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楽園からの脱出

こんばんは、またしても夜の投稿になりました遊月奈喩多です!

今回は、久々の連載作品になります。

構想そのものはだいぶ前からあったものですが、ようやく形になり始めたので喜び勇んで投稿した次第です(前書きらしい前書きになってしまいましたね)! この話の構想をサークル卒業生に話したところ、「バラの香りが凄いんだけど」と言われましたが、残念なほどその要素はありません。

前書きで「残念」とか使うのはどうかな……とも思いましたが、これで以上です。

では、本編スタートです! お楽しみください!

 楽園都市、エデン。

 住民は主に2種類に分けられる。

 まずは人間。自身の力は凡庸で、特出した能力など持ち合わせていないものの、その技術力によって作り上げられたものは数知れない。

 次に、魔族。基本的に人間とよく似た姿をしており、体内の構造も大体は人間と同じである。人間との差異は、濃淡の違いはあれ頬に必ず浮かび上がるリンゴの形をした痣と、1人につき1つ備わっている特殊な能力の存在である。

 このエデンは、かつて世界各地で人間と魔族の抗争が繰り広げられていた頃、ある人間の科学者がその原因を相互の不理解であるとして提唱した、人間と魔族の共存都市第1号。ここで主に行われた科学者による技術援助によってもたらされた利便性は先住していた魔族の民から大いに受け入れられ、その計画が実行されてからわずか数年にして、最後の戦地であった南方の都市でも人間と魔族の和解、共存が確認されるに至った。

 このエデンが両者共に終わりを望んでいた抗争を終わらせ、そして全ての民が理想としていた平和を実現したといってもいいだろう。その後もこのエデンは、主に医療技術の発達から人々にとっての理想郷のように謳われることのある、まさに《楽園》であり続けている。

 抗争を終わらせるきっかけになったとして、エデンの提唱者にして設立チームのリーダーである黒崎戀くろさきれんは、世界中に散らばる両種族から称えられた。


 黒崎戀の未だ終わらぬ遠大なプロジェクトが始まってから百数十年。

 楽園都市エデンの中央に位置して、市政・治安維持・都市内の電気供給などを担う総合施設テラ、通称「中央収容所」の地下1階。

 カイル=エヴァーリヴはその中性的な、ともすれば少女と見紛うような顔を憂鬱そうに曇らせながら、収容所の薄暗い廊下を歩いている。

 体格のいい若い看守に手を引かれながら目指すのは、看守長であるロドリーゴ=スミスの私室。心身ともに醜悪を極めたこの男からは何度も呼び出されているのだ、用件はわかりきっている。抵抗しようとしても叶わないのなら、捕まったりして余計な傷をつけられないように逃げずにいるしかなかった。

 カイルの前に立つ若い男も、上司が自室でこの少年と営む行為について知っているようで、軽く同情するような表情とともに振り返って口を開く。

「しっかしあんたも大変だよなぁ、あんな変態に目ぇつけられて。でも、あんたもあんたなんだぜ? 俺らに楯突いて目に付くようなことしでかしてるわけだし、それでなくともあんたは…………」

 そこで言葉を切って、若い看守はカイルを見つめる。その両目に燃えるものを感じ取って、カイルは一瞬身構える。しかし、すぐに諦めの表情とともに体の力を抜き、現実を認識せずに済むように目を瞑る。その視線は、この収容所に入れられてからずっと感じていたもので、抗ってもどうしようもない。カイルは、自分に向けられる欲望に抗うことに疲れきっていた。

 若い看守は近くの空き部屋にカイルを引き込み、灰色の囚人服を力任せに剥ぎ取った。そのままの勢いで冷たい床に押し倒す。カイルは、自分の上で四つん這いになっている男の欲望に満ちた視線よりも後頭部の痛みが気になって、後で医務室に行かないとな、と考えていた。医務員だけは、自分にも分け隔てなく接してくれるから――。

「やっぱ勿体ねぇよな、あのおっさんにこんな上玉は!」

 熱の籠もった息を露になった白い肌に吹きかけながら、その若い看守がカイルの上に覆い被さろうとしたときだった。

「おい、何やってんだよお前」

 そんな少年の声が聞こえた次の瞬間、カイルの上から看守の姿が消えた。激しい打音が響いた方を見ると、壁に叩きつけられて気を失っていた。何が起こったのかわからず呆然としていたところに「大丈夫か?」と声をかけられ、視線を動かす。そこには1人の少年が立っていた。カイルはその姿に目を縫い付けられた。

 体は自分より少し小さいくらいだろうか。長く伸びたのを雑に、恐らくは自分で切ったらしい金色の髪は彼の奔放さを表しているようにも見えた。真紅の瞳に宿る力強い輝き。そしてカイルが見ていたのはその顔だった。正確には右頬にある林檎の形をした痣――魔族の証。

 そして、それ以上に。

 言葉では言い表せないような、とても懐かしい感覚がカイルの中を駆け巡った。その正体が何なのかわからず、しかし何かを言わなくてはいけないような焦燥感に駆られて、口を開く。

「君は、」

「しゃべってる暇なんてねぇ、ほら立て!」

 言うが早いか、魔族の少年はカイルの手を引いて走り出す。その後をついて行こうにも走る速度があまりに違うため、半ば引き摺られるようにカイルは少年に続いた。看守のいない幸運に恵まれた2人だったが、カイルの手を引く少年の脚力をもってすれば、看守の存在など問題にならなかっただろう。

 狭く薄暗い廊下をどれほど進んだだろう、カイルの体が速度に耐えられず感覚を失い始めた頃、ようやく少年の足は止まった。その際もやはり、カイルは足をつんのめらせることになった。しかも痺れた足では体勢を直せず、尻餅をついてしまった。「何してんだよ、ほら早く!」小柄な体からは想像できない力で、少年はカイルを軽々と独房らしき部屋に引き込んだ。

 少し冷たい空気に身震いしながら、カイルは辺りを見回した。部屋にある最低限の生活ができるレベルの家具は埃を被ったり錆びたりしている。どうやら空き部屋に入ったらしい。少年はドアを閉めて、深く息を吐く。

「ふーっ、ここまで来ればすぐには追いつかれねぇだろ。まさかこっちの方まで逃げるやつがいるなんてあんな下っ端にはわかんないだろうし」

「え、それってどういうこと?」

「あのさ、そろそろ服着ろよ。それから話すから」

 部屋の中に干されていた不衛生そうな服を投げてよこしながら、妙に慌てた声で魔族の少年は言う。そこで初めてカイルは自分の着ている囚人服が服の機能をなしていないことに思い至った。その必要はないはずなのに、目の前の少年がやけに落ち着きのない反応をするので、カイルも必要以上に焦ってしまう。服を着ようとする手元が覚束ない。そんなカイルの姿を見て落ち着きを取り戻したのだろう、少年は溜息を吐きながら椅子に座る。それでもカイルの方を見ることはなかったが。まごつきながらも服を着終えたカイルは、椅子は取られてしまっているので仕方なしに埃の目立つベッドに腰かけた。

「俺、ルキウスっていうんだ。お前は?」

「僕はカイル。カイル=エヴァーリヴ。ルキウス、助けてくれてありがとう」

「べ、別に助けてなんかねぇよ! ……これはただ行きがけの駄賃っつーか、その……、とにかく、気ぃ付けとけよな」

 そう言ってカイルから目を逸らすルキウスだったが、その顔が仄かに赤くなっていたのは隠せていない。それを自覚しているのかいないのか、ルキウスはさっさと話題を変えてしまおうというように口を開いた。

「なぁカイル。お前何したんだよ。まさか、へ、変な商売とかしてたのか?」

 変な商売、という単語でまた顔を赤くしたルキウスに、カイルはその言葉の意味はわからないのに思わず噴き出してしまった。

「な、何がおかしいんだよ!」

「いや、何でもないよ。僕はただ、ここが何かおかしいんじゃないかって言っただけなんだ。もちろん、表立って何かしてたわけじゃないんだけど、たぶん誰かが通報したんだ。帰ってこない姉さんを迎えに行こうとしたら後ろから捕まえられて……」

 話しているうちに、カイルは収容所に入れられてからのことを次々に思い出していた。捕らえられてすぐに知らされた姉の死。そして、人間の看守に虐げられている魔族囚人の人間憎悪。謂れのない言いがかりで毎日リンチされる。関係をよくしようという努力は全て裏目に出た。周りにいる人間の囚人たちは自分たちへの飛び火を避けるために常に我関せずの姿勢を貫き、時には魔族に交ざってカイルを隅に追いやることさえあった。更に看守から老体の魔物を庇ったときなどは、看守からは全身が痣だらけになるほど殴られて危険思想者のレッテルを貼られたうえに、当の老魔族からも「酷い辱めを受けた」と罵られて蹴られた。その時に折れた左足は、最近ようやく治ってきたところだ。

 看守長ロドリーゴの脂ぎった汚らしい肢体を初めて受け入れた日、涙に暮れるカイルに向けられたのは慰めではなく、嘲笑と根も葉もない侮蔑の言葉ばかりだった。今日、ロドリーゴの愛玩具となる為に居房を連れ出されたときも、聞こえたのは冷たく静かな笑い声だけだった。先程の若い看守が同情の言葉を口にしたのも、もしかしたらそこにあったのかも知れない。それほどまでに、カイルは囚人同士の中で冷遇されていた。

 そんな現状に抗うことを諦めた毎日は、カイルの感情を夏空に揺らぐ蜃気楼のように曖昧なものにしていった。それでいいと、その方が楽だと、彼自身も思っていた。

 しかし……。

「…………っ」

「お、おい! どうしたんだよカイル! な、何で泣いてんだよ!? なぁ、な泣くなよっ、悪かった、変なこと聞いてごめんって! もう聞かねぇから!」

 目の前で慌てて自分を宥めようとしている少年、彼が――ルキウスが、救ってくれた。水底に沈んでいきそうだった自分を、引き上げてくれた。引き上げられた感情が、両目から溢れて止まらない。

「……今まで、誰もいなかったんだ、こんな風に、助けてくれる人が。看守と同じ人間だからって……、そう言って誰も……。毎日、毎日あの看守に呼び出されて、部屋に戻っても散々殴られて、もう死にたいくらい辛くて、だから、本当に…………っ」

 そこから先は、もう言葉になっていなかった。時折「ありがとう」と呟きながら嗚咽を漏らし続けるカイルの姿をしばらく黙って見ていたルキウスは、いきなり立ち上がってカイルの頭を軽く抱いた。

「――――」

「わかったよ、カイル。だからもう言わなくていい」

「……………………」

「…………」

 カイルは、ルキウスが少し緊張した深呼吸をしたのを感じた。

 

「なぁ、カイル。俺と一緒に、ここから逃げないか?」

 その言葉は、俄かには信じがたいものだった。


 この収容所からは逃げられない。それはエデンに住む者にとって常識であり、自分に向けられる陰口に紛れて時々聞こえてくる囚人たちの会話の中でも言われていたことだった。地下1階、2階に広がる収容施設から過去に脱走を試みた囚人は、人間も魔族も問わず看守たちに捕まり、それ以来姿を見せていないと。その中にはその場で殺害されたものもいたそうだ。その現場を見たという年老いた人間の男が他の者に語ったことには、「あんな惨い殺され方を見たら逃げる気なんて一気に失せてしまったよ」とのことだった。そうした話も、脱獄の可能性、そして脱獄に向けた意志を遠ざけるものだった。

 まず建物から出られない。廊下の至る所に監視カメラがサーモグラフィー式のモニターと併せて設置されており、たとえ姿を消す能力を持っていたとしても温度で脱走を察知され看守に捕らえられる。そもそも魔族の囚人たちは捕らえられた瞬間にその能力を封じるマイクロチップを血管の中に埋め込まれるため、どんなに脱獄に向いた能力を持っていたとしてもそう易々と使用することができない。人間と魔族の共存を謳いながらもそういった物を作った科学者たちは、何を思っていたのだろうか。何度考えてもカイルにはわからなかった。

 もしも建物の外に出られたとしても、エデンには中央収容所以外にもいくつかの一般収容所がある。更に、この都市の公共機関はほぼ全てが中央収容所の傘下に入っている。つまり、中央収容所が手配した脱獄囚はエデン中の機関が探すことになる。恐らく市民もそれに協力するだろう。都市全体の目を掻い潜って逃げ続けるのは不可能に近い。

 中央収容所の影響力がエデンにおいて大きい理由としてカイルが理解しているのは、エデンにまつわる全てを決定する都市議会の議事堂がこの建物の2階にあること。実際エデンに住む多くの市民は、収容所内にいる多くの看守でさえも、そう思っている。それに近い意味でもう1つ更に大きく重大な理由があるのだが、それをカイルが知るのは少し後のことだった。


「本当にそんなことができるの?」

 だから、カイルの問いは至極当然のものであった。それに対してルキウスは事も無げに「あぁ、できる」と答える。先程カイルを助けたときのように、自信に満ちた赤い瞳を少し煌かせて。

 その瞳に何物にも揺るがない自信が――成功するという確実な未来が見えた気がして、カイルはほんの少し希望を抱いた。その瞬間、収容所の外への渇望が渦を巻く奔流になって彼を昂らせた。目の前で自信に満ちた顔をしている、誰も助けてくれない地獄から自分を救い出してくれたルキウスとなら、本当に出られるかも知れない。その希望的観測を、その瞬間のカイルは何の疑問もなく受け入れていた。それがルキウスに、そして自分に何をもたらすことになるのかを考えることもなく。

「……行きたい」

 ぽつり、と呟く声は涙に濡れていた。

「よし、行こう」

 答える声は、どこか静かな響きだった。

 そしてそれは、嵐の前の静けさと呼ぶべきものだった。

「離れんなよ。……確実に逃げられる道で行く」

 ルキウスがそう言いながら身を屈める。それに従ってカイルが彼の背に負ぶさった瞬間、予想もしなかった事態が起こった。

 突如ルキウスは、カイルを背負ったまま目の前の冷たい壁に向かって走り出したのだ。

 迫る壁。止まらないルキウス。――ぶつかる! そう思って衝撃に備えようとカイルが心の準備をしたときだった。

 その瞬間、目に映る全てがスローモーションのように見えた。

 眼前数センチほどに迫った壁に突然黒い点が現れ、広がっていく。それは人が入るのには十分な大きさの穴になり、ルキウスは躊躇いもなくその中に走り込む。カイルも振り解かれそうな速度をその腕に感じながら、壁に開いた穴に入っていった。穴の中では後ろから引き込まれるような感触があって、平衡感覚が狂いそうになる。急激な嘔吐感がカイルを襲い、何とか気を逸らそうとカイルが視線を周囲に向けたとき、視界が光に包まれた。

「気を付けろ、カイル!」

 そんな叫び声が耳に入ったのと、慣性の法則に従って前に押す衝撃がいきなり止まることとなったカイルの全身、特に背中を強く圧迫したのはほぼ同時だった。ルキウスが少し足元をよろめかせながらも止まったのに対して、カイルはルキウスの背中を飛び出す。

「――――、――、――――――っ」

 その衝撃は、たとえるなら骨を砕かれ、肺を擂り潰され、心臓を握り潰されるような苦痛を伴うもので、カイルは思わず叫んだ。といっても、叫んだと思ったのは本人だけで、空気が一瞬で閉め出された体からは声など出ていなかった。カイルが呼吸を取り戻したのは、倒れた拍子に地面に胸を強打してからだった。滲んだ視界の中では、早くも動いていたルキウスがどこかからカイルの方にやって来ていた。

「今なら誰もいない――って、大丈夫か?」

「う、うん……」

 そう答えているわりには腰砕けになって、立つというよりはルキウスの腕に取り縋って体を支えることしかできないでいるカイル。しばらくは動けそうにないと思ったルキウスは、それと同時にあることに思い至って、カイルが体勢を整えないうちにその場に座り込む。「わっ」と小さく声を漏らしながらカイルもその場に倒れた。

「痛……、どうしたのいきなり」

「カイル」

 恨みがましく問う自分に対して真剣な顔で言うルキウスに思わず気圧されるカイル。「な、何?」と聞き返す。

「ここって、どこなんだ?」


 白状すると、カイルは驚いていた。

 なんとルキウスはエデンのことを――中央収容所の外のことを、ほぼ何も知らなかったのだ。

 楽園都市エデン。円形に設置された高さ7.5mの電磁壁に囲まれた都市である。町の中央に位置する収容所から見て南にある第1門、北西と北東に設置された第2門と第3門が外と繋がる経路だ。中は主に門付近に広がる商業区と他の全てを占める居住区に分けられ、商業区も第一門付近の中央商業区と第2門付近の北部商業区に分かれる。

 居住区の中では人間と魔族が入り混じって生活していて、治安維持を担う収容所、一般的なトラブル解決を主要な役割とする警察署、また病院などの施設の加護の下、百数十年にわたる平和を保っている――――という、中央収容所に入れられる前通っていた学校で教えられた常識を、ルキウスは全く知らなかったのだ。因みにカイルには、今自分たちが居住区の中でも北部商業区に程近い地域にいることがわかっていた。

 今までどんな生活をしていたのだろう、そう思ったときカイルは気付いた。

 ルキウスが着ているのは、自分が見慣れて、そして今着ている灰色の囚人服ではなかった。

 過去に1度大怪我をしたときに袖を通した入院服によく似ている。しかしその布質は服飾に疎いカイルでもそうわかるくらいに上質なものだった。そしてルキウスのような人物を、どうやら自分より長く収容所にいたらしいにもかかわらず、1度も見たことがなかった。

「ねぇ、ルキウス。君は、どこから来たの?」

 ルキウスはそもそもエデンにいたことがないのかも知れない、と。それならば彼がエデンについて何も知らないことにも納得できる。そう思って尋ねたカイルは、予想とは違う答えを聞くことになる。

「俺、ずっとあそこにいたんだ」

「あそこ?」

「俺たちがさっき会った場所あるだろ?」

「…………うん」

 ルキウスの指す場所は恐らく中央収容所だ。そう思ってカイルは呟く。そして、それが示す事柄に気付く。

「ルキウス。君は、」

「――来た」

 そう言って再びカイルを背負って走り出したルキウスの背後で「おい、いたぞ!」と声がする。どうやら看守たちが追いかけてきたらしい。しかし、ルキウスの速度にはついて来られず、すぐに声と足音は遠ざかる。

 しかし、ルキウスは不安を覚えていた。何せエデン居住区は彼にとって生まれて初めての場所である。右も左もわからないまま、もしかしたら自分が先程までいた暗闇へと誘導されている可能性だってある。

 俺は、このまま走っていて大丈夫なのか?

 そんな不安がふとルキウスの頭をよぎる。自分1人なら、たとえ追い詰められても強行突破もできないことはないだろう。だが、背中の少年は――? 不安に耐え切れず、足を止めようとしたそのとき、後ろでカイルが口を開いた。

「ルキウス、ここから左に向かって走って」

「え?」

「商業区に知り合いがいるんだ、その人に会えれば大丈夫だから」

「……」

「僕が案内するから、ルキウスは走って」

 ルキウスは正直な話、カイルを信用していなかった――そう言ってしまうと語弊があるが、より正確に言うならば頼りにしていなかった、とするべきだろうか。先程出会ったときのカイルは、何の力も持ち合わせていない脆弱な男に組み伏せられていた。それに加えてその後のことを考えると、人間と魔族の個体差を考慮したとしても「あまりにも弱い」と認識せざるを得なかった。

 だから、というわけではないのだろうが、カイルの言う通りに動くのには、少しだけ不安があった。しかし……。

「大丈夫、この辺りの道は全部覚えてるから! 今いる場所からならきっと誰にも見つからずに行ける! だから……!」

 カイルの声には、振り返って見たその少女のような顔には、丁度カイルが収容所の中でルキウスに見たような輝きが、強い自身が見えた。

 ルキウスは「わかった」と小さく呟いた後、いきなり真上に跳んだ。想定外の動きに、思わずカイルは声を上げる。

「ちょっ、見つかっちゃうよ!」

「下を行くより早いだろ!? 大丈夫、見つかったって逃げ切れっから! 絶対2人で逃げ切る! 次どっちだ!?」

 律儀にカイルが指した方角を目指すルキウス。といっても翼があるわけでもないから、跳び上がった高さにあるビルの壁を蹴って進むくらいだが、これは2人にとってよい結果となった。カイルにとっては居住区の中を走るよりも見通しがよくなったこと、そしてルキウスにとっては障害物を最低限にすることでより自由度の高い移動ができるようになったこと。

 カイルが目的地を示し、ルキウスが密集したビルの壁を蹴って進む。その速度に、地上だけではなく空から追跡する看守すらも2人の姿を捕捉することができない。人込みに紛れるように2人が着地したときには、もうその姿を捉えられる看守は1人もいなかった。

 2人が逃げ込んだのは、第二門前に広がる北部商業区。

 世界に広いシェアを誇る大企業のビルが立ち並ぶ中央商業区とは違い、こちらは異国から来る露店商に解放された地区である。たとえば、世界様々な地域で作られる特産品や民芸品がその筆頭だ。エデンにも四季はあるが、その気候差は極めて小さく、故にエデンでは見られないようなものも多い。この北部商業区にはそうしたものが数多く集まっている。カイルも中央収容所に入れられる前は、姉によく連れられて来たものだった。

 あのとき買った、北方地域特産の万年雪を使った彫像は今もまだあの家にあるのだろうか。

 姉が死に、自分が捕らえられたことで誰もいなくなったあの家に……。

 カイルの感傷は、背後から聞こえた音に遮られる。振り返ると、足下でルキウスが倒れていた。

「ルキウス……?」

「…………」

 返ってくるのは今にも消えそうな、か細く苦しげな息遣いだけだ。起こそうとして触れた体は、たった今思い出した万年雪のように冷たい。

「ルキウス! ねぇ、ルキウス……っ!」

 いくら揺すっても一向に目を覚まさない。周囲に助けを求めようと視線を泳がせるが、道を歩く者は皆、市場の片隅に座り込む少年2人に関心を払うことなく、露店で自分たちが何を買おうかを考えている。苛立って声を上げようとしたときになって、カイルは自分たちの着ている服に気付いた。

 そう、今の自分たちは囚人服と入院服を着ている。明らかにこの場所を歩いていていい者ではない。そんな自分たちの存在を知らせるなど、「連れ戻してくれ」と言っているようなものだ。カイルは口を噤む。

 ……助けを求められる場所まではまだ距離がある。

 ルキウスのように早く動くことができれば何とかなるかも知れないが、自分は普通の人間だ。見つからないように移動するなんてできないだろう。

 だけど、ここにいたら見つかる。

 自分はともかく、ルキウスは――ずっと収容所の中で囚われていたというこの少年は何としても逃がしたい。

 カイルは覚悟を決めて、ルキウスの氷のように冷えた体を背負った。

 そのとき、目の前に大柄な影がぬっ、と現れた――――――――。



 中央収容所、「地下3階」。

 看守が着る黒い防護服と対称的な白衣を着た人間たちが靴音を響かせながら往来する薄暗い室内。あまりに広くそこは、そこ自体が一つの巨大な施設のようであった。地下2階までとされている収容所とは種類の異なる陰鬱さを感じさせる空間であった。ホルマリンの匂いと共に立ち込める沈黙を打ち破ったのは、1人の魔族囚人のあげた悲鳴だった。

「な、何だこれ!? どこなんだよここ!? なぁ、あんた教えてくれよ! おい、頼むよっ、なぁ……っ!!」

 彼の驚きと同様はもっともなことだった。

 かつてその強靭さを誇っていた肢体には何本もの管が刺さり、そこから注入されている神経毒のせいなのか、手術台に固定された体は指1本動かせない。しかし、何とかまだ動く目を巡らせて事態の把握に努めてしまったことは、彼にとっては更に不運なことと言えた。彼の視線はある一点に集中する。その目が、皮膚も裂けんばかりに見開かれる。

 彼の二つ名である《鋼の右腕》。右腕の硬質化によって掘削作業現場で「お前がいれば掘れない場所なんてなんてねぇな」と親方や同僚の褒めた右腕が、その右肩には付いていなかったのだ。

「ああああああああっっ!!!」

 神経がまともに作用していないのだろう、痛みは全く無かった。しかし恐怖と絶望が彼の肺を駆け回り、喉から絶叫となって抜けていく。

 その声を無視して、白衣の人間たちは会話を始める。

「どうだった?」

「移植するようなものでもないよな、ただ腕が鉄みたいになるだけだろ?」

「まぁそう言うなよ。こいつにとっては唯一の自慢だったんだからさ」

「使いようによってはいいだろうが……。やっぱり扱いにくいだろ。腕1本丸々が『核』なんて。移植も腕ごと入れ替えになるし」

 会話から漂う嘲りの気配に片腕の魔族は激昂したが、自分を嘲笑う人間たちを殴り飛ばそうとした左腕は動かない。ならば鼓膜を潰してやる。叫ぼうとして、彼は舌と喉が感覚を失ってしまっていることに気付いた。視覚もまともに働かないのか、目が霞んでくる。

 彼が最後に残った聴覚で感じたのは、自分に迫る足音だった……。


 白衣を着た1人の女が、片腕になった魔族の末路をモニター越しに見ている。女、というにはあまりにその容貌は若く、見た目には10代半ばの少女のようだったが、その顔に浮かぶ冷たい気配は決して少女然としたものではなかった。彼女は今、苛立っていた。眼前の手術台で蠢くものを一瞥してから、背後の男を振り返る。

「脱走者は見つかりまして? スミス看守長」

「……っ」

 看守長――ロドリーゴ=スミスの顔に緊張が走る。

 戦場では「不死身の男」や「暗殺の天才」と恐れられ、退役してから配属された中央収容所でも数多くの囚人をまとめ、いかなる反乱も己の力で捻じ伏せてきた普段のロドリーゴならば相手が誰であれ――ましてやこのような少女1人に対して――そのような緊張と恐怖を感じることはないだろう。

 だがロドリーゴは相手が誰かを知っていたし、それ以上に今の彼は目の前で見せ付けられた光景に慄いていた。

 手術台にいるのはロドリーゴの部下――カイルを犯そうとして、結果的にルキウス共々逃がしてしまった若い看守である。……といっても、手術台の上のものがその看守であるとわかるのは恐らく白衣の女と、彼を目の前で見ていたロドリーゴだけであろう。

「やっぱり人間向けに調整されてない臓器の対人移植は危険みたい。この方は、人間としての形を保てなかったみたいですし」

 女は淡白に、まさに実験の経過を見守る以上の意味を持っていないような口ぶりで呟く。しかし、ロドリーゴへの見せしめとしては十分すぎた。

 その瞬間のことを思い出して、ロドリーゴは我知らず身震いする。

 魔族から摘出したという肝臓を移植された看守の体は、その肝臓から体内に流れ出た力の奔流に耐えられずに人間としての形を失い、今では生物の形を目指して中途半端に捏ねられて捨てられた粘土のような姿になっている。しかも――

「それなのに元の持ち主の能力のせいで死ねないなんて哀れですね。……不死の『核』を植えてもこれでは……ねぇ?」

 絶えず聞こえる苦しげな呻き声がこの男の生存を示している。体が急に変質していく苦痛とやらが、この若い男をずっと苛んでいるのだろうか。死にたいほどの苦痛にあって死を許されない。それほどの罰がどこにあるだろうか。それを目の前で見せ付けられるほどの恐怖がどこにあるのだろうか。

 女は無表情でロドリーゴを見つめ、最後に冷たく命じる。

「彼のようになった貴方を見たくありませんので、脱走者の少年、特に魔族の方は何としても連れ帰ってくださいね? 私も少しはお手伝いさせてもらいますから」

 そして無防備にもロドリーゴに――暗殺で名を成した不死身の男に――華奢で小さな背を向けて、女は歩き去っていく。

 しかし、その背中が完全に見えなくなるまで、ロドリーゴは一歩も動けなかった。



 エデンの市壁が遠ざかっていく。それを死体のような目でカイルは見つめていた。

「おいおいカイル。まだ『死んで』るのか? お前さんの相方はもうとっくの昔に『生き返って』るみたいだぞ。まぁ、意識はないけどな」

 移動手段としては最速と謳われる機械馬の引く馬車の御者台から親しげな声が聞こえる。まだ「死んでいる」カイルには返事ができないが、どうやらルキウスの方には正常な呼吸が戻ってきているらしいことは窺えた。しかし、気を失っているらしく、何も言う気配がない。

 二人は今、声の主エスタの所有する馬車の荷台で死んだように横たわっていた。いや、カイルの方は傍目に見れば死体以外の何物にも見えないだろう。実際、呼吸も脈拍も止まっている。そして死体になったまま、思っていたより遥かに容易にエデンを抜け出すことができた。全てはこのエスタという魔族商人の――カイルが頼ろうとしていた知人の力であった。

 エスタ=グラティウス。遠い西国に本拠地を持つ豪商である。しかし一年のほとんどをエデンという巨大市場の中で過ごし、時折商品の原料を仕入れる為に他の地域に行く――というでエデンに住居まで構えている。

「たまたま娘への土産物を探していたところにお前さんらを見つけたときは何かと思ったもんだが…………、まったく。とんでもないことをしたな」

 そう言うエスタの口調は楽しげだ。その理由が知人の帰還を喜んでいるだけでないことをカイルは知っている。

 エスタは、エデンに立ち入る魔族にしては珍しい反体制派だった。エデンで人間の夫と暮らしていた妹が不当な理由で収容所に入れられて殺された――と酒に酔った本人の口から聞いたことがある。それ以来エスタは中央収容所に対して疑念を抱くようになった。

 といっても彼はカイルがかつてそうしてしまったように、表立って批判や疑問の投げかけをするわけではなかった。彼は体制批判を表立ってすることがいかに危険であるか、十分に理解していた。彼は中央収容所を内部から瓦解させ、権力者を衰退させた後で、本当の意味での共存の可能性を模索しようとしていた。

 その為に出てくるのが彼の扱う商品であった。

 エスタの商店で扱っているのは基本的にその流通網を駆使して世界中から集めた雑貨品であるが、その裏では依存性が高く危険視されているものから所有、製造を禁じられているものまで、数多くの薬物を取り扱っている。ある意味ではエデンにおける社会問題を助長していると言えなくもないのだが、それが対中央収容所では大きな効果を挙げている。

 まず彼は、依存性が特に高い薬を巡回に来た保安員に安価で売りつけた。それがもたらす快楽は、恐らくこの世のいかなるものでも及ばないと評される代物だ。噂を聞きつけた看守が目論んだのは規制ではなくその快楽の享受である。そんな者たちに対しても、エスタは求められるままに薬を売った。そのうち、薬への依存から、それを唯一扱っているエスタに対して中央収容所の看守たちはある程度の自由を与え、門番に至ってはエスタの意のままに動かせるといっても過言ではない状態にまでなっていた。

 その一方でエスタが行なっていたのは、反乱分子として目を付けられかねない者を見つけて保護することだった。先程述べた「自由」の中には治外法権も含まれており、中央の役人であってもエスタの了承なしには家内に踏み込むことはできない。反乱分子の隠匿を禁じられているエデンにおいてエスタの存在は、反体制派の住民にとって最後の救いだった。現に、彼の商店にいる従業員のほとんどが、腹の底では現体制の転覆を考えている者である。エスタがゴーサインを出せばいつでも反旗を翻す覚悟もできているという。

 そんなエスタだからこそ、路上で倒れていたカイルを手早く自宅に連れ帰って、門番にも遮られずにエデンを出ることができたのである。

 しかし、エスタの長所はその用心深さと言ってもよかった。門番の検問には恐らくかからない状態であったが、それでもエスタは馬車に積んだカイルとルキウスの姿を何とか隠そうと苦心し、その結果、ある『製品』を2人に投与した。

 1つは「仮死薬」。これによって荷台に積む不自然さを無くした。

 もう1つは「変装薬」。これは、名前こそ「変装」とつけられているが、その効果は単なる変装とは違い、骨格から何から、全てを一時的に変える薬である。

 変装薬だけではエスタ本人ではないという理由から検問で調べられる恐れがあるし、仮死薬だけでは死体の回収という名目で連れ戻される恐れがある。考えうる限りの懸念に対してエスタが打ち出した策であった。

 結果としてそれは杞憂であり、門番はエスタが通るとなったら止めるよりもむしろ率先して道を開け、まるで主に対する従僕のような恭しさで彼らを送り出した。

 そして今に至る。投与から1時間近く経つが、まだカイルは仮死状態だ。

「うむ、この薬は人間には強過ぎるみたいだな……。今度お前さんに打つときはもう少し弱いのを調合しておこう」

「……」

 当然の事ながらカイルはそれに対して返事が出来ない。

 そうこうする間に一行はエデン近郊地帯を抜けて、機械馬の蹄がアスファルトではなく柔らかく頼りない砂を踏みしめる。砂漠地帯に入ったのである。

 旅路はまだまだ長そうだった。

 干上がりそうな暑さの砂漠をしばらく進むうちにカイルの体からも完全に仮死薬が抜けたのだが、『生き返った』直後に感じた強烈な渇きを何とか癒す為にエスタから水を分けてもらうことになった。

「喉が渇かない薬とかないんですか」

「そんなもんは全部売り切れちまったよ。お前さんが『死んで』る間にな」

「そ、そうですか……」

 そう言いつつカイルは隣のルキウスを窺う。

 ルキウスは、一向に目を覚まさない。仮死薬を投与する前には1度、意識のないまま仮死薬を入れることを危惧したエスタの手で叩き起こされていたが、そのときにもエスタやカイルの言葉に頷くか首を振るかの反応しか示せなかった。仮死薬の投与を躊躇するエスタを睨み付けて投与を促したルキウス。その目に射抜かれるようにして、エスタは仮死効果の出る最小限の量に抑えて投与したのだが……。

「一応は『生き返って』いるようだし、呼吸は普通にしてるから、まぁ大丈夫だとは思うが……、カイル?」

 エスタは、カイルの様子が変わったのを感じて声をかけるが、返事がない。

 カイルは倒れているルキウスの方をじっと見つめたまま動かない。よく見るとその手は小刻みに震えている。

「カイル、どうした」

「エスタさん、どうしよう……。ルキウス大丈夫なんですか? ルキウス、商業区に着くまでずっと休みなく力を使ってたんです。僕が頼んだせいだ、どうしよう、どうしたら……」

「落ち着かんか、カイル。呼吸は正常だと言っただろう。大丈夫だ、もうじき目を覚ますさ。寝言も言ってるぞ? 目覚めたときにお前さんがそんな顔をしていたら、ほれ、オレがこの小僧に何をされることやら」

 エスタの危惧も当然のことだった。ルキウスを叩き起こしたとき、彼が朦朧とした意識の中でエスタに言ったのは「カイルに触るな」という言葉だった。収容所の中のことはカイル本人も話したがらなかったのでエスタがカイルの身に起こったことを知る由もないが、自分がカイルの傍にいるのを見たときにルキウスが向けた自分への敵意とカイルに向けた心配そうな瞳を見ると、大体のことは察せられた。

 ――お前さんも苦労したんだな、カイル……。

 しかし、そう言うことは躊躇われた。心身に負った傷を隠そうと務めているカイルにそれを告げることの残酷さをわからないエスタではなかった。

 それにしても……。

 エスタは黙考する。

 恐らく収容所の地下深くにあると長らく言われていた妙な施設は実在する。

 カイルが収容所にいる間、1度もルキウスを見かけていないこと。そしてルキウスの着ていた服が何かの検査をするかのような、しかも大きなエネルギー波に耐えられる仕様の衣服であったこと。そしてルキウスの体が魔族にしてはあまりに弱いこと。もし収容所内の施設で何らかの実験が行われているとしたらそれらの疑問に説明がつく。

 エスタは傍らに座る、未だ表情が穏やかでない人間の少年をもう1度見る。

 ――まったく、妙なのに懐かれたもんだな。

 機械馬の手綱を引きながら、エスタはその言葉も喉の奥に飲み込んだ。砂漠の旅路は、まだまだ続きそうだった。


 砂塵の彼方に見えてきた小さな街に気付いたのは、当然のことながら御者台に座って前方を見つめていたエスタだった。

「ほれ、見てみろカイル。街が見えてきた。夜になる前に着いてよかった」

 促されて見た街は、広大な砂漠の中に置き忘れられたように見えた。しかし、周囲に点在するかつて誰かが生活していたことだけを窺わせる石造りの遺跡群を見続けてきたカイルには、その賑わい――命の気配――が遠くからでもわかるようだった。

「さっきも言ったと思うが、今日はあそこで宿を取る。心配するな、収容所の連中もまさかオレがお尋ね者を連れ出してるなんて疑いっこない。いや、疑うことなどできまいよ」

 それに一応、普段は通らない道で来ているからな――と呟くエスタ。少し申し訳なさそうに俯くカイルだったが、街に入るや否や驚愕の連続だった。

 まず、これは見た瞬間わかったことだが、その街はカイルの生まれ育ったエデンと比べられないほど狭い場所だった。細分化されていたエデン居住区の比較的小さな一区の中に収まってしまうくらいの面積だった。また、照りつける太陽が湖を涸らす光景も、居住区の至る所に噴水があるのを当たり前に見ていたカイルには驚くべき光景だった。その底には、水源を探す数人の屈強な男たちが傍らにつるはしを置いて少しの昼食をとっている姿が見える。

 そして、カイルの目に留まったのは、この一見するとエデンよりも数段規模の小さい砂漠の街にあるほぼ全ての設備が電力で作動していることだった。住民以外は機会馬を街に乗り入れることが許されないので、カイルたちが砂漠の街に着いて最初にしたことは、エスタの愛馬「IAR‐3型02135」を機械馬専用の格納庫に預けることだった。エデンでもエスタは格納庫にこの愛馬を預けており、カイルが最初にエスタが持つエデン門番への影響力を実感したのも格納庫だった。そこの管理人はエスタを見るなり平身低頭出迎え、極めて丁重に馬をエスタに引き渡していた。その光景を荷物に紛れて見ていたので、また「管理人によって馬の扱いが違う」というエスタの愚痴から、カイルは機械馬格納庫という施設には管理人がいるものだと思っていたのだが、その街の格納庫は違った。

 まず、誰もいない。戸惑うカイルの目の前で、壁や天井から伸びるアームが機械馬から荷台を取り外し、袋や鞄に詰められた荷物を「荷物受渡所」というプレートの下がったデスクに乗せる。そして床がせり上がって、エスタの愛馬は入り口正面に5つ並んだうちの1番右側の個室に導かれていった。エスタから聞いたことには、この格納庫では機械馬の点検や修理、更には照明や空調の調節や燃料補給など、個々の状態を把握して行われる比較的繊細な作業も、全て人工知能を搭載したコンピューターがセンサーなどを使って管理しているのだという。エデンでさえこうした設備はない。驚きを隠せないでいるカイルの横で、エスタが口を開く。

「カイル、周りを見てみろ。屋根やら風車の羽根やらに付いているあのパネルあるだろう、あれは全部ソーラーパネルってやつだ」

「全部、ですか?」

 ソーラーパネル。カイルがそれを知っているのは収容所に入れられる前に通っていた学校で習った人間史の中だけだ。

 エネルギー源となる太陽光が枯渇することも環境を害することもないとしてかつて注目されていた――と説明されている。しかし、ソーラーパネルそのものの生産に大きなコストがかかることと、それにも拘わらず太陽光をエネルギーに変換する効率が低いことが原因で、エデンではかなり昔に廃れた産業だといわれていた。

「しかし、このデゼールロジエでは違う。そもそもエデンにはテラのように安定した電力供給源があるが、ここは何せ小さな街だ、中央にある発電施設も予算の関係で活動がまちまちになりがちでな。そこで注目を集めたのが太陽光発電だ。腐食や酸化を防ぐ加工を施した有機電池を使うことでコストを下げ、更に人工原子を使うことで太陽光をほぼ余すところなくエネルギーに電気にできている。しかも、もう気付いてるだろうが、ここでは滅多に雨が降らない。曇りになることすらごく稀だ。そういう事情やら環境が幸いして、この街で電力が不足するなんていうのはありえないくらいになったそうだ」

 後ろ手に『すぐにわかるデゼールロジエの歴史』を隠したエスタの説明の半分以上はカイルの理解を超えていた。しかし、そう言われて周りを見てみれば、機械馬の格納庫以外の所も多くが電力に頼っているようだった。

「まぁ、暗くなればこの街の凄さがもっとよくわかるってもんだ。今はとりあえず宿を探そう。少し休まないと体が持たん」 

 荷物はエスタが持ち、まだ目覚めないルキウスをカイルが背負って宿を目指す。街の入り口付近にも大きな宿がたくさんあったが、エスタはそこを素通りして中の方へと向かっていく。「ああいうホテルは高過ぎて手が出んのだ」と言うわりにその日焼けした顔がにやついている。その理由を知ろうと辺りを見回したカイルの目に入ったのは、『準備中』の電光掲示板が表示されている飲食店街だった。営業時間はいずれも深夜帯をメインにしている。店の看板を見て自分たちが今どういう道を歩いているのかを悟ったカイルは思わず店から目を逸らし、結果として地面を見つめて歩くことになる。

「何だカイル、お前さんはこういう店に行かんのか?」

 カイルの反応を目聡く見咎めたエスタがからかうような口調で問いかける。

「い、行きませんよ! 僕未成年ですよ!?」

「いや……、そんな店ばかりでもないんだがな。まぁいい、じゃあ今日オレと一緒に行ってみないか? いい社会勉強にはなるだろう」

「そのにやけ顔を見ると不安しかないので遠慮します」

 必死な口調で断り続けるカイルの反応を楽しむようにエスタは更に何度か店に誘いかけて、最後に「むむっ」と言って安ホテル――といってもそれは価格のことで、電力設備については世界中探したって類を見ないくらい充実しているとはエスタの言である。エデンを出たことのないカイルには今一つ実感できるものではなかったが、その後ホテルで過ごすうえで彼らが不自由することはなかった。

 ホテルは高級感の漂う内装で、廊下を歩くのにも何となく気後れしてしまうカイルだったが、エスタは淡々とカードキーの部屋を目指す。ルキウスがカイルの背中で目を覚ましたのは、4階の角部屋に着いた直後だった。

「――――――っ、な、なっ…………!?」

 徐々に覚醒してきたのだろう、自分がどういう姿勢でどういう状況になっているかを認識したルキウスは、カイルを中央収容所から連れ出したときに見せた自信など微塵も感じさせないほど狼狽し、「な、何だよこれ! 離せ、もういいから、離せって」と叫びながらカイルの背中で暴れた末に、結局二人して倒れてしまった。それでもルキウスの赤い目は見開かれ、まだ動揺から覚めていないらしい。その姿をエスタは笑いを堪えながら、隣でゆっくりと起き上がったカイルは目に涙を溜めながら、見つめている。

「な、何だよ」

 2人の反応にたじろぐ――エスタには恨みがましい視線を送る――ルキウスに、カイルは涙ながらに抱きついた。

「ルキウス……! よかった、よかった……。ずっと起きなかったから、もう目を覚まさないんじゃないかって……」

「は、はぁ!? な、ど、どうしたんだよカイル! いや、ちょっ、おまえ離れろ! 離れろってば! 重いから、重いからっ!」

「よかった、ほんとによかったよぉ……」

 カイルは疲れて眠るまで、ルキウスに抱きついたまま泣きじゃくっていた。


 デゼールロジエに夜はない。最初にそう言ったのは誰だったか。その言葉を知らずに訪れたとしても、実際に一晩この街で過ごしてみた者は誰もが実感としてそう思うことだろう。立ち並ぶホテルやようやく営業を始めた飲食店の壁の一部が電灯の役割を持っており、地上はまるで昼のように明るい。照明の届かない路地も、そこに構えられた店の看板から発せられる光だけで十分に視界を得ることができる。

 夜のない花街デゼールロジエ。明るさも賑わいもまるで昼のよう、というよりむしろ太陽が沈んだ後にこそ、この街にはようやく夜明けが訪れる、と言った方がいいのかも知れない。実際、カイルたちが泊まったホテルの周辺に広がる繁華街では、艶かしい格好をした飲食店の呼子が競うように観光客を店に誘い、その甲斐あってかそれとも街の評判そのものが呼び込むのか、どの店にもそれなりの人数が入っていく。

 しかし、地上の明るさに反して、それをホテルの屋上から見下ろすルキウスの周囲には塗り込めたような夜闇が広がっている。地上から届く淡い光と遠い喧騒は、却って静寂を際立たせていた。

 暗く静かな空間でルキウスは独り考える。自分の中にさっきから湧き上がる奇妙な温度がいったい何なのかを。初めに感じたのは、脱走の途中。黒い服を着た若い男に襲われていたカイルを救った直後だった。

 そのときに初めて直接聞いた「ありがとう」という言葉。

 実験の経過を見に来た科学者たちからの、「すばらしい」という賞賛と自画自賛の言葉ではなく、「ありがとう」という感謝の言葉。そして外に出た後、自分を北部商業区に導いたときに見えた強い決意の顔。数時間前に見た、意識を失くした自分を案じる涙。それを思うとどこかに妙な温度を感じる。今まで知らなかった感覚に戸惑う一方で、どこか心地よい気もする。

 しかし、「弱すぎる」と判断した相手の影響を自分が受けているという仮説は、彼の中ではあまりに非現実じみていた。「何考えてんだ、俺」と一言、少し大きめに言って首を振るルキウス。風で飛ばされた砂が薄らと積もる床に仰向けに寝転がる。電飾の明かりで見えにくいが、大小様々な星が夜空に敷き詰められている。初めて見るその輝きに、彼の胸はまた躍る。そうだ、きっと俺はずっと出たかった外に出られたことが嬉しかったんだ、あいつのことは関係ない。そうに決まってる。そう思いながらも、ルキウスが呟いたのは、カイルに向けたものだった。

「ったく……、頼りないんだか頼れるんだか、はっきりしろよな」

 その何気ない発言すら、今までの彼には許されていなかった。

 彼は物心がついてからテラ――いや、その地下3階より深い所にある実験棟以外の場所を知らずに育ってきた。外のことだけではない、実験棟にいる白衣の人間たちはルキウスに、実験時に行われる最低限の意思疎通に必要なレベルの言葉以外何も教えなかった。その理由は、白衣の人間たちの中で最も頻繁に彼を訪ねて来た女の言葉が物語っていた。

『ルキウス、貴方は――いえ、貴方の目はいずれ私の一部になる。その為には更に調整が必要なの。だからそれが終わるまでは、くれぐれも死なないようにすることね』

 水槽の中でよくわからない溶液に浸されていたときに外から投げかけられた言葉。彼女が自分にその言葉を聞かせようとしていたのかルキウスにはわからなかったが、それが自分にモルモットとして以上の価値を認めない言葉であることが理解できるほどには彼も言葉を学んでいた。

 しかし、まるでその呪詛に反目するかのように、ルキウスは色々なことを学んだ。

 自分のいる世界がテラという、外に広がる本当の意味での世界から見ればほんの小さな1点くらいでしかない所であること、外という概念、その外には太陽という巨大な天体から秒速30万キロメートルで放たれる光が満ち溢れていること、外では人間と魔族が、ここで結ばれている実験台と観測者という無機質なものでない関係を築いているらしいこと、外には楽しみにするような娯楽がたくさんあること。家族。友人。恋人。そう呼び、会うことを心待ちにできるような存在が白衣の人間にも――ルキウスに呪詛を投げかけた女は例外として――いるらしいこと。テラのすぐ外側はエデンと呼ばれる場所で、その外側にも更に大きな世界が広がっているらしいこと。砂漠。海。山。朝。夜。太陽。月。街。村。道。石。草。土。火。潮騒。雨。風。

 そのときの自分には触れることのできなかったものを科学者たちの会話から学び、そして今、自分は憧れていた「外」にいる。

 それは嬉しいことでもあったが、同時にいきなり触れた全く新しい世界に混乱してもいた。カイルは外に出たとき、懐かしそうに辺りを眺めていた。それにルキウスは全く共感できなかった。ここでも、数十分前に繁華街に向けて宿を出て行ったエスタのように喜んだりすることができない。ただ混乱するだけで、自分の置かれている状況を把握するので精一杯だ。少しの孤独感が彼の心を沈ませようとしたとき、背後で物音がした。

「――――――っ!?」

 思わず身構えたルキウスの視線の先に、つい先ほど思い浮かべていた少年の姿が現れた。張り詰めた緊張が一気に抜け、また視線を前に戻す。カイルはそのままルキウスへと近付き、横に並ぶとその顔を覗き込んだ。その視線に気付いて、少し鬱陶しそうに口を開く。

「……何だよ。もう起きて大丈夫なのか?」

「うん、もう大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」

 カイルは、最初に収容所内で見せた泣き顔ではなく、笑いながらそう言った。その心から嬉しそうな顔を直視できず、ルキウスは思わず目を逸らす。

「あ、あんまそれ言うな。そんな大したことしてねぇし」

「いや、だってルキウスは、」

「いいって。それ以上何も言うな。変な気分になる」

 カイルの言葉を最後まで聞いてしまうと平静を保てなくなりそうで、必死に遮った。そんな思いを知ってか知らずか、「目が覚めたらいなくなってるから心配したんだよ?」などと言いながらカイルはルキウスの顔を覗き込んでいた。しかし、やはりその顔を直視できないルキウスなのであった。

 だから、屋上以外に、デゼールロジエの誇る繁華街に視線を向けていることができたことは、ある意味ありがたかったと言ってもいいのかも知れない。


 ホテルの屋上でルキウスを見つけたとき、カイルはその背中に孤独な影を感じた。声をかけるのに躊躇しているうちに気付かれたが、そのときにルキウスが自分に向けた視線。それは今までの彼がどのような環境にいたのかをカイルに想像させるには十分なものだった。

 視線を前に戻したルキウスは、どこか落ち着きない様子だ。

 その隣に立って、カイルは話しかけ続ける。

「目が覚めたらいなくなってるから心配したんだよ?」

「べ、別にお前が心配することでもないだろ」

 ルキウスは、ともすれば投げやりな口調で返す。しかしカイルとしてはそういうわけにはいかなかった。ルキウスの体の不調は、その大体が自分のせいであるようなものだ。エスタはルキウスの体が弱いのだと言っていたが、ならば尚のこと自分は彼に負担をかけるべきではなかった。それでなくとも――

「それに、近くにいてくれないと君が連れ戻されたのかもって思って、不安になるから……」

 言いながら、カイルは軽い自己嫌悪に見舞われた。

 自分は、ルキウスに守られてばかりだ。今日1日で、どれだけ彼に守ってもらっただろう。

 ルキウスだけではない、エスタの助けがなければエデンを出てここまで逃げて来ることもできなかっただろう。それどころか、昨日までのカイルには何かに抗う意志すらなかった。

 抗うこともせず、ただ看守長の欲望の捌け口になり、他の囚人たちからの冷遇に心を磨り減らしているだけだった。誰かに助けを求めることを諦め、かといって自分自身の行動で状況を変えようとしたわけでもない。ただ抵抗することを諦めて、いつか来るかも知れない「終わり」を心待ちにしているだけだったのだ。もしもあのときルキウスが来なかったら……と思う度に、カイルは自分が辿っただろう未来を恐ろしく思う。

 自分もルキウスに頼りきりにならないように強くならなくてはいけない。そう思う気持ちと裏腹に、それはできないのだという諦めも彼の中にはあった。

 彼は魔族で、自分は人間だ。

 何の力も持っていない自分は、彼のように強くなれない。

 そんな諦観を自覚したとき、カイルは自分の心が暗い水底へ沈んでいくように感じた。それでも、とカイルは思う。以前の自分ならば、逃げたいという意志すら持てなかった。それを変えてくれたのは、恐らく隣にいるルキウスなのだ。無理やりであっても、そう思うことで少しだけ心に光が差した感覚があった。

 ――君と一緒にいれば、僕も少しは変われるのかな。

 そう言葉に出そうとしたカイルは、ルキウスがちらちらと目を泳がせていることに気が付いた。それが自分と目を合わせないようにしているだけではないように思えて視線を追うと、どうやらルキウスは屋上から見える下の方を見ているようだった。

 確かに、初めて見る景色ならば、気にもなるのだろう。

「…………」

 しかし、眼下に広がる繁華街から漂う夜の気配に、カイルは抵抗を感じずにはいられなかった。幼い時分から姉に徹底的に乱れたイメージを植え付けられていたこともあるが、何よりも街の淡い光が、収容所にいた頃ほぼ毎日連れ込まれていた、看守長ロドリーゴの私室の照明を思わせた。アルコールの臭気に塗れた吐息。体中を嘗め回すような視線、そして営まれてきた穢らわしい行為。そのどれをとっても、思い出しただけで吐き気を催すような記憶だった。

 しかし。カイルは隣で眼下を気にしている少年を見やる。

 彼は、外を全く知らなかったのだ。そんな彼の目の輝きはカイルにはとても眩しいものに思えた。そして、その輝きを持った彼ならば、自分の中に根付いて離れない澱を吹き飛ばしてくれるのではないか……そんな期待が、そのときのカイルには奇妙な確信を伴って芽生えていた。

 今はもう1人じゃない。

 ごめん、ルキウス。僕は、また君を頼ってしまう。

 そう心の中で謝って、ようやくカイルはルキウスに問う。

「気になるの?」

「は……、は? 何が気になるって? べ、別に俺は……」

 気になってなんかいない、と言おうとして、ルキウスは言葉に詰まった。カイルから目を逸らしてもいたが、眼下に広がる煌びやかな賑わいが気になっていないのかといえば、そんなはずもなかった。暗い研究室しか知らなかった彼にとって、そこは全くの別世界。戸惑いもあるが、見てみると、道行く男たち――そこには人間も魔族も関係ないように見えた――の顔は一様に綻び、中には鼻の下が伸びきっている者も少なくない。

 あそこは、そんなに楽しいのだろうか?

 カイルの言葉を否定するのとは裏腹に、視界はすっかり釘付けになっていた。そんな彼の目にエスタの姿が入った。その瞬間、すっくと立ち上がってカイルを振り返り、声を大きくして言った。

「なぁ、カイル! エスタのおっさんがあそこにいるぞ? しょ、しょっ、しょうがねぇから迎えに行くか! い、一緒に来てもいいからよ……!」

 エスタの姿はカイルにも見えていた。カイルの目には迎えなど必要ないようにも見えたが、ルキウスのあまりにわかりやすい理由付けが微笑ましく思えて、つい先刻までの緊張も解けて「僕も付き合うよ」と自然に答えていた。

 一方でその答えを聞くまでもなく、ルキウスは早速自分の言葉に恥じ入っていた。何だよあれ、一緒に来てほしいって言ってるようなもんじゃないか……! い、いや、本当に迎えに行くだけだからな!? その途中で街を見て回ったりするかも知れないけど。そんな言い訳を考えてはみたものの、カイルには言い直す間を与えてはもらえず、結局笑顔で押し切られてしまった。

 ……意外にこいつ、強引なところあるんじゃないか?

 ほんの少し不本意な要素と疑問も入ったものの、ルキウスとカイルはこうして、デゼールロジエの真の姿とも言える繁華街に向かってホテルを出ることになったのだった。

 口実とはいえ一応は探すつもりでいたエスタの姿は、やはり繁華街の人込みに紛れて見えなくなっていた。しかし、カイルはそれどころではなかった。歩き始めてすぐに、ルキウスが口元を押さえて道の端に蹲ってしまったのである。

「――ルキウス!」

 カイルは慌ててルキウスの傍に屈み、声をかける。

 どうしよう、まだ起きて出歩いたりしてはいけなかったんだ! せっかく仮死薬の症状から覚めて少し歩けるくらいになっていたのに、また自分のせいで負担をかけてしまった! 仮死薬から覚めないルキウスを見るエスタの視線から、彼の体が普通じゃないらしいことは何となく察していたのに……!

 早くホテルに戻らないと! 焦りながら、必死にルキウスを揺り起こそうとするカイルの手は強く振り払われた。荒い息遣いの中に、か細い声が交じる。

「ゆ、ゆらすな……。きもちわるい、くさい……」

「え?」

 返事があることも予想外だったが、その内容の意味がカイルにはわからず、思わず聞き返してしまった。しかし、もうルキウスからは返事がない。ただ苦しそうに息をしているだけだ。

「おーおー、どうしたおふたりさん。酔っちまったのか? え?」

 通りがかりの男が2人に声をかける。さぞかし楽しい思いをしてきたのだろう、上機嫌な様子で近寄ってきた男の呼気から濃縮されたようなアルコール臭がして、視界が滲みそうになったところで、ようやくカイルはルキウスの言った意味がわかったような気がした。心配そうに2人を見る男に軽い礼を言ってから、カイルはすっかり力の抜けているルキウスの体を担いで、そこら中から漂う酒気から逃げようと人気のない路地に移動する。

 更に大通りから離れようとするカイルだったが、脱力しきった体というのは予想外に重いもので、路地に入ってから数歩のところで力尽きてしまった。折り重なるように倒れてきたルキウスの体の下から抜け出そうとするが、重さが尋常ではない。必死にもがくカイルは、1つの影が自分たちの前で立ち止まっていることに気が付いた。

「…………っ!」

 背筋が凍るような思いがした。

 街を歩いているだけの酔っ払いならまだいい、いや、最悪自分たちに目をつけて金を強奪しようとしている暴漢であっても構わない。それならばその場限りで済ませることができる。しかし、今は2人を追う理由のあるものがいる。

 エデンから放たれたかも知れない、追っ手。

 まさか、もう見つかったのか!? 焦るカイルに、無言で迫る足音。通り過ぎてくれと願うカイルの願いも虚しく、足音の主はカイルの目の前で屈み込み――

「あら~! 2人ともお熱いのね~、ん? どうしたの?」

 カイルの顔を覗き込んだのは、大柄なスキンヘッドの男だった。右手には食料品が入ったと思しきビニール袋を提げて、目を丸くしている。

「あぁ、この坊や酔っ払っちゃってるの? お嬢ちゃんも大変ねぇ」

「おじょ……?」

「冗談よ。坊やたちどうしたの、こんな時間に? ここら辺は子どもにはあぶない場所だけど」

 それこそ冗談めかして笑っている男。しかし身動きの取れない状況で男と相対しているカイルは動揺し、大げさに体を震わせてしまう。その姿を見て、男は「あら」と呟く。

「何か相当驚かせちゃったみたいね……。ちょっとアタシの店で休んでいきなさいな。すぐそこだから」

 よいしょ、と事も無げにルキウスを小脇に抱えた男が指し示したのは、カイルが倒れている路地に構えられた唯一のバー『ラパン・エキャルラット』。相変わらず動けずにいるカイルに、「大丈夫よ、うちは家族連れのお客様でも平気な店になってるから!」と優しげな口調で言いながら店のドアを開けて中に入っていく。

 店主らしき男の思惑は外れ、カイルの中で彼の胡散臭さは全く解消されていない。しかしルキウスを連れて行かれた以上、カイルは覚悟を決めて、恐る恐る店の中に入って行った。

 入った店の中は薄暗く、とても家族連れ向けだとは思えなかったが、そこは確かに、行き交う観光客の狂騒に満ちた大通りからは隔絶された場所だった。シーリングファンが静かに回り、店内では数人の客が静かに何事かを話していた。そのうち入り口から遠いボックス席に座る2人の間にアタッシェケースが見えたが、その辺りは気にしないように努めた。ルキウスはカイルが店に入った直後にトイレらしき所へ連れて行かれたので、店主に勧められたカウンター席にはカイル1人だけが取り残される。席に着いてすぐにウェイターの青年が置いていったメニューから適当に注文した後、手持ち無沙汰になって辺りを見回す。

 カウンター席には自分1人。他の席も入ったときより空いていき、目に付いたのは、窓際の席で談笑している頑強な体つきをした3人の男たちだけだった。

 静かな店内である、外でだいぶ酒を飲んできたと思しき彼らの大声はよく響いた。どうやら彼らは、カイルがデゼールロジエに着いたばかりのときに見かけた、井戸掘りのうち3人であるようだ。涸れた泉の底に水源を探すのをやめて、新しい所を掘らないかと年若い男が言い出したらしい。代わりにどこを掘るかという話題は、いつしか彼らの酒の肴になっているようだった。

「じゃあよぉ、あのロディエの野郎の床下掘ってやろうぜ? 土台崩してやらぁあの野郎……!」

「あんたが金借りてんだろうが、やめとけって。バレたら俺らまで巻き添えだ」

「あぁ!? バレるかどうかなんて、やってみなきゃわからんだろうが!」

「こいつ、あそこのメイドに熱上げてんだぜ?」

「い、言うなよクラテールの旦那!」

「あー、ありゃやめとけギァリック。あれは相当くわえ込んでるから。それに何より、ロディエの『いい人』だって話だしよ」

「そ、そんなのただの噂だろうよ……!」

 そのまま話題はギァリックと呼ばれた若者の恋路に及び、彼の反応を周りの2人が面白がるといった会話がしばらく続いた。

 ――ルキウス、まだ戻らないのかな。

 運ばれてきた料理を食べながら、店主とルキウスが行った方角を気にしているカイルに気を利かせて、ウェイターの1人が奥の部屋に入って行った。戻ってきた彼が言うことには、ようやくルキウスの嘔吐感が落ち着きを見せているのだという。「よっぽどの量を飲んだのでしょうね」と苦笑交じりに言う彼にルキウスは1滴も酒を飲んでいないと言ったらどんな反応をするだろう、とカイルは思った。

 優しげな物腰のウェイターは例の3人組に呼ばれていったため、カイルはまた1人になる。サービスと言ってウェイターが置いて行った果実酒を口に含む。酒の味わいを感じるには酒を飲んだ経験に乏しいカイルだったが、そんな彼に合わせてか、しつこくない程度の甘い味付けで飲み易かった。

 今まで、酒を飲む――飲まされるときは、いつも度数の強いものを、それこそ意識や判断力が朦朧とするまで飲まされていた。それは、その後に待ち受ける忌まわしい行為の「準備」でしかなく……。しかい、過去の記憶に不意を突かれて全身に走った悪寒も、果実酒の優しい甘さに洗い流されるように感じた。

 ふと、奥の扉がそっと開いた。

「カイル……」

 妙に弱々しく自分を呼ぶ声にカイルが目を向けると、ルキウスは大柄な店主に付き添われながらカイルのもとへ戻ってきた。苦々しい表情で傍らの店主を見上げながら歩いている。店主は困惑したような、呆れたような表情で何事かを説明している。「だから~、これは腕のいい薬剤師から調合方法を教わった、ちゃんとした気付け薬なのよ? 安心してちょうだいよ~」という声には、きっと何度も繰り返してきたのだろう、疲労の色が濃く出ている。

 カイルの姿を見かけるや、店主は大きな体を丸めてカイルの脚にしがみついて哀願する。

「ちょっと、坊やからも言ってくれない? ホントに安全な薬なのに毒なんて言われちゃったらうちのイメージに響くのよ~」

「いやカイル、あの苦さは毒だ。騙されるな」

「…………」

 実際ルキウスは普通に話せるまでに快復しているのだから、恐らくルキウスが飲んだのは本当に気付け薬なのだろう。毒呼ばわりは完全に言いがかりだ。しかし、カイルは薬に関する知識がない。誰か薬に詳しい人が近くにいれば……と思ったところで、あることを思い出した。

「ルキウス、エスタさんは!?」

「……あ」

 2人が外に出ていることを、エスタは知らない。もし先にホテルに戻っていたら、いらぬ心配をかけかねない。早く戻らなければ。カイルは困った顔をしている店主に気付け薬の礼を言ってから、知人とこの街を訪れていて、自分たち2人は繁華街に出かけて行った知人を探しに出て来ているところなのだと事情を説明した。すると、ふーん、と頷いてから、店主はカイルの顔を覗き込んだ。

「もしかして、坊やが言ってるエスタって、エスタ=グラディウスのこと?」

「え、はい……」

 暫しの沈黙に、カイルの背筋を冷や汗が伝う。まさか、エスタの予想に反して、既にエデンから手配書が近隣地域に届いているのではないか。付近の都市とは深い同盟関係を結んでいるエデンのことである、脱走者の手配書を回していても不思議ではない。だとしたら自分の行為は考えなしに過ぎた……! その不安はルキウスにも伝わったのだろう、まとう雰囲気が鋭いものに変わる。

「――――!」

 ルキウスに力を使わせるわけにはいかない、反射的にそう思ったカイルが次の行動を思案し始めたとき、店主は急に破顔して、カイルの柔らかな髪を撫で始めた。

「へぇ~! 坊や、師匠せんせいと旅してるの!? え、じゃあ何? 将来薬剤師志望? 何よ、早く言ってくれればあんたにも気付け薬の作り方教えてあげたのに~! じゃあちょっと待ってて、師匠に連絡してみるから」

 話に付いていけずにいるカイルを尻目に、店主は明らかに浮かれた様子でエプロンの胸ポケットから携帯用の通信端末を取り出し、電話を始めた。

「もしもし師匠? お久しぶり~! アタシですよ、リシャールです~。そうそう、『ラパン・エキャルラット』の。うんうんうん、はい。こっちは全然大丈夫よ! ほんと師匠のおかげ! あ、いえいえそうじゃなくて、今師匠のお連れさんだっていう坊やたちがうちに来ててね? ……あら、切れちゃった」

 リシャールという名前らしい店主は、「すぐ来るみたいよ?」とカイルたちに微笑んだ。

「あんた、エスタのおっさんと知り合いなのか?」

 訝しげに問うルキウスに、リシャールは「あら聞いてないの?」と問いを返し、自分が2人にとって『姉』弟子にあたることを、熱を込めて長々と説明し始めた。律儀に相槌を打つ一方で、カイルの意識は先程の3人組の噂話に移っていた。話術に長けているリシャールの話は退屈ではなかったが、3人組の会話の内容が、気になるものに変わっていた。

 彼らの話は二転三転し、借金のことでぼやいていた中年の男がどこかに移住したいと言ったのを皮切りに、住みよい場所はどこかという話が弾んでいるようだった。

「やっぱり東のほうにあるとか言う黄金の国か? 金に困らなさそうだしよ」

「あんたはいつも金ばっかりだな~。たまにはもっとこう、幸せっての? それこそエデンとか」

「幸せ、ねぇ……。それならエデンよりいい場所があるらしいぞ? 何でも、永遠の幸せが約束された場所って話だぜ? つっても、ガキの時分に近所の婆様から聞いた話だがな」

「旦那がガキの頃? 何か想像できねぇな」

 話の腰を折るギァリックを肘で小突く借金男。クラテールは話を続ける。

「いいか、これは本当かどうかはわからねぇ。俺が聞いたときにはもう伝説だとか言われてたからな。だがあれば……」

「勿体つけるなよ、クラテールの旦那! どんな所なんだよそこは!?」

「わかったわかった、そう急かすなよ。どうやらそこってのは、この世の果てにあるらしいんだ」

「この世の果てぇ!? 何だよ何だよ、それほんとにあんのかぁ?」

 何やら金策でも考えていたのだろう、真剣な顔をしてクラテールの話を聞いていた借金男が笑い交じりに問う。「だから伝説だって言ったろうが」と苦笑交じりに言うクラテールにしばらく食い下がっていたギァリックだったが、やがて話がどこまで行っても不確かなのを聞いて、落胆したように両手を広げていた。

「それじゃあ、ほんとに伝説でしかねぇ場所みたいだな~」

「だから最初からそう言ってたろうよ。まぁ、結局この街が1番ってことよ。世界中回った俺が言うんだから間違いねぇ」

 朗らかに笑うクラテールのその言葉で「この世の果て」の話は終わったようで、その後3人組の会話はこの後どこの店を回るかという話に変わった。何でも借金男が気に入って色々な物を貢いでいる娘のいる店に行くとかなんとか。

 その後やけに慌てたエスタが店にやってきて、「おい、お前ら何もされてないか!?」と言ってリシャールから「失礼ね~」と笑われるという一幕を挟んで店を出ることになった。出歩くとは無用心な……とカイルとルキウスを少し叱るエスタだったが、出歩くのが危険な自分たちを置いて飲み屋に行ってしまった彼には言われたくないと思うカイルであった。

 宿に戻って、ベッドの中。

 カイルは1人眠れずに部屋の天井を見つめていた。

 色々なことがあったからかも知れない。ルキウスとの出会い、中央収容所からの脱走、そしてエデンからの脱出。理想郷とも言われる――自身も収容所に入れられるまではそう思っていた――エデンを、逃げるように出ることになるとは、思っていなかった。

 隣で静かに眠るルキウスを見やる。

 彼に連れられて、僕はここまで来ることができた。でも、どこに行けばいいのだろう? そう思ったカイルは、先ほど聞いた話を思い出していた。


 この世の果てにある、永遠の幸せが約束された場所。


 そこならば、誰もが幸せになれるのだろうか。エデンですら無縁ではいられない、自分が感じた――そしてルキウスの話から推測されるような――理不尽からも解放されて、今度こそ幸せになれるのだろうか?

 ……《最果ての海》。

「――――っ!?」

 カイルは困惑する。

 そんな呼び名を、彼らは使っていなかった。それなのに、どうして自分はその名前を使えたのだろう。それも、随分前から知っていたように感じた。ずっと前に、どこかで聞いたような。

 それがいつ、どこでのことだったのか。

 カイルの自問に答えが出ることはなく、結局カイルが眠ったのは、夜空が白み始めてからのことだった。


 夜空が白み、デゼールロジエが眠りに就く頃。黒衣の少年は街角の安ホテルを見上げて微笑む。

「やはりこの町に立ち寄ったみたいだね。それでいい」

 浮かれた人の流れの中でただ一点立ち止まっている彼は、その笑みを深くする。

 ……結末は決まっている。キミたちはそこに向かってただ踊っていればそれでいいんだよ、お姫様と同じようにね。

 彼は一声、さも可笑しそうに笑ってからそのホテルを離れる。

 人ごみの中、その姿に視線を送る者は、誰もいなかった。

こんばんは、前書きに引き続き、遊月奈喩多です!

遂にこのお話を書くことができました……というと、全てがこの為の布石だったみたいで微妙なニュアンスになってしまいますが、それくらい、形にしたかった作品なのです(前書きでも書きましたね)。

と、いうことで、作品については本編で語られていること以上はお話しません。

台風が近づいていますね……(唐突な話題変更失礼します)。

台風というと、雨風がビュウビュウな中で普通に登校して、普通に給食を食べ(給食センターが臨時で作ってくれました)、普通に「さぁ帰りましょう」となった小学校の思い出が強いですね~。近年はその小学校、台風の日はお休みしているようです。

話が逸れたところで、今回のところはお別れしましょう。

ではではっ!

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