Next Directions.
都内の歓楽街近くの某所にある、人通りの少ない細い裏道。普段では歩行者はおろか、車通りすら滅多にないようなそんな場所に、一台の車が姿を見せる。
没個性的な銀色のセダンはトヨタ・アルテッツァAS200。こんな辺鄙な場所へ真っ昼間に現れたアルテッツァはとある一軒の三階建て雑居ビルの前で路肩に停まると、少しもしない内にエンジンの火を切った。
右側のドアが開く。そこから車外に降り立ったのは、長身の白人だった。ジーンズに黒のTシャツ、その上から軍放出品のフライト・ジャケットを羽織るラフなスタイルの男は、少しやつれた顔で軽く溜息を吐くと、アルテッツァのドアを閉じて施錠する。
――この白人こそ、戒斗らの追う四人の一人、元米海兵隊の現・PMSCs『ブラック・ウィドウ』社員のスティーブ・アルマーだった。
半日以上前に追っ手から逃れた後、警察にまで追われる羽目になったアルマーは適度に時間を潰した後、何度も車を乗り換えて漸くここまで辿り着いたのだ。最初に乗った、弾痕の穿たれたV35スカイライン・350GT-8なら、今頃どこぞの路肩で駐禁でも取られている頃だろう。
ここまで徹底して撒いてきたのだ。万に一つも無いとは思いつつも、一応周囲を二、三度見渡して警戒してから、ジャケットのポケットに手を突っ込みアルマーは雑居ビルの階段を昇っていく。
古い、恐らく築二十年以上は経過しているであろう雑居ビルの陰湿な雰囲気は、階段を一段昇るにつれて増していく。
二階フロアの扉の前にまでやって来た。アルマーはその扉を二、三度、一定のリズムを刻んでノックしてやる。
すると、鍵の開く音が聞こえた。手を触れないまま、扉は内側から開いていく。
赤錆の走る蝶番を軋ませて開いた扉の隙間から、アルマーとは対照的な、浅黒い肌の黒人男が顔を出してきた。アフリカ系の血統と思われるその男は、アルマーの顔を認めるなり「……入れ」と、彼にも理解出来る英語で告げる。その言葉のまま、アルマーは扉の向こうへと足を踏み入れた。
軋む扉の先に広がる空間は板張りの居住スペースで、雑居ビルの内側というよりも、寧ろ西海岸に点在する安アパートを連想させる。
部屋の中には、先程アルマーを迎え入れた黒人を含めた三人の男達の姿があった。二人はアルマーと同じ白人ではあったが、若い方の男は顔の彫りが深く、どちらかといえばドイツ系な顔立ちだ。
一応は玄関らしき段もあるのだが、部屋の住人達はそんなことはお構いなしに土足だった。アルマーもまた、ブーツを履いたままで部屋のフローリングを踏み締める。
この三人が、今回の仕事仲間……いや、共犯と言うべき連中だ。
ついさっき出迎えた黒人が、元陸軍兵のレジー・トッド。ソファに寝転がりながらテレビを眺めているドイツ系の白人が、マサチューセッツ工科大出身の戦闘工兵。爆薬のスペシャリストであるジョン・ウェーバーだ。そして――。
「よう。随分と遅い帰りだことで」
テーブルを挟んだウェーバーの対面にあるソファに腰掛けて、煙草を吹かしている、ダークブラウンの髪色の壮年の白人――ウィリアム・ホーナーはアルマーの顔を見るなり、飄々とした口調で言った。
「悪かったな、ホーナーのおっさん。ちょいと不測の事態が起こっちまったもんで、撒くのに手間取った」
「不測の事態ィ? そりゃなんだ、穏やかじゃないな」
口先でこそホーナーは驚いたように言うが、その顔色に驚きは無い。ある程度予想は出来ていたのだろう。彼は吸っていた煙草を灰皿の上でトントン、と叩き灰を落とすと、少し短くなったそれを咥えてアルマーに向き直る。
「外の情報収集を兼ねて、俺が連中の気を引きつける。そういう手筈だったろ?」
「ああ、確かに俺はそう言ったねぇ。で? それが一体どう転んだら、朝帰りなんぞになるのか」
「朝っつーか、もう昼過ぎだけどな――兎に角、だ。案の定尾行が二人くっ付いてきたから、ソイツらは始末した。目立つ白人だったから、分かりやすかったぜ。
……そこまでは順調だった。その後で車を取りにUDXの駐車場に戻ってる最中、もう二人が付いてきたんだ。あんな往来じゃ目立ちすぎるし、一体どこに連れ込んで始末するか、なんて考えてた矢先さ。更にもう一名様が追加ときた」
「もう一人、ねぇ」
「ああ。それも日本人だ。この国の言葉を喋ってたから間違いねえ」
「……何? 日本人だって?」
アルマーの一言を聞いた途端、呑気を貫いていたホーナーの顔色が少し曇る。彼の問いにアルマーは「ああ」と頷いた。
「ソイツぁ、ホントに穏やかじゃねえな。相手はアルスメニアの連中だけだった筈だろうに」
「俺もおかしいと思ったさ。しっかし残念ながら事実だ」
「で? それでお前さんはどう逃げ切ったんだ」
「とりあえずぶっ放してパニック起こして、駐車場まで逃げてからドンパチ。途中の警備員にゃ悪いことをしちまったが、生憎こっちも必死だったもんで。
多分だが、アルスメニアの二人は始末した。だけどよ――」
「肝心の日本人は始末し損ねた、と」
「そういうこった。逆にこっちが殺られかけちまった。あと数センチ狙いがズレてたら、ブチ抜かれてたのはウィンドウじゃなくて、俺の頭だったかもな――。
そのせいでスカイラインはお釈迦。仕方ないんで逃走プランBを使わせて貰った」
身振り手振りを交えながらのアルマーの言葉に、ホーナーは辟易したように溜息を吐いて、言った。
「オイオイ、マジかよ……。あーあ、車揃えんのにも苦労したんだぜ」
「そう言うなって、おっさん」
「まあいいか。今後は行動を控えてくれよスティーブ」
「おっさん、マジで言ってんのか?」
「残念ながら、な。状況が変わったんでよ」
「状況?」
頭の上に疑問符を浮かべるアルマーの問いにホーナーは軽く頷いてから、
「向こうも俺達も、連中が内々にコトを済ませてくるかと踏んでたが……外部を雇い入れたとなりゃ、また話は変わってくる。一度、先方と打ち合わせをせにゃならなくなっちまった」
「先方……って」
胸ポケットから取り出した新たな一本を咥え、その先端にジッポー・オイルライターで火を灯す。真新しい紫煙を燻らせて暫くしてから、ホーナーは漸くアルマーの問いに答えた。
「ああ。俺達のクライアント様だ」
必死の抵抗を試みたものの、襲い来る眠気に抗うことは出来ず、戒斗は結局、麻耶の運転するR34の後部座席で眠りこけてしまっていた。
かといって睡眠時間はそう長い訳でもなく、たかだか三十分かそこらで叩き起こされることになってしまう。一時間にも満たないあまりに中途半端な眠りのせいで、却って戒斗は身体の怠さを増していた。
限界まで前に引いた助手席バケット・シートの間に身体を滑り込ませ、乗る前より重く感じる身体で、戒斗は漸うとGT-Rの車外へと降り立つ。
そこは駐車場だった。地下駐車場。恐らくは香華の宿泊するというホテルのだ。周囲を見渡せば、ランボルギーニ・アヴェンタドールやフェラーリ初のハイブリッド車であるラ・フェラーリ、同じくハイブリッドのBMW・i8や、香華の所有するモノと色違いな赤のフェラーリ・F12ベルリネッタ。マクラーレン・P1に、メルセデス・ベンツの最新SクラスセダンのW222など、そこかしこに高級車という高級車が駐車されている。まるで欧州スーパーカーの見本市のような様相だった。
そんな中で、戒斗ら三人の乗ってきたGT-Rと、そしてその隣に停められているJZA70型スープラ――恐らくは遥がそのまま乗ってきた機体――が、なんだか妙に見劣りしてしまう。スペック的に考えればスープラはまだしも、BNR34に関してはここの連中とタイマンを張れる程度には優れているのだが、やはり欧州車というモノは風格から違う。性能面では決して負けていないとしても、何故だか妙な差を感じてしまうことは少なからずある。
「さてお嬢様、参りましょうか。戦部様も」
だが、GT-Rのオーナーである真耶と、それに同乗してきた香華はなんら気にしていない様子だった。普段からベルリネッタなんて暴れ馬を乗り回している香華にしてみればある意味で当然の光景なのではあるが。
先を歩く香華と、一歩控えた位置の麻耶に続いて戒斗も歩いていく。すぐにエレベータまでは辿り着き、そこから一階のロビーへと向かう。客室までのエレベータとは別であり、どうしても一度乗り換える必要があるそうだ。何とも面倒なことだ、と戒斗は思う。
案の定というべきか、やはりロビーの雰囲気は最高級ホテルそのものだった。吹き抜けの天井にある天窓からは柔らかな陽光が差し込み、上質な仕立ての調度品類や、微かに聞こえる場内音楽のクラシック・ミュージックも相まって、まるで異国のようにも感じさせる。ホテルマン達も優秀で、何気ない一挙一動から、見ていて気持ちいいまでに全てが洗練されていた。
フロントの前を通り過ぎて、客室行きのエレベータへと三人は乗り込む。向かう先は勿論最上階。『フロアごと貸し切ってる』なんて言葉が香華の口からポロリと漏れて、戒斗は一瞬幻聴かとも思ったが、後に続く言葉を聞いて納得した。
「そもそもが、このホテル自体が西園寺の関係なのよ。それに、元々最上階は半分ペントハウス的なスイートだし」
なんでも、最上階フロア自体に客室が四つほどしか無いそうだ。一つは香華の、もう一つは麻耶のようなお付きの連中に割り当てるが故、どうせならフロアごと貸し切った方が早いという結論に至ったらしい。なんとも理解し難いことではあるが、深くは気にしないでおく。
エレベータを降りて、二人に導かれるまま戒斗は客室の扉を潜る。
「――戒斗ぉ!」
扉の向こうに足を踏み入れるなりそんな声が聞こえたかと思えば、胸のあたりに何かが飛び込んで来た。睡眠不足でかなりグロッキーな状態の身体がその衝撃を受け止めきるのは至難の業であり、なんとか踏み止まることに全力を注いでいたが故、飛び込んで来た何者かの正体が遥だと気付くのに、戒斗は数秒の時間を要してしまう。
「あ、ああ……遥か」
ここに来ていることは聞き及んでいたが故に驚きはしなかったが、まさか飛びつかれるとは思わなかった。
「大丈夫なの!? 身体は!? 無事、無事なの!?」
「はいはいはい、ちょっと落ち着けって……。見たまんまさ。おかげさまで俺ぁ五体満足さね」
「ほんとに!?」
「だから、見れば分かるだろって」
普段ではあんまり見られないような遥の狼狽っぷりに戒斗が苦笑いを浮かべていると、
「――おうおう、見せつけてくれるねぇ」
なんて第三者の、聞き慣れた男の声が耳に入ってきた。
「一輝か」
戒斗の視線の先。壁にもたれ掛かって自分らを眺めている男――香華のもう一人の近衛、佐藤 一輝は自身の名を呼ばれると、ニカっと白い歯を見せて笑みを零す。
「久しぶりだな、傭兵。直接会うのは、夏以来か?」
「多分な。琴音の件じゃ、随分世話をかけたな」
「ま、そう気にしなさんな。お前さんも災難だったようで――っと、だが約束は、ちゃーんと覚えてるぜ?」
「約束?」
「俺に一杯奢るっつったろ。お嬢様からちゃーんと伺ってるぜ」
この男と顔を合わせるのは、本当に久しぶりな気がする。相変わらず、気持ちの良い性格の男だ。
「この一仕事が落ち着いたら、な」
「にしても、ねぇ……」
佐藤はこちらを見ながら、何やら思わせぶりな言葉を言いつつニヤニヤと厭らしい笑いを浮かべている。「どういう意味だ?」と問うてみれば、
「いやー。俺はなぁ傭兵よ。お前さんのことだからてっきり、琴音ちゃんの方とくっ付くもんだとばっかり思ってんだが。いやはやまさか、そっちとはねぇ……」
「お前まで言うか」
「まま、良いことじゃないの。俺ぁ人の趣味に口出しする程、捻くれちゃいないんでね」
「おい、どういう意味だ、おい」
「別にぃ? 他意は無いって他意は」
「嘘つけぜってぇ他意しか無ぇだろぉがぁ!!」
なんて阿呆なやり取りを佐藤と交わしていると、いつの間にか部屋に入ってきていた香華がすぐ隣に立ち、未だ胸に抱き付いたままの遥と、そして戒斗に視線を行ったり来たりさせている。
「あっ……あー、そのだな香華、これは山よりも深い事情がありましてね」
しまった……! そういえば香華にはまだ、遥との関係を言ってなかったんだった……ッ!
これをなんて説明したものかと、しどろもどろする戒斗ではあったが、当の香華は特に気にする素振りも見せず。はぁ、と軽く溜息を吐くと、
「いいわよ、別に。元から分かってたし」
なんて、あまりに簡単に告げた。
「……はい?」
その言葉があまりに予想外すぎて、戒斗は思わず訊き返してしまう。
「だから、最初っから分かってたっての。大体、この間アンタが保健室で伏せってた時だって、遥ちゃん隠してたのバレッバレだったわよ?」
「マジでか」
チラッと胸元の方へ視線を向けてみれば、自分の胸に顔を伏せた遥が頬を朱色に染めているのが一発で分かる。そんな遥もチラリと上目気味に自分の顔を見てきたもんで、寝不足にはかなりパンチのキツい一撃になった。
「ま、琴音は気付いてないみたいだったけど。多分、クラスの何人かはもう察してるわよ」
「マジでか……」
「あんだけベッタベタしといて、気付かない方がおかしいっての。アンタの近くに常にいる琴音が何で未だに気付いてないのか、私には理解に苦しむわね」
「――私でも初見で分かっちゃいましたからねー」
香華との会話に割って入ってきたもう一人の声の主は、佐藤の近くにいつの間にか立っていた。
「お、久しぶりじゃないのキエラちゃん」
「直接会うのは初めてかしら? 会えて光栄だわ。”黒の執行者”さん?」
そう言って握手を求めて来たのは、ツーサイドアップの銀髪を揺らす小柄な少女……という年齢ではないのだろうが、随分と若く見える褐色肌の女だった。
恐らくはアフリカ系の血が故であろう浅黒い肌と銀色の髪、そして赤いフレームの眼鏡が彩るコントラストが目を引くその女の名はキエラ・バルディラ。西園寺が手を伸ばす事業の一つ、民間軍事警備企業――PMSCsに属する管制官だ。エミリアの一件で決着を付ける際、瑠梨のサブ・オペレータとして彼女には協力して貰ったこともあり、回線越しに一度顔を合わせている。だが彼女の言った通り、こうして直接顔を合わせたのはこれが初めてだった。
「こちらこそ、お会いできて光栄だ。モニタ越しよりも一段可愛く見えて嬉しいね」
片手で握手に応じながら、言う。
「あら? 嬉しいこと言ってくれるのね。ありがとっ」
「にしても、キエラちゃんまで居るってのは意外だったな」
そんな戒斗の言葉に、キエラは銀色のツーサイドアップを揺らしながら「ちょっとゴタゴタがあったもんでねー」と告げる。
「ゴタゴタ?」
「ちょっと、ね。私としても勘弁して欲しかったんだけど」
彼の疑問に、そう口火を切って答えるのは香華だった。
「アンタが関わってる案件にも、多少は関係あることなんだけどね。私はお父様の代役として、来日してたアルスメニアのお姫様――サリア・ディヴァイン・アルスメニア第一王女殿下と会合の約束があったの。その護衛役とか諸々の為に、佐藤やキエラを呼んでたんだけどね……。
でも、何日か前に突然キャンセルになったわけ。お陰でこっちはスケジュールの再調整やら色々影響出まくりよ。てっきり体調でも崩したのかと思ってたけど……さっきの戒斗の話を聞いていれば、納得だわ」
「どういうことなんだ傭兵。差し触りなければ説明してくれ――構いませんね? お嬢様」
事態が飲み込めていない佐藤の提案に、香華は黙って頷いた。その反応を了承と受け取り、戒斗はこちら側の事情を知らない佐藤、キエラ両名に、一週間と少し前にモーリヒ・シュテルンという男から請けた依頼に端を発する事を洗いざらい話してやる。
「――なるほど。大体把握できた」
「理解が早くて助かるぜ、一輝」
「つまり、此度のお嬢様との謁見が土壇場で中止された原因は、王女殿下御自身の身にあると。そう仰りたいので?」
「その通りよ、佐藤。辻褄は合うでしょう?」
肯定する香華に、佐藤は言葉を続けていく。
「確かに、通常の公務ならまだしも、一対一の謁見ともなれば影武者には荷が重い……故に、発覚を避ける為の中止か」
「大体、そんなところでしょうね――さて、立ち話もなんだし。続きは部屋でゆっくり話しましょう?」
そう言って、香華はスイートルームの奥へと足を進めて行った。戒斗達もそれに続いて部屋へと入っていく。




