追憶4 月の光(下)
追憶3 月の光(上)より続き
以下、前回のあらすじ
未だ酒の味を知らぬ幼気な楓の舌に、アダルティで甘美な雫一滴垂らしてやろうという訳である。
以上、あらすじ
夕刻。
必要なものを買い揃え、ホテルに荷物を預けた僕と楓は、高橋に紹介を受けたバーに向かっていた。
僕の数歩前を歩く楓の、少し厚底のスニーカーが、路上に残る浅い水溜まりをぴちゃ、ぴちゃと一定のリズムで跳ね上げる。
「雨の匂いがする」
散り散りになった雨雲を見上げ、楓が言う。
「誠一くんは、何かの匂いで、ずっと昔の事を、急に思いだす事って、ない?」
「昔の事を?」
「そう」
時折スマホのマップアプリで居場所を確認しながら、楓の脚は淀みなく先を行く。
「私は、雨の匂いがすると、おばあちゃん家の縁側で遊んだ事を思い出すの。すごく小さい頃の事なんだけれど……不思議と鮮明に思い出すわ」
半ば独り言のように、楓は言う。
「私だけなのかしら。匂いで、そういう思い出し方、するの」
「いや……」
楓が僕に振り返る。
「五感の中で、嗅覚だけ、脳への情報伝達経路が違うんだ。凄く簡単に説明すると、嗅覚は直接、他の器官を経由せずに脳に作用する。それが、記憶や情動を強く呼び起こす理由として考えられてる」
「へええ」
「残念ながら、僕は、雨の匂いで何かを思い出す事はないけれど、多くの人が、記憶の中に深く根付く『匂いの記憶』を持ってるんだよ」
「……………」
楓は僕の言葉を受け、何か考える様に、無言で歩く。
そして、それから数十秒とせぬうちに、脚をぴたりと止めた。
「着いたわ」
いつの間にか、目的地に到着していた様である。
バー『壱色』は、繁華街からほど近い雑居ビルの四階にあった。
次第に眩しくなる西日から逃げる様に、僕と楓はエレベーターに乗り込んだ。
「ね、誠一くん、こんな日も暮れないうちから、バーでお酒を飲むの?」
「ああ、その積りだよ」
「まだ晩御飯も食べてないのに」
「酒を飲んだら、食べに行こう」
僕のその返答に、楓は目をぱちくりさせた。
「順番逆じゃない?」
普通に考えたら、そうなのかもしれなかった。
皆、ビールとともに食事を取り、ひとしきり腹を膨らました後、純粋に酒を楽しむためにバーに行く。そういうイメージが、楓にも定着しているのだろうと思った。
そうこうしているうちに、僕達を乗せたエレベーターは四階に辿り着く。
数歩も歩かぬ場所に『壱色』と書かれた扉があった。
僕は扉の前に立ち、楓に一言返してから、ドアノブを引いた。
「酒を飲むのに、順番なんてないんだよ」
ちりんちりん、と扉に掛った鈴が鳴る。
外観から想像していたよりもずっと、店内は広い。
幾つかのテーブル席の向こうにあるカウンター。奥にはマスターが一人。胸元に店のロゴと思しき刺繍が見て取れる。
バックバーには洋酒が壁一面に並んでいる。
客はまだ誰もいない。開店間もない時間なのだから当然といえば当然である。
「いらっしゃいませ。御森様ですね。こちらに」
「……っ!」
マスターの言葉に、びくり、と、楓が身構える。
「高橋か……」
別に予約など取らなくても良かったのだが……気を回す奴だ。
だが、高橋の真意は直ぐに分かった。
マスターに案内された席は、意外や意外、テーブルでもカウンターでもなく、店内に一室のみ設けられた畳敷きの和室だったのだ。
座布団が向かい合って二枚敷いてあり、時代掛かった卓袱台で酒を飲む体だ。
「素敵」
スニーカーを脱ぎ、座布団に腰掛け、和室をぐるりと眺めたあと、楓が素直にそう呟く。
「正直、バーって、どうしても敷居が高いイメージがあったんだけれど、こういう場所もあるのね」
ほっとした表情を見せた楓に、僕は内心舌を捲く。
高橋のチョイスは、少なくとも楓にとっては大正解だった様子だ。
わざわざ予約を取ったのは、一室しかないこの和室を確実に押さえておくためだったか。
「すみません、今日は……お互い一杯だけの積りなんです」
若干の申し訳なさを込め、マスターにその旨を告げる。
「構いません」
「貴腐ワイン、置いてあります?」
「はい。お苦手な銘柄などは?」
「いえ、特にありません。飲みやすいものを」
「畏まりました」
マスターが直ぐに準備に取り掛かる。
正面を向くと、丁度、楓が窓からの景色に夢中になっているところだった。
「誠一くん、来てみて」
楓に促され窓の外を眺め、僕は息を飲んだ。
「これは……凄いな」
バー『壱色』の入る雑居ビル四階からの眺め。丁度西日が最も強い時間帯である様で、夕焼けが、市街地に並ぶビルを、街路樹を、道路を、行き交う人々を、いずれも茜色に染めていた。
「誠一くん、私をこんな雰囲気の良いバーに連れてきてどうする積り?」
お道化た感じで楓が言うので、僕もついつい合わせてしまう。
「分かってるんだろう。ウブなおぼこじゃあるまいし」
いかん、と、僕の脳裏が警鐘を鳴らしたものの、どうにも、楓と酒が飲めるという事で、僕は妙なテンションになってしまい、マスターが酒を運んできた折、僕等は彼の前で頭の悪い寸劇を見せるに至った。
閑話休題。
運ばれてきたテイスティンググラス。その中に入っている黄金色に輝く液体を見て、楓は首を傾げる。
「これは……ワイン?」
「そう。白ワイン」
「さっきの、誠一くん、キフワインって言ってたけど、それってどういうワイン?」
「ひとまず、飲んでみて。」
「……」
訝しむ様に、楓が一口それを飲む。
そして……
「……甘い!」
そう。甘いのだ。このワインは。
「ワインって、こんなに甘いものあるの?でも……」
楓がより一層驚く顔を見せた。
「飲める。……なんていうか、甘さが、下品じゃない。飲める。美味しい」
その言葉を聞き、自分の選択も間違いではなかった事に安堵する。
「それが、貴腐ワイン。高貴の貴に腐ると書いて、貴腐ワインだよ」
「腐る……?味の印象と、全然違うんだけれど……」
「だろうね。貴腐というのは、ワインの特殊な製法の一つなんだ」
僕はグラスを傾けて、同じく貴腐ワインを一口飲む。
「『貴腐』という現象がある。普通、菌が葡萄に付着したら腐敗するんだけれど、ある特殊な菌が付着した場合のみ、葡萄表面のロウ質が溶かされ、葡萄の中の水分が蒸発する。それが原因で葡萄の糖度が極端に上がり、その葡萄を使って作られるワインが、この貴腐ワインなんだよ」
「……………」
僕の薀蓄を聞いているのか聞いていないのか……楓は貴腐ワインの味に夢中になっていた。
兎に角、今日ここに来た目的は果たされた。
直ぐに会計を頼もうかとも思ったが、どうにもこの和室が心地よく腰が重い。
残り一口分のワインを揺らす。
その時、ふと、店内のBGMが途切れたのに気付き、僕はカウンターの方を見た。
マスターが棚からレコードを取り出している。
程なく、新しく挿入されたレコードの音楽が店内に流れる。
クロード・ドビュッシーだ。曲目は有名な『月の光』。
僕は改めて窓の外を見る。
夕焼けの頃は終わり、もう少しだけ待てば雲間から美しい月が見えるだろう、そんな頃合いだった。
「マスター、すみませんが、もう一杯、頂けますか」
マスターは軽く会釈してこちらに向かってくる。
「はい。如何いたしましょう」
僕はここで初めてメニューを開いた。
数枚で構成されたメニューの中に、フルーツの名前が列記されているものがあった。
「本日仕入れているフルーツのラインナップです」
マスターがそう補足する。
「ほうほう……」
僕はそのメニューに興味を持った。
「楓、ここに書かれたフルーツの、どれか好きなもので、生絞りのカクテルを作って貰うのはどうかな。きっと貴腐ワインに負けず劣らず美味しいと思うよ」
「誠一くんが、そう言うなら……」
楓は僕からメニューを受け取り、それを一分間矯めつ眇めつ眺めたあと、
「苺」
と回答を出した。
楓も年相応に可愛いところがある様である。
「御森様には、どういったものをお出ししましょう」
楓の注文のあと、マスターは僕にそう訊ねてきた。
「そうですね……じゃあ、何か焼酎を、水割りで頂けますか」
「種類はこちらでお選びしても?」
「お願いします」
「焼酎頼むの?」
マスターがカウンターに戻るや否や、楓が不思議そうに訪ねてくる。
「折角の和室だしね。それに」
「それに?」
「……久々に、『変な味』を楽しむのも、悪くないかなって」
程なく、僕と楓の前に二杯目の酒が届く。
楓の前には、生絞りの苺で作ったカクテル。
僕の前には、ロックグラスに入った透明の焼酎。
ほんのりと香る甘い米の匂い。僕はマスターに訊ねた。
「米焼酎ですか?」
「はい。銘柄は『待宵』と言います」
「『待宵』、ですか……」
僕は、段々と、マスターの手の内で踊らされている気分になってきた。
もしや、帰ろうとしているあのタイミングで月の光を流したのも、意図してやった事ではあるまいな。
「貴腐ワインも、苺のカクテルも……私、こんな美味しいお酒、飲むの初めて」
二杯の酒で顔をすっかり顔を真っ赤にした楓が、呟くように言う。
「いつもお酒を飲むときは、安い居酒屋とか、誰かのお家でだったから」
ぽつぽつと話す彼女には、いつもの大人びた雰囲気はなく、むしろ実年齢より幼く見える。
「大学生同士の飲み会なら、当然そうなるよ……でも、意外だな。楓も、そういう飲み会に出るんだ」
「あんまり出たくないけれど、サークルの付き合いもあるから」
「……サークルに入ってたのか」
僕は、聞いた事もない楓の話に興味を持った。
「なんて名前のサークル?」
「地方文化研究会。周りの人からは、B研と呼ばれているわ」
「B研……そりゃ楓らしいな」
僕は苦笑する。ぴったりだ。
「でも、肩透かしだったわ。うまく説明出来ないけれど、『地方文化研究会』は、偶にB級スポットを回る小旅行をするだけの、お遊びサークルだったの。私の求めてたのとは全然違くて、飲み会だってチェーンの居酒屋ばっかり……誠一くんにいつも話しているような私の価値観は、その人達には全然分かって貰えなかった」
からんからん、と、楓のグラスの内側に氷が当たる。
氷を眺める楓の目は、どこか寂しそうに見えた。
「……じゃあ、何故、僕には、そういう価値観、話せるんだ?」
少し逡巡したあと、楓にそう問う。
「最初に誠一くんに会った時、言ってくれたから」
楓は言葉を数瞬区切り、続けた。
「『自分を偽るのは今日で止めた』って」
「……………」
「だから私は、誠一くんの前では、偽るのを止めようって思ったの」
会計を済ませ、ビルを出た僕と楓の頭上には、とても大きな月が出ていた。
楓が月を見上げながらふらふらと歩くので、危ないぞ、と声を掛ける。
そう言う僕の身体にも、祭りの後の様な充足感が満ちており、取る足取りはどこか危うい。
「私、今日、このお店で、誠一くんとお酒を飲めて良かった」
両手を伸ばしバランスを取りながら、尚も楓は月から目を逸らさない。
「私、誠一くんと、この旅行が出来て、良かった」
月から目を離し、僕の方に振り向き、真っ赤になった顔で優しく笑う。
「一人では、輝けないわ。私を照らしてくれたのは、誠一くん」
屈託のない、子どもの様な笑み。
「今日もありがとう」
「楓、僕は……」
喉元まで出かかった言葉を、口元に手を押さえ封じる。
楓はそれを違う風に捉えた様で、
「眠いの?」
そう、訊ねてくる。
「ああ。少し、眠いかな」
「今日は、ずっと動きっぱなしだったものね」
ラーメンでも食べて、早めに帰りましょう、と、楓が言う。
その数歩後ろを、僕は歩く。
楓には、話せない。
きっと、一生、話せない。
__誠一くんは、何かの匂いで、ずっと昔の事を、急に思いだす事って、ない?
僕はこれから先ずっと、雨の匂いを嗅ぐ度に、楓と歩いたこの道を、思い出す事になるのだろう。




