Calling
人気の少なくなった幹線道路を法外な速度でブッ飛ばしたスープラが行き着いた先は、またも秋葉原の街だった。
終電間近の秋葉原駅と、閉店ムードの店々が入るビル群が立ち並ぶ中央通りを駆け抜けて、東京メトロ・末広町駅のある外神田五丁目交差点から蔵前橋通りへと入る。そこから更に奥へ奥へと入り込み、裏路地へと車を走らせていく。
向かう先は、モーリヒ配下の人間が尾行対象――四人の内の一人、日系三世の元海兵であるスティーブ・アルマーを最後に確認した地点だ。
左足でクラッチペダルを蹴り飛ばしながらシフトチェンジし、ツインターボの過給器付き2.5リットル・直列六気筒1JZ-GTEエンジンが唄う歓喜の叫び声を、テールから突き出た極太一本出しチタン・マフラーより豪快なエグゾースト・ノートで叫ばせ、漆黒のマシーンは夜の街を駆け抜けていく。
「この辺りか……?」
減速しつつ、再び灯したハイビーム・ライトの光を頼りにして、戒斗はフロント・ウィンドウ越しに周囲の様子を探る。
裏通りだけあって、スープラの周囲には表通りのように目が痛くなる光源は殆ど無い。在るのは頼りない街灯の淡い光だけだ。
「地図を見る限りでは、おおよそこの辺りのはず」
室内灯で照らした地図帳と睨めっこをする、隣のサイドシートに身を預ける遥は言った。
「後は、自分の足で探せってか」
少し疲れた様な口調でひとりごちながら、路肩に寄せてサイドブレーキを掛けた戒斗はステアリング・コラムのキーを手前に捻ってエンジンを停止させる。ドアを開けて外界へと降りた彼に倣い、閉じた地図帳を狭苦しい後部座席に放り込んだ遥も車から降りた。
「持っててくれ」
戒斗の声に振り向くと、何か光る物がこちらへと飛んでくる。遥が慌てて掴み取ると、手の中にあったのはスープラのキーだった。
「……何のつもりで」
掌に収まる、古典的な物理キーを眺めつつ、怪訝そうに遥は言う。戒斗は内ポケットから取り出した小型のイタリア製自動拳銃、ベレッタ・M1934の遊底を素早く前後させると、
「ここからは、俺と別行動だ」
操作感の悪いセイフティを安全位置に引っ掛けつつ、彼は告げる。
「別行動?」
「お前の存在がクライアントに知られちゃ、色々とマズいからよ」
ジャケットのポケットに突っ込んでいた細身の減音器を、撃鉄の起きたM1934のネジ切り加工済みのマズルへキリキリと捻じ込みながら、戒斗は言う。
――彼の言った通り、遥の存在に関して依頼人、モーリヒ・シュテルンは一切そのことを知らない。あくまでも、依頼人サイドとしては戒斗の単独行動と認識している筈だ。
そもそも、彼女をわざわざこんな遠くまで連れて来たのは、何も道楽だけが目的では無い。彼女の抜きん出た機動力と、それに裏付けされた諜報能力の必要性を感じ、その上で『万が一の』事態に備え切り札とする為だ。
当初は琴音にリサ、その他諸々も一緒に連れて来ることも視野に入れていた……が、それはあまりにリスクの伴う選択と判断し、結果的に遥一人だけとなったのだ。
何故かといえば理由は単純なことで、琴音そのものにある。戒斗自身も巻き込まれて何度も大変な目に逢っているように、折鶴 琴音という少女は、決して普通の少女ではないことは、何度も何度も”方舟”の連中に狙われていることから明白である。
奴らが琴音をそこまでつけ狙う理由は、未だ戒斗らの知るところではないが……何にせよ、そんな厄介な状況で彼女を不慣れな地へと動かすのは、あまりにもリスクが大きすぎるのだ。
しかし、戒斗が東京へ行かない訳にもいかない。ということは、その間に彼の代わりとして彼女を護ってやるのに、リサの存在は必要不可欠だ。
その辺りを鑑みると、この東方の地に連れて行けたのは、結果的に遥だけとなってしまったのである。
尤も、彼女一人とて戦力的には何ら問題は無い。何せ腕っぷしだけでいえば戒斗より上だと、他ならぬ戒斗自身が認めてしまっている。吹けば何処かへ飛んで行ってしまいそうな程に可憐で小柄な外観の彼女だが、内に秘めた能力は計り知れない。流石は忍者、恐るべし……といった所か。
そういった事もあり、此度の案件に関して遥は、戒斗が切れる数少ない隠し札という訳だ。クライアントをまだ完全に信じ切れていない今、そう易々と手札を晒してやるわけにもいかない。
「万が一の時は、ソイツで逃げろ」
ズボンのポケットに突っ込んだスーパー・カランビットの感触を確かめながら言う戒斗の顔付きは、先程までとはガラリと印象が異なっている。気怠げで若干眠そうだった瞳には、鋭い確かな眼光が宿り、心なしか表情も引き締まっているように見えた。
「一体全体、何のはな――」
「万が一は万が一、プランBって奴だ。お前は後から付いて来てくれ」
言いかけた遥の言葉を遮って告げると、減音器で銃身が少し長くなったM1934を握り締めた戒斗は駆け出した。
「……ま、たまにはこういう役回りも悪くないかな」
独り呟いて、彼の背中が闇の中へと掻き消えない内に遥もまた、ある程度の距離を取りながらも戒斗の後を追う。
二人の後ろ姿を見送る者は唯の一人だけ。ボンネットとタイヤに仄かな熱気を宿したマシーンが新たな主の背中を、無言のままに見送る。マシーンは言葉を持たぬが、元より彼らとの間に言葉などは必要ないのだ。
車内から持ち出したシュアファイア製のフラッシュ・ライトを左手に握り締め、照射される強烈な光で行く先を照らしながらも、同時に右手の中ではM1934を構えつつ戒斗は、油断なく周囲の様子を探りながら路地を進んでいく。遥の気配は既に感じなくなったが、彼女のことだ。余程のことが無い限り、そう心配は要らないだろう。
車を降りてから、既に200m程は歩いた気がする。モーリヒからは曖昧な――大体この辺りの何処かなんて程度の――情報しか与えられていないが為に、第六感に任せて適当に探さざるを得ない。半ば行き当たりばったりに等しかった。
一応、それらしき人影を発見したら連絡を寄越すようにと、遥に伝えてはあるが……。
なんてことを考えていた矢先、何かが転がるような音が彼の耳に届いた。一瞬の内に背筋を電撃のように駆け巡った緊張で身体が強張り、戒斗はその場に立ち尽くす。
条件反射的に動いた親指は、M1934のフレーム左側面の前方にあるセイフティへと伸び、柔軟に動く指がセイフティを器用に百八十度前方へと回転させて解除する。暴発防止の為に伸ばした人差し指が、ゆっくりと用心鉄の方へと動くのが分かった。
今聞こえた物音――恐らくは、空き瓶の類がアスファルトの上を転がったのだろう。だが、決して鼠程度の小動物が引っかかったような音では無い。こんな都会のド真ん中で野兎なんかとは考えにくいから、可能性としては野良犬か野良猫、或いは……人間か。
時間が時間だ。酔っ払いがその辺の裏路地で吐き戻した拍子に、たまたま転がっていた瓶を爪先で弾き飛ばした可能性も十二分に有り得る。いや、寧ろその可能性の方が高いだろう。
だからといって、今が決して油断の出来る状況では無いのもまた、事実だ。
戒斗はフラッシュ・ライトの電源を消して、M1934の銃把を深く握り直すと、音のした方へと慎重に歩いていく。足音を極力立てないように気を付けながら歩を進めつつ、消えたフラッシュ・ライトをポケットに投げ込む。フリーになった左手をズボンの方へと這わせ、スーパー・カランビットのグリップを手繰り寄せた。
音が聞こえたのは、狭い路地の向こう側。もし物音を立てた人間が戒斗の追うスティーブ・アルマー本人だとして、片手に自動拳銃を持った今のナリならば交戦はほぼ確実だろう。
その点に関しては、元より奴の捕縛が前提故に然したる問題では無い。しかし想定される交戦距離は僅か数m。超至近距離でのCQCだ。そうであれば、用心に越したことは無い。
シュアファイア社からは近接格闘戦を想定した、打撃用に先端部を凹凸加工したストライク・ベゼルが取り付けられているタイプのフラッシュ・ライト製品が数多く販売されている。だが生憎、戒斗の物はそういった便利なベゼルの付いていない、ごく普通のライトだ。
故に、彼は目眩ましと光源を兼ねたフラッシュ・ライトというアドバンテージを棄て、代わりにカランビット・ナイフを選択したのだ。
カランビット・ナイフは元々フィリピンなどの東南アジアで盛んな武術『シラット』を起源とした特殊形状のナイフであり、グリップ・エンドに指通しのリングが有る物を一般的に指す。元来が鎌状の武具であり、その上で湾曲形状が力学的観点から見ても攻撃能力が高いが故に、現代のカランビット・ナイフ製品にも湾曲した刃を持つ物が多い。戒斗の米国エマーソン社製スーパー・カランビットも、その内の一つだ。だが一応、リングさえグリップ・エンドに付いていれば、一般的なナイフのように直線状の刃だとしても、一応はカランビットとして分類される場合が多い。
グリップに指を通すという性格上、カランビット・ナイフは戦闘時に誤って取り落すリスクが非常に少ないという絶対的なアドバンテージがある。更にはリングを応用し、さも西部劇でシングル・アクション・アーミーを振り回すガンマンのようにしてナイフを臨機応変に回転させ、変幻自在の斬撃を繰り出すことも可能なのだ。
その上、スーパー・カランビットのように湾曲ブレードの物であれば相手の関節部などに引っ掛けやすく、軽く斬っただけで想像以上の深手を負わせることも不可能では無い。タントー形状の刃先や、両刃のダガー・ナイフと同じく、敵を斬り裂く戦闘用途へ極限まで特化した刃物。それがカランビット・ナイフと呼ばれる武具だ。
スーパー・カランビットは携行に優れる折り畳み式だ。戒斗はグリップの中に刃を収めたままのスーパー・カランビットを手の中で一度回転させ、M1934の銃把を握る右手の近くまで持っていくと、拳銃を構えたままの中指と親指でブレードを器用に摘まんで引き出す。ブレードの背に大きな展開用の引っ掛けがある故に、片手での素早い展開が容易な構造ではあるが、敢えてそうはしなかった。相手に悟られるリスクを減らすべく、物音を極 力立てないようにする為だ。
カチン、と小さな金属音と共に、グリップ内部に仕込まれた板バネ状のライナー機構がブレードをロックして、展開が完了した。
猛禽類が得物を掴む鋭い爪を連想させる凶悪な刃を晒したスーパー・カランビットを左手の中で素早く数回転させ、いい具合にグリップを持ち直すと、拳銃とナイフを同時に構えながらゆっくりと進んでいく。
彼の瞳は、既に暗闇の環境に慣れ切っていた。今日は雲が少なく、満月が顔を覗かせていることもあり、ぼんやりとだが道の輪郭は掴める。その中を足元に注意しつつ、一歩ずつ、確実に歩を進めていく。
物音が聞こえた辺りは、もうすぐそこだ。そんな所まで来たタイミングで、嗚咽のようなくぐもった声が戒斗の耳朶を叩く。間違いなく、生きた人間が近くに居る。
銃とナイフを構える両の腕に、自然と力が籠もっていく。
今居る路地は雑居ビル同士の間、狭い一直線だ。この先に誰かが居るのは明らか……。暗闇の中で戒斗は目を凝らし、月明かりだけを頼りに何者かの輪郭を掴もうとする。
「――誰だぁ?」
酒か煙草かで喉の焼けたような、少し老いた男の声が路地に響くのと、戒斗の爪先に空き瓶が触れたのは、殆ど同じタイミングだった。
「……ッ!!」
存在が気取られた以上、後は速さだけが勝負の鍵だ――!!
爪先に触れた瓶を蹴っ飛ばし、戒斗は腰を落とすと一気に踏み出し、相手との間合いを大きく詰める。
蹴られた瓶が何処かの壁にブチ当たり、甲高い破砕の音を夜の裏通りに響かせるのは、数秒と経たなかった。
背中を地面に叩き付けられ、肺から漏れ出る空気に喘ぐ男のすぐ眼前に立ち、戒斗は撃鉄の起きた銃口をその眉間へと合わせる。男には何が起きたかすら理解が出来なかっただろう。隙だらけなその身体は一瞬の内に地面へと張り倒されたのだから。
カランビットを一度ポケットへと戻し、再度取り出したフラッシュ・ライトで男の顔を照らす。銃口の狙いは逸らさない。
「うわっ」
だが、戒斗の緊張と行動は全て無駄に終わった。単なる杞憂だったのだ。
屋内でのCQB戦闘において目眩ましとしても用いられるシュアファイアのフラッシュ・ライト。その強烈な光に照らされた男の顔は、想像していたよりも遙かに間の抜けた面構えだったのだ。
頭頂部を中心に大多数の髪が抜け落ちた禿げ頭の男は見るからに五十代そこそこで、身なりも皺の酔った背広に、大して磨かれていないよれた革靴。聞いたことの無いようなメーカーの安腕時計を腕に巻いたその男は、どう見ても堅気の人間だった。
何よりも、顔付きが完全にへたり切っている。とても人を殴れるような顔には見えなかった。
「な、な、な……なんだ、なんだお前!? 金なら無いぞ!」
上擦った声で、なんとかギリギリのラインで保つ虚勢を張って男は叫ぶ。
――人違いだ。間違いなく、コイツは無関係の人間だろう。
「……悪かったな。どうやら人違いみてーだ」
銃口を逸らし、セイフティを掛けながら戒斗は告げると、男は心底ホッとしたように息を深々と吐き出す。だが突然のことに腰を抜かしてしまったようで、起き上がる気配は無かった。
踵を返し、未だに寝転がったままの男に背を向けて戒斗は歩き出す。完全な被害者である男と戒斗の、同時に吐き出した深い溜息が重なる。背中の向こうで「勘弁してくれよ……」なんて声が聞こえた気がした。
「俺としたことが、とんだドジを踏んじまった」
完全に人違いで無関係の人間を張り倒した路地裏から元の道に戻り、少し歩いた所で見つけた自動販売機の前で戒斗は立ち止まると、ひとりごちながら百円硬貨を突っ込んでいく。
この夜更けになっても、自動販売機は稼働していた。当たり前といえば当たり前の話ではあるのだが、これだけ薄暗い所を延々、それも極度の緊張状態で歩いていると、妙に気が滅入ってくる。
そんな中で、自販機の放つ強烈な灯かりと機械音は、ある意味で砂漠のオアシスにも似た強烈な安息をもたらす。
ボタンを押すと、受け取り口へと缶珈琲が滑り落ちる。取り出した缶の熱過ぎる程の温かみにホッとしつつ、プルタブを開けた。
口を付け、黒い微糖の液体をちびちびと喉へ流し込んでいく。少し肌寒くなってきた秋の夜に、熱い缶珈琲は妙に身体へと染み渡っていく。
半分ほど飲み終えた頃、ポケットの中で携帯のバイブレーションがブルブルと震え出した。私物のスマートフォンの方だ。
缶をM1934を持つ右手へと持ち替え、スマートフォンを取り出し液晶画面に視線を巡らせる。着信の相手は遥だ。
「俺だ」
映し出された応答ボタンをスライドし、スマートフォンを左耳に当てる。高感度スピーカーから聞こえるのは、当たり前だが遥の声だった。
何か見つけたのか、と戒斗が問うと、彼女は言うのを躊躇うかのように少しの間を置いて、それから告げる。
『……例の尾行を見つけた。とにかく、一度こっちへ来て』




