No One Sleeps in Tokyo.
その後駆け付けた数十台のパトカーに無事詰め込まれ、連れ込まれたのは秋葉原駅すぐ近くの万世橋警察署。そこから戒斗が無事に解放された頃には、既に太陽が真上に来ているような時間になってしまっていた。
「あー……眠い」
夜通しの事情聴取やその他諸々に付き合わされ、ロクに睡眠も取れてはいない。今にも倒れそうな身体を必死に立たせて、まるでタングステン・カーバイドの塊でも括り付けたかのように重い瞼を気合いだけで開かせて戒斗は歩く。
「ンだよあのヤロー……人を凶悪犯みてぇに言いやがってよぉ。凶悪犯扱いはもう勘弁だっつーの」
ブツブツと恨み言を呟きながら、よろよろと半分千鳥足な足取りで歩いていると、暫くもしない内に誰かに激突してしまう。
「ん、あー……こりゃ申し訳な……い……」
詫びを入れて身体を起こそうとするが、眠気に支配された身体が思うように動いてくれない。相手に悪いと思って動こうとしても、中々どうして脚に力が入りにくい。額とかその辺りに妙に柔らかい感触を感じる辺り、相手は女性なのだろうから、これ以上長いことこの体勢を維持してしまうと、下手をすれば警察署に逆戻りしかねない事案が発生してしまう。
「――ったく、どうしちゃったのよ。アンタらしくもない」
しかし、頭上から降って来た声が妙に聞き慣れていたが故、彼はそれが杞憂だと漸く理解出来た。
「ああ……香華か」
「あらあらまあまあ。そんなんじゃ”黒の執行者”の名が泣くわよ?」
よっこいしょ、と彼の肩を掴んで強引に立たせた彼女の名は西園寺 香華。とある依頼を通じて戒斗と知り合い、紆余曲折あって相互に深い関係を持っている、日本有数の企業連である西園寺グループを束ねる西園寺家、その一人娘だ。何をトチ狂ったのか、今ではわざわざ彼と同じ神代学園に籍を入れている。
「悪いな……」
「なんて締まりのない顔してんの。ホントにあの戒斗なわけ?」
眠気のせいで死に体な彼の顔を眺めてそう言う彼女は、戒斗の片腕を引っ掴むと半ば無理矢理に引っ張って歩き出す。香華の背丈が戒斗より少し低い程度なのもあって、風に吹かれた金色の髪が時折戒斗の鼻先を掠め、確実に上品と分かる優美な香りで鼻腔をくすぐっていく。
「待たせたわね、麻耶」
「……いえ、そのような」
「戒斗も一緒に頼める?」
「後ろで宜しければ。生憎手狭ですが」
「構いやしないわよ。どうせこんなザマだしね」
道路際で香華と言葉を交わす、桃色ショートカットの女が香華の侍女だということに気付くのに、戒斗は十秒近くの時間を要してしまった。
――南部 麻耶。
西園寺家のメイド長を預かる者にして、香華の身を護る近衛の任を預かる侍女だ。視線をくべらせてみれば、メイド長の名に恥じないメイド服を今日も身に纏っている。この間会った時とは異なり、少し軽装風の仕立てなメイド服ではあったが、しかし異様な格好であることは間違いない。まるで古き良きオールド・アメリカンの時代劇にでも出てきそうな感じだ。ここが秋葉原なんて特殊すぎる街でもなけりゃ、どう見たって不自然に見える。
その上、麻耶の控える傍に停められた車がまた、妙に彼女と不釣合いだった。
ハザード・ランプを明滅させて鎮座する、ベイサイド・ブルーの鮮やかなボディカラーが目を引く大柄なマシーンの名は日産・スカイラインGT-R。中でもBNR34型、通称R34とも呼ばれる、スカイライン・ブランド最後のGT-Rだ。サイド・ウィンドウからチラリと垣間見えたステアリングから察するに、恐らくは質感重視のMスペックだろう。
アルミ製ボンネットの下に抱えるのは、先々代のBNR32から受け継ぐRB26DETT。グループAの覇権を目論み、GT-R専用として設計・開発の成された2.6リットル・ツインターボ過給機付きのDOHC・24バルブ搭載エンジンは当時最強の直列六気筒・レシプロエンジンだった。
そんな最高の心臓を持つGT-Rの集大成が、このBNR34だ。日産の造り出した画期的な電子制御・トルクスプリット式四輪駆動システム、アテーサE-TSを搭載するものの、鋳鉄製のシリンダー・ブロックによる重量増加などで超・フロントヘビー特性の欠点を抱えるのはBNR32から変わりない。
だが、それでもR34は独・ニュルブルクリンク・サーキットやGTレース、高速道路やその他の公道ステージに於いても、最強の名を欲しいままにしてきた。現行R35型でこそ『スカイライン』の名は冠していないものの、GT-Rの血統が常に最強であったことに変わりはない。リアサイドに輝く真紅のRバッジは、正に不敗神話のRなのだ。
そんな最強のマシーンの、お世辞にも広いとは言い辛い後部座席に戒斗は放り込まれた。その後で助手席に香華が座り、コクピット・シートにはメイド服姿の麻耶が腰を落とした。どちらもノーマル・シートだ。
ステアリングを握るのが麻耶な辺り、もしかするとRは彼女の私物なのかもしれない。その辺りを、呂律の覚束ない口で問えば、
「ええ、左様にございます」
と、あっさり肯定してみせた。見かけによらず、かなりの暴れん坊を手なずけているようだ。
「あんまり長居する場所でもないでしょ。麻耶、いいから出しちゃって」
「御意に」
サイド・シートに座る主の命に恭しく従い、麻耶はサイドブレーキを降ろす。シフトを一速に入れると、吠えるRB26DETTエンジンのエクゾースト・ノートと共に伝説のマシーン、スカイライン・GT-Rは走り出した。
走り出してから既に十五分ぐらいは経過したが、最初の少しの会話以外に、三人の間で特に言葉が交わされることは無かった。
それも当然で、一人は眠気のせいで死に体。もう一人はそもそも無駄な言葉を発さない侍女が故、この状況下で会話が発生するとすれば、香華から切り出す他に無いのだから。だが当の香華も半分眠りかかっているようで、時折首がこっくり、こっくりと舟を漕いでいる。
それにしても、麻耶のドライビング・テクニックは中々のモノだ。まるでミリ単位で計算しているかのような機敏なアクセル・ワークと、同乗者に一寸の揺れすら感じさせない、優美かつ確実なブレーキング。クラッチ捌きも丁寧で、とてもノーマルで280馬力オーバーのモンスター・マシンに乗ってるとは思わせない運転だった。まるでセンチュリーやSクラスのベンツに乗っているような錯覚すら覚えさせる――まあ、硬いセッティングのサスペンションが機敏に伝える路面コンディションの揺れだけは、ドラテクでは如何ともしがたいのだが。
――――何故、香華がこんな所で戒斗を迎えたのか。そもそも、どういう経緯があって警察は彼を解放したのか。それは夜の明ける大分前にまで遡る。
結局あの直後、両手首に手錠を掛けられて大人しくお縄についた戒斗であったが、少し離れた場所からこちらの様子を窺っていた遥へ、連行される合間にアイ・コンタクトを送っておいた。彼女がそれを理解したのは、小さく頷き返した後に姿をくらましたことから考えても、間違いない。
その後、遥が香華に連絡を取ったのは、当の香華本人から先程聞き及んだ。身も蓋も無いことを言ってしまえば、今回の釈放に関しては『西園寺の力で無理矢理なんとかしてしまった』ということだ。
ちなみに香華の方は、たまたま仕事の都合で東京に来ていたが故、ついでに戒斗を迎えに来たということらしい。
本来ならば、香華はまだ西園寺を任される立場にはない。しかし、状況が変わったのだ――西園寺の現当主、つまりは香華の実父である西園寺 正孝がつい数週間前、病に伏してしまった。事前にマスコミへは統制を敷いたお陰で表沙汰にはなっていないものの、水面下では大荒れとなっている。
頭を失った西園寺には、当主が舞い戻るまで――或いは、後を継ぐ者が必要となった。その時に白羽の矢が立ったのは、他でも無い香華だったらしい。
『――別に、気にしてはいないわ。覚悟はしていたしね。どのみち遅かれ早かれ、こうはなっていたでしょうし。それが、ほんの少し前倒しになっただけのことよ』
そのことを告げてきた時の、彼女の顔が頭に浮かぶ。気丈に振る舞ってはいるが、内心少し切迫しているのが察せてしまい、妙に痛々しい。
だが、彼女がやらねばならない、香華にしか成せぬことでもある。万が一にでも香華が拒んでしまえば、世界恐慌にでもなりかねない――それ程までの影響力を持つ組織なのだ、西園寺の連中は。
そういった仕事の関係で香華はあちこちを飛び回ることが多くなり、最近では学園の方も休みがちだった。実はこれが久々の再会となるのだが、警察署から出てくる奴とお迎えでは、風情もへったくれもあったものではない。
「そういえばさ、戒斗」
そんな風に思案を巡らせていると、ふとした時に香華が話し掛けて来た。
「なんだ?」
「遥には『電話口では話せないこと』って聞いてたけども。そろそろ聞かせてくれないかしら、アンタの事情って奴を?」
……なるほど。電話越しでは盗聴の危険がある。流石は遥らしい、懸命な判断だ。
しかし、ここならば盗聴の危険は少ないだろう。戒斗は眠い頭をなんとか回転させ、モーリヒ・シュテルンから請けた、東欧の小国アルスメニアを揺るがす一大事について話してやる。
「ジョークにしては、ちょっと洒落になってないわね」
少し引き攣った表情で香華は言うが、戒斗は「残念ながら、全部マジだ」と即座に返す。
「……はぁ」
香華は一度大きく溜息を吐くと、
「ねぇ戒斗。アンタってどうしてこう、変に厄介なことに首突っ込むのかしら」
「前にも似たようなことは言われたさ。これで二度目だ」
出発前に昴に言われた言葉を思い出し、思わず苦笑いを浮かべてしまう。
「まあ、いいわ。今更私がどうこう言っても仕方ないことだし」
「そういや、行き先は?」
「とりあえずは、私のホテルね。ああ、心配しなくても遥はもう着いてる頃だわ」
「そりゃ結構」
「といって悪いけど、まだ寝れないわよ? 今の状況を整理しなきゃならないんだから」
「……冗談だろ? もう三十時間は寝た覚えないんだぜ? そりゃ酷ってもんだろ」
「残念でした。私だって、中途半端に首突っ込んだままじゃ気持ち悪いしね。ここまで来たなら、最後まで付き合わせて貰うわよ」
「拒否権は?」
「あるわけないでしょうが」
「だろうな」
これで振り出しには戻ったが――同時に、新たな手札が手元に加わった。
宿泊先とやらに着くまでの間、一眠りさせて貰おうとも思ったが、今寝ると下手をすれば永遠に目覚めない気もした。仕方なしに戒斗は眠気と戦い、残りの旅路を睡魔との激戦に費やすこととする。
眠れぬ夜は、日が昇っても尚、明ける気配は無かった。




