグラへだって1時間もあれば到着できる。……待っていろ、脱走者ども。貴様らなどすぐに捕まえてやる……!」

「我々の最大の目的は確かに被験体の回収だ。それが果たせるならば、貴方の判断に任せよう」

 青空に白い筋を刻みつけながら、追跡者たちは向かう。

 カイルたちのいる、トルッペン砂漠へ。

こんばんは、「○○のキャラクターがカラオケに行ったら」シリーズに絶賛ハマり中の遊月奈喩多です!

そういえば、エスタさんの外見や年齢に関する描写が薄かったような……? と思ったので、その辺りだけ(もうご自分でイメージを作っているぞ、という方は目を閉じていて下さい)。

一応、私のイメージとしては壮年のおじさま、というおじさまです。ガタイは相当よくて……みたいな。

といっても、もう皆様の目に触れる段階にした時点で私もまた一読者に過ぎないと思うので、これはあくまで私がエスタ=グラディウスという人物を読んだときにイメージしたエスタ像というだけなので、皆様は皆様のイメージを大切にしてください!

では、後書き本番行きましょう!

実は先日、初めて(ではないらしいけど前回は赤ちゃんの頃らしいので私的には初めて)夏の伊豆へ行ってきました! 大室山で景色を見ようとしたのですが、私たちが滞在していた時だけけっこうな雨が降ってしまって……。予定を詰めすぎていたので晴れるのを待てずに下山しました。まぁ、雲に包まれた山道というのも、貴重な気がしましたけどね?

えっ、聞いてない? そうかもしれませんね。

ということで、次回をお楽しみに!

ではではっ!

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ