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黒の執行者-Black Executer-(旧版)  作者: 黒陽 光
第四章:Operation;Snow Blade
23/110

新たな出会い、束の間の平穏

「暑っちぃ……」

 天から容赦なく降り注ぐ真夏の太陽を浴びながら、戒斗は一人、街中を歩いていた。ただでさえキツい日差しに加えて、コンクリートからの照り返しが更に暑さを増幅させる。この地域特有の湿気のせいで蒸し暑い。身体中から不快な汗が流れ落ちていく。夏用の薄い上着の下に隠したミネベア・シグと、キャリコM950A機関拳銃マシン・ピストルが、妙に重苦しく感じた。

 見慣れた小都市の街並みを眺めながら暫く歩いていると、私鉄の踏切が見えてきた。黒と黄色に塗られた遮断機が道路のど真ん中にそびえ立ち、間を鉄のレールが引かれているこの光景は、地方特有のモノだ。少し都会に行けば、踏切なんて前時代的な物体は滅多に見られないであろう。

 その踏切の横にある、少し大きめの建物。私鉄の駅へと戒斗は足を踏み入れる。ジーンズの後ろポケットに突っ込んでおいたパス入れを取り出して改札にかざすと、扉が開いた。最近は便利なモノで、イチイチ切符を自動改札に差し込まなくても、電子マネーで支払いが可能なのだ。良い時代になったもんだ。と戒斗はその光景を見て思わず呟いてしまう。

 日蔭になっているホームのベンチに腰掛けて、戒斗はスマートフォンを取り出す。GPS連動の地図アプリを開き、今から向かう目的地の住所を入力。詳細なルートと、所要時間を表示させる。場所は、戒斗の住む市の隣に位置する、県庁所在地の大都市。その中心部にほど近い場所だった。所要時間は電車を使って約一時間。いつもの愛車で行っても良かったのだが、生憎都市中心部の方は駐車場が少なく、停めるだけでも一苦労してしまう。軽い用事程度なら、電車を利用した方がよっぽど効率的なのだ。

 それから何をするわけでもなく、ベンチに座ったままスマートフォンでウェブサイトを閲覧していると、視界の端に巨大な鉄の塊が飛び込んでくるのが見えた。銀色に塗装された、私鉄列車が到着していたのだった。戒斗は立ち上がりながらスマートフォンをポケットに戻し、自動で開いたドアから車内へと入る。過剰なまでに冷房の効いた車内は、正にオアシス。文明の利器に心底感謝しつつ、戒斗は手近な座席へと腰掛けた。

 ドアが自動で閉まり、横方向へと引っ張られる感覚。六両編成の列車が前進を始める。幸運にも急行に乗れたようだ。予定より早く着くかもしれないな。





 私鉄を降りてから地下鉄を乗り継ぎ、着いた先は、大きな大学病院だった。そびえ立つその建物は、病院というよりも何かの研究施設にも見える。まあ”大学”病院なんだから当たり前か。きっと屋上にはヘリポートもあるのだろう。

 自動ドアを潜ると、薬臭さのような、病院独特の臭いが戒斗の鼻腔を刺激する。平日の昼前という時間だからか、病院内は人も少なく、閑散とし始めてきていた。

「あー、最上先生ってのはどちらに?」

 受付カウンターまで向かい、そこに居たナースに声をかける戒斗。

「最上先生、ですか? 確か今の時間なら、この近くに……あ、居ました居ました。昴先生ー! お客様がお呼びですよー!」

 周囲を見渡していた受付のナースが、誰かを手招きしながら言う。振り向いた戒斗の視界に映ったのは、戒斗と同じぐらいの背丈の、白衣を着た女医が歩いて来る姿だった。遠目にも分かるほど、その身体はやせ細っており、明らかに不健康そうだった。栄養失調なんじゃないか? と戒斗は声に出しそうになるが、なんとか押し留める。

「おや、見かけない顔だね……君かい? 私に用がある、というのは」

 近くまで歩み寄ってきた女医が、戒斗の全身を舐め回すように見ている。黒縁のスマートな眼鏡の奥から覗く瞳に、生気は無い。腰辺りまで届く、ウェーブのかかった黒く、長い髪が揺れている。

「アンタが、最上もがみ) すばる)か?」

「ああ、いかにも。君の探し求める人間か、は知らんがね」

 戒斗の問いに、ニヒルな笑いを浮かべて答えてみせる女医――最上 昴。

「悪いがアンタに直接、聞きたいことがあってな――今時間あるか? 話がある。とても、重要な」

「ああ、私は見ての通り”変人”だからね……暇はいつでも、持て余しているよ。その顔を見る限り、結構重い話なんだろう。ついておいで。私の研究室へ案内しよう」

 白衣を翻し、歩き出す昴。戒斗は応対してくれた受付のナースに軽く会釈してから、彼女の後を追う。

 広い大学病院の、一階の端の端。人があまり寄り付かなさそうな場所に、彼女の研究室はあった。

「さあ、入りたまえ」

 促されるままに、横開きの重い鉄製の扉を開けて中へと入る戒斗。扉を閉じて振り返ると、昴は既にデスクの前へと座っていた。デスクの上にはパソコンは勿論のこと、各種モニタや専用機械、何に使うか分からないようなモノが大量に転がっていた。横には小さな一人用のベッドまで置いてあり、さながら診察室のようだった。

「さて、まずは私から質問させてもらってもいいかな」

 昴は言うと、デスクの引き出しを無造作に開けて、そこから何かを取り出す。

「――君は、何者だい?」

 彼女は、デスクから出したモノ――シグ・ザウエルP230小型自動拳銃を戒斗へと突きつける。

「見たところ、かなりの手練れのようだね……誰の差し金かは知らないが、遂に私を殺しに来たのかい?」

「残念だが、見当違いだ。アンタに聞きたいことがあって来た」

「私に?」

 言う昴だが、銃口を逸らそうとはしない。真っ直ぐに戒斗を捉えていた。

「ああそうだ。なんなら武装解除でもしてやろうか?」

 言いながら戒斗は、ショルダーホルスターに突っ込んであるミネベア・シグと、背中の特製SOB(Small of Back)ホルスターに入れてあったキャリコM950A機関拳銃マシン・ピストルをベッドの上へと放り投げてみせる。

「どうやら、本気のようだね。悪いが、私も色々事情があるもんでね。コイツは構えたままにさせてもらうよ。それで、聞きたいこと、というのは、なんだい?」

 静かに、そう言う昴。その枯れ果てた双眸をしっかりと見据え、戒斗は口を開く。

「――”機械化兵士計画マンマシン・ソルジャーズ・プロジェクト”」

「――ッ」

 昴の表情が若干ながら強張る。ビンゴだ。この女医は、あの悪魔の計画に関わっている。

「何、俺も実在してたとは思っていませんでしたよ。つい先日まではね」

 戒斗は、自分が敵から手渡されたUSBメモリに計画の資料が添付されていたことと、知り合い――香華の力を借りて、最上医師の身元を割り出したことを彼女に話した。それを聞いた昴は、顔を強張らせたまま、言う。

「大した調査能力だ。だが、あの計画について私から言うことは、何もない」

「アンタは、あの計画に関わっていた」

「何も、ない……」

「アンタの造り出した十三人の機械化兵士は、一体――」

「何もないと言っているだろう!」

 今までの言動からは想像もつかないような怒鳴り声を上げる昴。

「……すまない。だが、私から語れることは、何もない。悪いが、お引き取り願おうか」

「嫌だ、と言ったら?」

 挑発の意味も込めて呟く戒斗。

「脳漿撒き散らして、私の実験材料がいいところか」

 戒斗はフッ、と笑って、ベッドの上に投げた装備をホルスターに戻し、昴に背を向けて扉へと歩いていく。

「そうか。それじゃあ今日のところはこの辺で」

 言って戒斗は、重い鉄製のドアを再度開けて、廊下へと出る。

「何度来ようが、伝えられることは何もない。あの計画は、もう終わったんだ」

 背後で、戒斗に向かって言い放つ昴。

「……そうか」

 戒斗はそれだけ言って、扉を後ろ手に閉めた。





 大学病院を後にして、炎天下の中、地下鉄の駅を目指して街を歩く戒斗。流石に中心部にほど近い場所だけあって、戒斗の住む小都市とはかなり違った街並みが広がっている。巨大な摩天楼が天高くそびえ立ち、蒼い真夏の空を四角く切り取っている。丁度この辺りは商業地区なのか、所狭しと並ぶ店から喧騒と、店内に流れる賑やかな音楽が効きすぎたエアコンの冷気と共に道に漏れ出していた。

 病院を出て五分ほど歩き、やっと地下鉄駅の入口が見えてきた。歩道から地下へと延びるその階段は、広大な地底世界への入口のようにも見えてしまう。迷わずその階段を降りようとした戒斗だったが、一歩階段へと踏み出したところでふと耳に入ってきた、怒鳴り声のようなモノがなぜだか気になって立ち止まる。駅入り口の低い壁越しにそちらへと視線を向けると、何やら小さな人だかりが出来ていた。その中心から、男の怒鳴り声が、今度ははっきりと戒斗の耳に届く。階段を再度昇って、人だかりの中を割って入っていく。目に入ったのは、見慣れない制服を着た男女二名が、不良らしき三人の男に囲まれている光景だった。

「オイゴルァ!」

 不良の内一人、短ラン赤シャツにリーゼントという、今時珍しいスタイルの奴が男子生徒の胸倉を掴みあげて叫ぶ。当の男子生徒本人はというと、面倒というか、困ったような表情を浮かべている。没個性的な外見だが、どうしてか、その顔が戒斗の脳裏に焼き付いて離れない。

「ちょ、ちょっとアンタねえ……!」

 黒髪で短めのツインテールが目を引く、背の低い女子生徒が言いながら男子生徒をリーゼントの奴から引き剥がそうとする。その胸は遠目からも分かるほど、平坦だった。例えるなら、その胸は濃尾平野。

「アァン? んだとテメェ!」

 ガンを飛ばす不良。残りの二人、金髪の奴とモヒカンの二人に女子生徒は押さえつけられてしまう。

「はっ、放しなさいよッ!」

「ヘッ、少々アレだけどよ、結構良さそうな女じゃねぇか」

 金髪の方が、女子生徒を眺めて、舌なめずりをしつつ言う。

「――っすんませんっしたァァァーッッ!!」

 街中に、唐突に響く叫び声。戒斗が振り向くと、先程まで胸倉を掴みあげられていた男子生徒が地に這いつくばり、頭をアスファルトの歩道に叩きつけていた。所謂土下座だった。そのフォームは、無様ながらも整っており、芸術品のように美しい。決して褒められたことではないのだが、何故だかとても美しく見えてしまった。

「ちょ、ちょっとアンタ!? こんな時にまで――!!」

 その姿を見て、驚愕の声を上げる女子生徒。この言葉から察するに、彼は土下座という無様な行為に”慣れている”。だからこそ成せるのであろう。あの美しいフォームが。

 不良達三人は呆気にとられていたが、次第にその姿が滑稽に見えてきたのか、指を指して大笑いを浮かべている。

「ヒャッ、ヒャハハハハハハハ!!! なんだぁコイツ? 土下座しやがったぞオイィ!」

「ばっ、馬鹿じゃねえの……アハハハハッ」

「こんな奴見たことねえ……! ヒヒヒヒッ! アヒィッ!」

 よっぽど滑稽なのか、腹を抱えて笑う三人。戒斗も呆然とその姿を眺めていたが、流石にこれ以上放っておくわけにもいかないので、更に人を押し退けて人だかりの中心へと真っ直ぐ歩む。

「よぉ、その辺にしとけや兄ちゃん達よォ?」

 上着の内ポケットから取り出した傭兵手帳を片手にぶら下げつつ、戒斗は大股に歩きながらハッキリと言い放つ。

「アァ? んだテメェ」

「見ての通り、通りすがりの傭兵だ」

 傭兵手帳を、リーゼント頭の不良の眼前まで持っていってチラつかせ、再び懐へと戻す。

「傭兵だかなんだか知らねぇが、上等だゴルァ!」

 言ってリーゼントは戒斗に右拳でアッパーカットを放つ。が戒斗は軽くそれをいなして背後に回り、リーゼントの背中に強烈な蹴りを喰らわせてやる。鉄板入りブーツから繰り出される蹴りは、さぞ痛かろう。吹っ飛んだリーゼントは、アスファルトの歩道に叩きつけられ、自慢のリーゼントをぐちゃぐちゃにしながら転がっていった。

「テメェ、やりやがったなァ!」

 残った二人は女子生徒を手放し、ポケットから折り畳み(フォールディング)ナイフを取り出して展開、戒斗へと切っ先を向ける。

「野郎、ブチ殺してやらァ!」

 その姿を見て溜息を吐く戒斗へと、叫びながら突進するモヒカン頭の男は、ナイフを両手で順手に持ち、切っ先を真っ直ぐに正面へと向けている。猛突進する巨体を少し身体を捻らせて戒斗は避け、片足を出して足を引っ掛けてやる。モヒカンはバランスを崩して、一気に前のめりに倒れこんでしまう。歩道に落ちたナイフを蹴り飛ばし、戒斗は左腰から巨大な、刃渡り30cm以上あろうかというサバイバル・ナイフ――今まで後ろ腰に着けていたファイティング・ナイフの代わりに装備している、所謂”ランボーナイフ”という奴だ――を左手で抜いて回転させ、順手に構える。巨大なナイフを、モヒカン野郎の自慢の髪へと容赦なく突き刺す。

「ヒッ、それだけは……」

「詫びは後にしな」

 怯えるモヒカンを無視し、戒斗は容赦なく、彼の自慢のモヒカンヘアーをナイフで切り裂いていく。長く伸ばしたモヒカンが切り落とされた彼の姿は、なんとも滑稽だった。戒斗は半泣きの元・モヒカン野郎を蹴り飛ばし、金髪の方へと向き直る。

「うおおおお!!」

 自棄ヤケのようにも聞こえる叫びを上げながら、金髪は逆手に持ったナイフを戒斗へと突き立てる。戒斗は片手で金髪のナイフを持った手の手首を掴み、自分の方へと引き寄せてからナイフを弾き飛ばす。そのまま金髪を体術を使って拘束し、逆手に握り返した、左手に握る、右利き用の鞘から抜いた為に内側に向いたナイフの刃を、彼の喉元へと軽く押し当てる。

「あ、ああっ……」

「ナイフの使い方もロクに知らねえド素人が。俺がお前なんぞを殺すのは簡単だ……これ以上彼らに関わるな。ここを立ち去れ、立ち去るんだ……!」

 完全に怯えきっている金髪の喉元に刃を押し当てたまま、戒斗は静かに、過剰なまでの殺気を込めて言い放つ。拘束を解いてやると、金髪は他の二人を見捨てて、恐怖の叫び声を上げながらどこかに走り去っていった。ぐちゃぐちゃのリーゼントの奴と元・モヒカン野郎も同様の叫びを上げてどこかに行ってしまう。

 戒斗はサバイバル・ナイフを鞘へと戻し、土下座の体制のまま首だけ前へと向けて唖然としていた男子生徒へと手を差し伸べてやる。

「おいお前、大丈夫だったか?」

「え、ええ、どうもありがとう、ございました……あの、貴方は一体……」

 物凄く困惑しながらも、差し伸べられた手を取って立ち上がる男子生徒。戒斗は疲れたように溜息を吐いて、傭兵手帳を入れているのとは反対側の内ポケットから名刺入れを取り出し、名刺を一枚、男子生徒に手渡した。

「俺はこういうもんだ。コイツも何かの縁。困ったことがあればいつでも来な。力になってやるぜ」

「”戦部傭兵事務所 代表 戦部いくさべ 戒斗かいと”……?」

 名刺に刻まれた名前を読み上げて、ああ、そういうことか。と納得したように頷いている男子生徒。

「それとな、一つだけ言わせて貰ってもいいか」

「? なんですか?」

 戒斗の言葉に、疑問符を浮かべながら返す男子生徒。

「女の前で土下座は、どうかと思うぞ? 慣れているようだがな」

「は、はあ……」

 困惑気味の男子生徒をよそに、戒斗は振り向いて背を向ける。

「まあ、ある意味正しいのかもしれんがな……少なくとも、俺なんかよりは。それじゃあな。次は絡まれないように気を付けるんだことだ」

 それだけ告げて、戒斗は再び地下鉄駅の方へと歩いていき、階段を下りて地下へと消えていった。

「ハァ……エラい目に逢ったわねホント」

 女子生徒が疲れ切った表情で男子生徒に近寄り、言う。

「……凄い、人だったな」

「ええ、本物の傭兵は初めて見たけど、予想以上ね……」

 呟く二人の周りに出来ていたはずの人だかりは、いつの間にか無くなっていた。





 地下鉄に乗ってから数か所寄り道をした後の帰り道。戒斗は行きと同じ私鉄に乗っていた。今度は準急。行きほどではないが、それでも普通電車よりは早く着くだろう。流石に疲れたのか、戒斗は椅子の背もたれにもたれ掛かって、頭を窓枠に埋め込まれた強化ガラスへと付けて、体重を預ける。天井に設置されたエアコンからの風が丁度当たる位置の座席に座っているため、時折そよいでくる冷風がとてつもなく心地いい。

 戒斗が乗ったのは始点の駅。そこから数駅過ぎただけで、座席は全て埋まり、吊り革に捕まった立ち乗り客が多くなってきた。腕時計を見ると、時刻は午後五時をとうに過ぎている。所謂帰宅ラッシュという時間帯に運悪くぶつかってしまったのであった。強化ガラス越しに見える景色は、夏だからか、まだ多少明るい。しかし太陽は確実に傾いており、夜の闇が近いことを知らせていた。

 何をするわけでもなく、ボーっと車内を眺めていると、戒斗から丁度見えるドア際の位置に、どこかで見たような、見慣れない制服の男子生徒が立っていた。何故かは知らないが、顔から血の気が引いている。

 注意深くその様子を眺めていると、戒斗は男子生徒の真後ろに五十代ぐらいの、くたびれたスーツを着た頭の禿げあがったおっさんが密着していることに気づく。なんとなく気になって二人を見ていると、衝撃的な光景が戒斗の視界に飛び込む。

「……オイオイ、マジかよ」

 小声で呟いてしまった戒斗の目に映ったのは、禿げ頭のおっさんが男子生徒の尻を鷲掴みにしている光景だった。信じられない話だが、彼は今、痴漢に遭っているのだ。男が、男から。禿げ頭の息遣いはどこか、興奮しているように荒い。これは確実に痴漢だ。正直見たくなかった。

 戒斗は大きく溜息を吐いて、席から立ち上がる。立ち客の間を縫って彼らの間へと歩いていく。座っていた席に他の客がここぞとばかりに座ったのを横目に見て、戒斗は軽く舌打ちをしてしまう。

 禿げ頭の真後ろへと到着した戒斗は、万が一誤認だと色々とマズいので改めて近くから様子を伺う。だが、禿げ頭はあからさまに男子生徒の尻肉を皺の寄った手で鷲掴みにしている。周りの乗客の様子は、気づいてはいるものの、あまりに異様な光景すぎて何をしていいのか分からないといった感じだった。戒斗はもう一度、大きく溜息を吐いてから禿げ頭の肩を叩く。

「ちょっといいか、ハゲ」

 ハゲ、の一言がカンに触ったのか、怒りを露わにした表情でこちらに振り向く禿げ頭。そのとてつもなく広い額に、戒斗はホルスターから片手で抜いたミネベア・シグの銃口を向ける。

「痴漢もそこまでにしておくんだな、変態ハゲ野郎」

 言いながら戒斗はゆっくりと、見せつけるように撃鉄ハンマーを起こす。おっさんは戒斗の手に握られたミネベア・シグを見るなり、ヒィ、と怯えた声を上げてしまう。

「コイツはシグ・ザウエルP220自動拳銃。厳密に言うなら日本でライセンス生産されたモノか。口径は9mm。ラリった薬中をブチ殺すにはちと物足りねえが、テメェみてえな頭皮にナパーム弾喰らったハゲジジイをブチ殺すには十分すぎる威力だ」

 昔見たアクション映画の主人公のように、不敵な笑みを浮かべて言い放つ戒斗。周りの乗客達は狭いにも関わらず後ずさりし、戒斗達三人との距離を取っている。

「ハ、ハハッ。ハッタリだ! どうせオモチャだろう!?」

 去勢を張るおっさん。額から玉状になった脂汗が滴り落ちる。ばっちい。

「そう思うなら、試してみるか?」

 戒斗は笑ったまま、グリップを握り直し引きトリガーに右人差し指をゆっくりと添わせる。

「や、やれるもんなら、やってみやがれ!」

 禿げ頭がそう言った瞬間――狭い車内に、破裂音が響いた。床に、金色に輝く真鍮製空薬莢が軽い音を立てて転がる。ミネベア・シグから放たれた9mmルガー弾はおっさんの顔をほんの少し掠め、壁に小さな弾痕を穿っていた。

「あ、ああああっ……」

 実銃の発砲音に萎縮したのか、禿げ頭のおっさんはその場にへたり込んでしまった。その瞬間、唖然とした表情で二人のやりとりを見ていた男子生徒の背後にある自動扉が開く。戒斗の目的地である駅に、到着していた。

 男子生徒に一旦外に出るように促してから、戒斗は座り込んだ禿げ頭を車外、ホームへと蹴り飛ばして、自らも電車を降りる。電車の内外から三人へと奇異の視線が向けられているが、気に留めるようなモノでもない。

 どこからか通報を受けた駅員二人が、血相を変えてこちらへと走ってくる。胸ポケットからいつものように傭兵手帳を取り出してチラつかせ、事情を説明する戒斗。駅員達は戒斗が傭兵だと知った途端、直立不動で敬礼。禿げ頭の両脇を抱えて連行しつつ、戒斗と男子生徒の二人にも詳しく事情を聞きたいので駅員室まで来てほしいと告げた。





 駅舎の外にあるベンチに、先程何故か痴漢に遭っていた男子生徒が疲れたような表情で腰掛けていた。

「ホラ、奢りだ」

 そこに歩いてきた戒斗が、近くの自販機で買ってきた二本の缶コーラの内一本を男子生徒に手渡す。彼は「ありがとうございます」と言ってソレを受け取りプルタブを開け、紅白の缶を煽って炭酸飲料を喉へと流し込んでいる。

「お前とは、何か奇妙な縁があるみてえだな」

 男子生徒の横に腰掛けた戒斗は言うと、自分も缶コーラを飲む。キツイ炭酸と共に、甘みと混ざった独特の味が味蕾を刺激する。

「みたいですね……ええと、戦部さん、でしたっけ。今日は災難だらけですよ、ホント」

「”二度あることは三度ある”って言葉もあるしな。帰り道にまた絡まれないように気をつけるこったな」

 冗談交じりに呟く戒斗に、男子生徒は「不吉なこと言わないで下さいよ……」と苦笑いしながら言う。初めて彼の没個性的な顔を近くで見た戒斗は、彼にどこか、薄幸な印象を抱いた。

「ところでよ、一つ聞きたかったんだが」

 空になった紅白の缶をゴミ箱に投げ入れながら、戒斗は問う。

「なんです?」

「こんなこと言っちゃ悪いが、土下座慣れしてるのかお前」

「ええまあ。僕の得意技、ですから」

 何故か胸を張って答える男子生徒。いや、”土下座慣れ”に胸を張るような要素は一つもないんだがな。

 ふぅ、と一息ついてから戒斗は立ち上がり、男子生徒の方へと振り返る。

「まあ困ったことがあれば、いつでも俺の所に来な。力になってやるからよ。名刺は……渡したな」

 それじゃあな。それだけ言って戒斗は男子生徒に背中を向け、どこかへと歩き去って行った。オレンジ色の夕陽に照らされて歩く戒斗の後ろ姿は、たった一人、長い道を往く、とある洋画の主人公の姿と重なって見えてしまう。ベンチに座ったままの男子生徒は、ただその背中を、見送っていた。





「遅くなっちまったな……」

 呟きながら戒斗はマンションの鍵を取り出し、目の前にあるドアの鍵穴へと突っ込んで開錠。開けて、自宅の中へと入る。幾つか靴が並んでる玄関に、履いているブーツを乱雑に脱ぎ捨ててから、リビングへと歩いていく。

「只今帰りましたよっと」

 薄い木製ドアを開けてリビングに入って真横を見ると、カウンター型キッチンで何かを茹でている琴音の姿が見えた。

「ん? ああ、戒斗か。おかえり」

「はいはい、ただいま」

 琴音の受け答えをしつつ、自室へ入り、装備類を外す戒斗。家庭用洗濯機で洗えない衣類だけをハンガーに再度掛け、クローゼットに突っ込んでから再度リビングへと戻る。

「まだ時間あるし、先お風呂入ってきたら?」

「ん? ああ、そうだな。ちょっくら行ってくるわ」

 琴音の提案に乗り、戒斗は脱衣所へと向かう。木製の引き戸をすこし開けると、湿気交じりの空気が廊下へと一気に流れ込んできた。先に入った琴音が換気扇を付け忘れたのだろうか? そんなことを思いながら引き戸を全開にすると、何か見慣れない物体を視界に捉えた。

「へぇ、風呂上がりを襲おうだなんて、いい度胸してんなァ。カイトォ?」

 ――見慣れない物体の正体は、一糸纏わぬ姿の、リサだった。意外にも傷の少ないその身体のバランスは良く、出るとこは出て、締まるところはしっかりと引き締まっている。戒斗の周りの連中とは比べものにならないほど豊満な胸は、服の上から見るよりも更に大きく……

「とりあえず死ね」

 戒斗が幾多もの修羅場を潜り抜けて研ぎ澄ました直感が、危険を告げる。咄嗟にバックステップし引き戸の真横の壁に張り付くと、つい今まで戒斗の居た空間を切り裂いて、壁にナイフが突き刺さる。やめてくれ。傷が付いたらこの部屋引き払う時に色々困るだろうが。

「ご、誤解だリサ。覗き目的で来たわけでも、別に狙って入ったわけでもない。冷静になれ、な?」

 失念していた。結構長い間琴音と二人で生活していたもんで、リサの存在をすっかり忘れていた。

「言い訳は、地獄で聞く」

 側頭部に金属の感触。恐る恐る眼球だけを動かして見ると、バスタオル一枚だけ身体に巻き付けたリサが、片手で骨董品の自動拳銃、モーゼルC96の銃口を戒斗に押し付けている光景が映った。





 風呂から上がった戒斗は適当なバスタオルで身体を拭い、水気を取ってから部屋着を身に纏う。下は寝間着のような楽な長ズボン、上はタンクトップといういかにも夏らしい格好だ。

 脱衣所の引き戸を開け、廊下へと出る。リビングから微かに流れ出るエアコンの冷気が心地いい。が、胸は痛む。先程事故とはいえ、リサの一糸纏わぬ姿を思いっきり見てしまった代償だった。まあ、モーゼル・ピストルで撃たれるよりは遙かにマシだが。

 リビングのドアを開けて中に入った戒斗の目に飛び込んできたのは、衝撃的な光景だった。

「丁度出来てるわよー」

 テーブルの上に置かれていたのは、氷水に漬けこまれた、大量の白い麺。つまりは素麺だった。少し前の、弁当に素麺を持ってこられたトラウマが掘り返される。

「そ、素麺か……」

「そうよ。あ、ちなみに一週間は朝昼晩どこかに素麺出すから」

 ……は?

 今なんて言ったの琴音は。一瞬間? 素麺? 連続で?

「どういうことだオイィ!? 素麺一週間だとォ!?」

 思わず戒斗は叫んでいた。一週間素麺てオイ。流石に夏でもキツイぞ一週間連続でこんなクソ軽いモノばっか食うのはよ。

「いやー、ホントは二日置きぐらいに昼に出す予定だったんだけどね。リサさんが、ホラ、アレ持ってきてくれたから」

 苦笑いしながら言う琴音の指差す方向を見ると、なんか無駄に大きな箱がキッチンの一角に置かれている。なんかもう、中身は大体察した。

「……あれ、素麺か?」

「そうだぜ。日本には”オチューゲン”って文化があるんだろ? 折角だから、カイトの”大好き”な素麺を持ってきてやったわけだ」

 悪魔のような笑みを浮かべて、ソファに腰掛けたリサは言う。何が”大好き”な素麺だコラ。琴音の弁当素麺事件のことをリサに話さなければよかったと今更ながら戒斗は強く後悔する。

「ま、そういうことで。これから毎日素麺を食べましょう?」

 笑顔で言う琴音が、何故か知らないがとても恨めしかった。

「もう、素麺は勘弁してくれ……」

 戒斗にはもう、届かぬ願いを呟くことしか出来なかった。素麺、嫌いになりそう。

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