追憶3 月の光(上)
「ほうら……待ちかねたよ楓」
白衣を着た男が、金色に輝く液体を楓の前に差し出すのを待ち、僕は楓にそう告げる。
もうそれだけで、恐怖に怯えた楓の顔がくしゃりと歪む。
「嫌よ……嫌。ウチ、怖い。そんなん、初めて、やもん」
楓は弱弱しく首を横に振る。
「次第に良くなってくるさ 」
楓の向かいに悠然と座る僕は、穏やかな表情で得意げに言う。
「嫌ぁ……堪忍してぇ…… 」
顔を背けぎゅっと目を閉じる楓。その表情のうちに僅かな期待が垣間見えるのは僕の見間違いでは無い筈だ。
「ごゆっくり」
そう言って、控えていた白衣の男はその場を辞す。
二人きりになった僕と楓。愉しい夜は、これから始まる。
場面は、数時間前に遡る。
楓との馬鹿なモラトリアムを始めて、少し経った頃だと思う。
当時僕ははまだ日々の出来事を手記しておらず、記憶は所々抜け落ちており時系列も曖昧な箇所が多い。
但しその日は、楓と初めて酒を飲んだ日として、僕の記憶の内に強く印象付けられている。
午前中ずっと雨に降られ、その間何処にも立ち寄らず車を走らせ続けたお陰で、昼過ぎには、僕と楓は大きな街に辿り着いていた。
「お酒?」
助手席でコインパーキング探しに勤しんでいた楓は、目を四方に凝らしながらもそう聞き返してきた。
「うん。たまには付き合ってくれよ。折角こんな大きな街に来てる訳だし」
楓は酒を飲まない。
最初は全ての旅費を出している僕に遠慮したものかと思ったが、どうやら酒そのものに興味がないだけのようで、
「うーん……正直、気が進まないわ」
案の定、反応は鈍いものだった。
僕と楓を乗せた車は雨上がりの市街地を進む。アスファルトに溜まった雨水が陽光を照り返し、眩しいくらいに街は明るかった。
混んでいるため車は遅々として先に進まず、アクセルとブレーキをしきりに踏み替える足が軽い疲労を訴えた。
「お酒、美味しいと思ったこと、ないの。食事中は、あまり他のものも飲まない事にしてるし……」
あっち、と、楓が差す方に車を動かす。どうやら条件の良い駐車場を見つけたようである。
「今までどんな酒を飲んだんだ? 」
「えと、普通に、ビールとか、焼酎とか、缶チューハイとか……。居酒屋でカシスオレンジとかも飲んだ事あるけど、濃くてあんまり好きじゃなかったわ 」
楓の言葉を受け、僕は少し考える。
ビールや焼酎は、酒を飲み慣れぬ女性が敬遠しても全くおかしくない。
缶チューハイは商品によって当たり外れがある。不味いものも、当然ある。
カクテル類は、店の作り手が、過度に甘く作りすぎたものを飲んだのではないか。学生同士で安居酒屋に行った場合、その可能性は高い。
結論、僕は思う。
楓は真に美味い酒を飲んだ経験がないだけではないか、と。
「ところで、チューハイって、何でチューハイって言うの?」
手頃な立体駐車場に車を停め、エレベーターで一階へ向かう道すがら、楓がそんな質問を投げかけてくる。
「焼酎とハイボールで酎ハイ、だよ。ハイボールの定義は諸説あるけれど、一般には、蒸留酒を炭酸で割ったもの。つまり酎ハイは、焼酎を炭酸で割った飲み物になる。そこにレモンで味を付ければ、レモン酎ハイ、という具合になる」
「でも、お店に売ってるレモン酎ハイは、焼酎みたいな変な味はしなかったわ」
変な味、ときたか。まあ飲み慣れてなければ、そう思うのも無理はないのかな。
「焼酎と一口にいっても種類が違うからだよ。甲類と乙類という区分が……いやマニアックな説明は省こう。とにかく、酎ハイで使う焼酎は、本格焼酎と違って、まあ、ソーダに、アルコールを足す役割の様に考えれば良いよ」
「ふうん」
エレベーターを出た僕たちは市街地に出る。
「それなら普通にレモンソーダを飲めばいいのに。そこにわざわざアルコール足すなんて、よく分からないわ」
ちょっと服が見たいと楓がいうので、僕達は駅近くの大きなビルに入った。
女性服ブランドが軒を連ねる階まで登り、幾つかショップを品定めしたあと、楓が僕に振り返り時間を乞うた。
「誠一くん、悪いんだけれど、少し時間を貰えるかしら」
女性の服の買い物は時間が掛かる。僕は素直に応じる。
「ああ。僕は、地下街の喫茶店で時間を潰しとくよ」
「ありがとう。じゃあ、後で」
「……………」
店の中に入っていく楓の背中。僕は……
「楓!」
「……なに?」
気がつくと僕は、楓を呼び止めこんな事を言っていた。
「悪いんだけど……待ってる間、スマホを貸してくれないかな?」
さすがに駄目かと思ったが、存外、楓は何も言わず僕に自分のスマホを差し出した。
「暗証番号、1025」
「……良いのか?」
「……へんな誠一くん。自分で、貸して欲しいって言ったんじゃない」
そう言って楓は店内に消えた。
地下街。
コーヒーをすすりながら、僕は静かに独りごちる。
「何で、あんな事言ったんだかな……」
__たまには付き合ってくれよ。折角こんな大きな街に来てる訳だし。
カップの水面に浮かぶ自分の冴えない顔を眺め、僕はなぜ楓に酒を勧めたのかを自問する。
本当に美味いと思える酒。
一切飲めないのであればまだしも、飲めるのに関わらず味を知らぬため飲まないという事であれば、それはあまりに勿体無い。
その喜びを、楓と分かち合えれば、それはどんなに良い事だろう。
顔を上げ、地下街を行き交う人々にぼんやりと目をやりつつ、僕は思う。
今までは、そんな事は、考えもしなかった。
話が合わなければ距離を置き、分かって貰おうなどとは思わなかった。
食事も、酒も、真に美味いものは一人で楽しめれば十分だった。
何時からだろうか。一人では寂しいと、思う様になったのは。
僕は楓のスマホを手にとり、電話アプリを開き、高橋の携帯番号に電話を掛けた。
「はい……」
訝しむ様なニュアンスで応答が来る。高橋からすれば、知らぬ番号からの着信なのだから当然だ。
「あの、高橋?僕、御森だけど……」
そこまで言うと高橋の声のトーンは一気に跳ね上がった。
「?……ああ〜!先輩!お久しぶりです!どうしたんすか!携帯変えたんすか?」
「いや……ちょっと諸事情あって自分の携帯の電源切ってるものだから……」
相変わらずの高橋の調子に安堵して、僕は話を開始する。
しばし近況報告と雑談に興じたあと、僕は高橋に本題を切り出した。
「酒があまり得意でない人が、楽しめるようなバーを紹介して欲しいんだけど」
「了解っす。先輩の仕事場の近くすか?それとも、俺らの大学の近くすか?」
「いや……実はどちらとも全然違うんだ。今僕が居るのは、大名市。中心市街地だ」
「またえらく遠いすね。携帯切ってて……しかもその人と旅行中っすか?訳ありの匂いがしますね。えーとじゃあ、その人の性別と年齢教えてください」
僕は高橋のその言葉に、ぎくりとした。
「え、……その情報、必要なの?」
「そりゃ、必要ですよ。性別と年齢で、その人の趣味嗜好とか、舌の感覚とかが違う訳ですから。年齢が上の方だと、もう既に色々試した上での酒苦手の可能性もあるじゃないすか。そうなると、案内する酒のジャンルが全然違ってきますもん」
成る程……そういうものか。
良くない流れだと、僕は思った。
南無三。
「大学の、二回生の、女の子……」
「あっ」
それを言った瞬間、高橋が何かを察した様に言葉を噤んだ。
「せ、先輩……」
「あ、いや、違うんだ。け、決してやましいものじゃない」
「嘘だーい!あーんな真面目で優しくて成績優秀だった先輩がそんな年下の女の子……ぜーったい何かがあったに違いないすよー!どんな悪さしたらそんなおいしい展開になるんすかーやだーFacebookで拡散しちゃおー」
「止めろ!」
そんなすったもんだがあった末、僕はなんとか近隣のめぼしいバーを聞き出す事に成功し、僕は電話を切った。
最後に高橋に言われた、ご武運を、という謎の激励が、妙に心に引っかかった。
「拡散……拡散…… 」
大学では、石を投げれば高橋の知人に当たる。そう言われる程、広範なネットワークを持つ高橋に、こんな状況が拡散されようなら僕の噂は尾ひれを付けて情報の海を泳ぎ狂う。
いや、大丈夫だ。高橋は信頼出来る男だ。そこは、間違いない。
「誠一くん、誠一くん 」
「うん?」
何時の間にか、買い物を終えた楓が、大きな手提げ袋を持って目の前に立っていた。
「ああ楓、もう良いのか?」
「うん……。誠一くん、さっきの電話の人、後輩さん?」
どうやら話の終わりの方は聞かれていた様である。
「うん、大学時代の……なんで?」
ありがとう、と礼を言って楓にスマホを返す。
「ううん。なんでも」
それを確認した楓は、何故だかとても上機嫌になった。
「……楓?」
「誠一くん、私、さっき話してた、そのバーに行くわ。誠一くんを慕ってる後輩の人が、紹介してくれたのよね。ならきっと、そこは素敵な場所に違いないわ」
その時の僕は、そんな楓の突然の宗旨替えの真意を判りかねた。
今になり当時を追憶して、初めて分かる。
きっとあの時、楓は、嬉しかったのだ。
旅の中で随分癒されたとは言え、当時の僕は尚も精神的に疲れ切っていて、酒を飲めばぽつぽつと、それまでの生活に対する愚痴を、楓に零していた。
そんな僕の言葉を受け止めながらも、楓は密かに、僕を案じてくれていたに違いない。
そして、その日、僕に、頼るべき時に頼れる知人が居たのだというその事実を知り、楓は嬉しくなったのだ。
当時の僕は、そんな楓の心うちに気付かぬまま、彼女を喜ばすためにどんな酒を頼もうか等と、そんな事ばかりを、考えていた。
追憶4 月の光(下)に続く




