ミッドナイト・キャリコロード
限界を超えた睡眠欲は遂に決壊し、香華の申し出を有難く受けた戒斗は、空き部屋だった隣のスイートルームに入るなり、ロクに汗を流す余裕も無くそのままベッドへ倒れ込むと、すぐに眠りに堕ちてしまう。
目覚めた頃、既に日付は変わっていた。東京にやって来てから数えて三日目になる日の、午前五時より少し前。確か最後に時計を見た時には秒針が3の辺りを指していた筈だから、優に十四時間近くを睡眠に費やしたことになる。
何度か途中で起きた覚えはあるが、その時の記憶は曖昧だった。ベッドサイドに置いておいたミネラルウォーターのペットボトルの中身が半分近く減っているから、この記憶に多分間違いはないのだろう。これだけの時間を消費させるのだから、睡眠不足のツケというのは恐ろしい。
身体が鉛のように重く感じられる。まるで全身の筋肉に重金属でも突っ込まれて、骨が全てチタン製に置き換えられたみたいだ。
もう暫く眠っていたい衝動に駆られるが、過度の睡眠は却って身体に毒だ。ただでさえ長い時間を眠りこけていたのだから、これ以上は絶対にプラスには働かない。
襲い来る際限なき睡眠衝動になんとか抗い、戒斗は漸うと重い身体を起こしていく。
腕を伸ばして大きく伸びをしてみれば、固まり切った関節という関節がバキボキと派手な音を立てる。
ぬるくなったミネラルウォーターの残りを少しずつ、ゆっくりとしたペースで全て飲み干す。一気に流し込まないのは、胃に過度の負担を掛けない為だ。
空になったペットボトルをベッドサイドに置いて起き上がろうとした時、自分の脚に何かが絡みついているのに、漸く戒斗は気が付いた。
案の定、それは遥だった。すぐ隣ですぅすぅと穏やかな寝息を立てる彼女は何故か下着姿であったが、スーツジャケットとワイシャツを乱雑に脱ぎ捨てて、肌着の白いタンクトップ一枚の戒斗が言えたことではない。尤も、彼女とは違い、辛うじて下のスラックスは履きっ放しなのだが。
穏やかな寝顔だった。まるで小さな子供のように、両腕を小振りな胸の前で縮こまらせて、自分に寄り添うように眠りにつく遥の横顔は、一切の世辞を抜きにして可憐で、何故だか無性に愛おしくなって仕方ない。
眺めている内に、思わず笑みが零れてしまう。遥を起こしてしまわぬように、絡み付いた細い脚をそっと退けて、戒斗はベッドから降りた。
そのままだだっ広い部屋を歩いて、これまた矢鱈と豪勢なバスルームへと足を運ぶ。ステンレスのシャワーヘッドから落ちる冷水で寝汗を流し、顔に冷たい水を浴びせると、未だ半分まどろみの中に在った意識が急激に覚醒へと導かれる。
十分ぐらいでバスルームから出た後も、遥はまだ目を覚ましていなかった。
「……ん?」
カーテンでも開けようと窓の方へ向かおうとした矢先、窓際の小振りな丸テーブルの上に何かがあることに気付く。皿に乗せられた、二つほどのおにぎりだった。埃が被らないよう、ご丁寧にラップまで被せてある。
見るからに、ルームサービスの物だった。きっと自分が眠りこけている間、遥が調達しておいてくれた物だろう。
丁度、長すぎた眠りの反動で腹が減っていたところだ。戒斗はテーブルとセットで置かれていた一人用の小さな椅子に腰掛けると、彼女の心遣いに感謝しつつそれを食す。おにぎりの少し塩っ気が強めが、疲れ切っていた身体に染み渡る。
開かれたカーテンの向こうに、窓越しに映るのは夜明け前の空。淡い陽光が少しずつ浸透していく濃紺の空は、一秒ごとに夜闇との境界線を曖昧にしていく。新たな一日が、足音を立てて着実に近づいていた。
「どうかしら、サイズの方は?」
「悪くない」
それから半日以上の時間が流れ、夕暮れ時。すぐ近くに立つ香華へと、戒斗は満足げにそう言ってやった。
今の彼の出で立ちは昨日のような背広ではなく、カーキ色のカーゴパンツに黒いTシャツ、その上から袖をロールアップした上着を羽織るというラフな格好だった。これからの会合に備え、香華の方で準備をしておいたモノだ。サイズが気になるところではあったが、存外悪くない。
モーリヒの方には、今日の夜だけは別の依頼が入って対応できない旨を昼頃に電話口で伝えておいた。一応は向こうも了承した故、今日一日に関しては問題ない。どのみちキエラの調査結果が出揃うのが明日になる為に、今日は大きく動けやしないのだが。
「じゃあ、装備の方ね――麻耶」
「承知致しました」
いつも通りメイド服姿の麻耶は主の指示通り、液晶テレビ近くの大きめなテーブルの上へと、予め台車で運び込んでおいた装備類を並べていく。
内容はチェストリグに、MOLLE規格のバンドが縫い込まれた、濃緑色のミリタリー・ユースのデイパック――要はリュックサックだ。加えて、戒斗も使い慣れたBLACKHAWKの、シェルパ・ロックの機構が省かれた自動拳銃用カーボン樹脂製LEVEL1・ホルスターが、太腿用のレッグホルスター・プラットフォームに組み込まれた状態で用意されている。
肝心の銃の方は、スイス製の突撃銃SIG・SG552と、独H&K社製のUMP-45短機関銃。サイドアームにはM1911系の.45口径自動拳銃であるシグアームズ・GSRが用意されていた。各銃の予備弾倉と弾薬は勿論、ご丁寧にSOGのM40-Kナイフまで一緒だ。
「急だったものだから、そのぐらいしか用意出来なかったけれど」
「問題ない。イザとなればよ香華。お前さんを連れて逃げおおせるだけさ」
それぞれの弾倉に手早く弾薬を装填し、カーゴパンツのベルトループに通したピストル・ベルトへレッグ・ホルスターを保持具だけ括り付ける左腰にはM40ナイフの樹脂シースを取り付けた。チェストリグにはSG552とGSRの弾倉を幾つかポーチに突っ込んでやる。UMP-45の方は予備弾倉と一緒に、デイパックの方へと詰め込んでやった。
「ふふっ、中々に派手な格好ね」
普段はお目に掛かったことの無い、スカートスタイルの細身なスーツを着た香華が言う。
「そうか?」
「ええ。少なくとも、こんなスイートには似合わない」
「止してくれよ。好きで泊まってる訳じゃない」
「あら? それにしては随分と気持ちよさそうに寝てたけれど?」
「それを言われちゃどうしようもねえさ――行くか」
「ええ、そうね。銃の方はリュックに隠しておいて」
「あいよ」
曲がりなりにも、ここは最高級ホテルだ。銃なんぞを裸で持ち出して騒ぎになるのも面倒だろう。当たり前の話だ。
香華に言われた通り、銃床を折り畳んだSG552も一緒にデイパックに突っ込んでやる。元々がコンパクトな設計故に、少しキツくはなったがすんなりと入ってくれた。しかし長物二挺分の代償に、デイパックはかなりの重さになってしまったが。
だが不測の事態に備え、GSRだけはカーゴパンツの右太腿ポケットに滑り込ませておく。SOG・M40-Kナイフも同様だ。一度AUS-8鋼のブレードの状態を検めてから、樹脂シースに収めた。
残りのチェストリグとレッグ・ホルスター、そして重苦しいデイパックの方は麻耶に任せ、戒斗は香華と共に部屋を出て、外で待ち構えていた佐藤と合流してから、エレベータを乗り継ぎ駐車場の方まで下っていく。
昨日停めたGT-Rの隣に、黒塗りの大型SUVの姿があった。今回の移動に用いるメルセデス・ベンツのMクラスであるW166、モデル名はML350だ。香華の話によれば車体は抗弾仕様、ウィンドウは強化ガラスらしい。正に今の状況にうってつけな車だ。無論、右ハンドル仕様となっている。
車の中に戒斗の装備類を放りこんでから、麻耶はコクピット・シートに座ってイグニッションを始動させる。ML350に載せられる、3.5リットルのV型六気筒の直噴エンジンが目を覚ました。
「それじゃあ遥ちゃん、手筈通りに頼むわね」
「承知。戒斗も十分、気を付けて」
「分かってるさ。何かあったら、こっちに連絡してくれ」
トントン、と左耳に差し込んだインカムを叩きながら言ってやると、遥は一度頷いた後で背を向けて70スープラの方へと向かっていく。半分保険代わりのような役割だが、今回は彼女にも協力して貰う。
一つ飛ばしの向こうで始動したスープラの1JZ-GTEエンジンが奏でるエグゾースト・ノートを耳にしながら、戒斗はML350の車内へと入っていく。彼は後部座席の左側で、その隣に香華。助手席には佐藤といった配置だ。
「麻耶、出して頂戴」
香華の言葉にコクリと頷くと、麻耶はステアリング・コラムから生えるコラム・シフトをDへと突っ込み、大柄な車体をゆっくりと駐車スペースから出していく。
暫しのナイト・ドライブの後、四人を乗せたML350は東京湾西側のとある港へと辿り着いた。完全に物流目的に特化した埠頭は、時間も相まって人気が殆ど無い。秘密裏の会合にはうってつけの場所に見える。
「着きました。準備を」
サイドブレーキを掛け、車のエンジンを停止させた麻耶が告げる。戒斗は積み込んだレッグ・ホルスターを右太腿に巻き付け、上着の下にチェストリグを身に着ける。デイパックからSG552とGSRを取り出して、GSRの方は遊底を前後させて弾を薬室に突っ込み、サム・セイフティを掛けてからホルスターへ。SG552は二十連発の半透明な樹脂弾倉を叩き込み、こちらも初弾を装填する。折り畳み式の銃床を展開し、負い紐で斜め掛けにした。
≪――さーて皆さん、聞こえますかぁー?≫
大方の準備を終えた頃、左耳のインカムからキエラの声が聞こえた。
「感度良好、問題ない」
即座に戒斗が応答してやると、続けて「こっちもだ」と佐藤が告げ、「私の方もオーケーよ」と香華。そして最後に「大丈夫です」と麻耶が言った。
≪私の方も、特に問題はありません≫
その次に聞こえるのは遥の声。ターボ付きエンジン故の暖気時間や秘匿性の都合もあり、彼女には少し遅れて来て貰うことになっている。
≪大丈夫みたいですねー≫
「キエラ、今の状況は?」
≪お嬢様達の周辺に怪しい人影は無し。今のところは静かですねー≫
香華の問いかけに、キエラは間延びしつつも聞き取りやすい声色で返す。
勿論キエラ自身はこの場に居ないのだが、この間のように上空を飛ぶ無人偵察機、RQ-4Bグローバルホークを通じての監視・統制を担っている。今回投入した機体はB型のブロック30で、通常任務の他にSIGINT――通信傍受や暗号解読などの電子的な情報に関する諜報活動――にも対応するタイプだ。
「さてと、そいじゃあ行くとするか」
デイパックを片手にドアを開け、少し肌寒い秋先の空気が迎える中、戒斗は外界へと降り立つ。
それに続いて佐藤と、先んじて降りた麻耶にドアを開けられた香華が車外に降りた。
「じゃあね麻耶。行ってくるわ」
「……どうか、お気を付けて」
背を向けて歩き出した香華に告げる真耶は、遠ざかる背中を見送りつつ、恭しく頭を垂れる。万が一に備え、彼女にはいつでも車を動かせるように待機することになっているのだ。
「で、肝心の行き先を訊いてなかったな」
すぐ隣を歩きながら、思い出したかのように戒斗が言うと、
「あら、言ってなかったかしら。アレよ、アレ」
そう言って香華が指差したのは、岸壁へ静かに停泊している、巨大な貨物船だった。
港の中を歩くこと数分、すぐにその貨物船の前に辿り着く。淡く弱々しい光を放つ街灯だけが唯一の光源ということもあって、闇夜の中に浮かぶ貨物船はまるで、御伽話に出てくる魔城にも似た雰囲気を醸し出している。
船の甲板へと続く、長いタラップが掛けられていた。そのすぐ前に停められた二台の黒いセダン。その近くに立っている二つの人影を、戒斗は視界の中に認める。
香華はその人影へと迷うこと無く近寄り、彼らへと英語で声を掛けた。
「お待ちしておりました。すぐにこちらの代表が伺いますので、今暫くの間、お待ち頂ければ――」
と、二人の内の一人。長身な丸刈り頭の黒人の方が香華にそう告げていると、
「――――やぁやぁ! 久しぶりだねぇ、西園寺のお嬢さん!」
タラップの方から、そんな風な朗々とした女の声が聞こえてきた。
「お、お嬢!?」
彼にとっても想定外だったのだろう。スキンヘッドの黒人はタラップの方へ振り返ると、そんな素っ頓狂な声を上げる。
お嬢、と呼ばれた女の姿は、タラップを一段降りるごとに街灯の光の下へと晒され、徐々に容姿が明らかになっていく。
「……マジかよ」
あまりに予想の範疇を超えた光景に、思わず戒斗はそんな独り言を口走ってしまった。
降りて来た女は明らかに若く、見た目だけで見れば二十代、いやひょっとすれば十代後半かもしれないぐらいに若かった。白人で、遥の髪より少し光沢の強い銀色の長髪を潮風に靡かせる女の顔立ちは、どちらかといえばロシア系な雰囲気だ。
そんな女の後ろには、自動小銃を携える見るからに屈強な二人の男が続いていた。若い方の一人は紅い髪のドイツ系白人だったが、意外なことにもう一人の方はアジア人……いや、どう見ても日本人だった。老練なその男は表情こそニヤけたような感じだったが、放つ雰囲気は刺すように鋭く、恐らくはこの中で最も侮れない人物であろうことが分かる。
「本当に久しぶりね、イリーナ。最後に会ったのはいつ頃だったかしら?」
だが、当の香華は特に緊張する素振りすら無く。まるで旧知の友に接するかのように銀髪の女へと話しかけた。
「さあ。生憎、私は細かいことを気にしない性分でねぇ」
そして、イリーナと呼ばれた女の方もまた、気さくな感じにそう言葉を返している。
「あら、仮にもK.W.T.S.が誇る優秀な武器商人なのに、その発言はどうかしらね?」
「そう言われちゃ私の立場が無いね。一本取られたよ」
会話の内容から察するに、この女こそが今回の取引相手――K.W.T.S.兵器部門の営業担当、イリーナ・クズネツォフに間違いないだろう。
「ところで香華や、そっちの見慣れない色男はどちら様かな?」
なんてことを考えていたら、イリーナは戒斗の方へと視線を向けながらそう言った。こちらを見据える青い瞳は、まるで品定めでもするかのようにじっくりと眺めてくる。一流の戦士が放つ特有の威圧感ではない。寧ろ、これは商人の類だ。武器商人なのだから当たり前ではあるが、それにしてもとびきり有能な、そんな雰囲気を感じ取る。
「あー……言っちゃって良いのかしら」
「何をだ?」
「貴方の二つ名」
……成程。一応はこの東京の地には居る筈の無い人間だ。香華の躊躇いにも納得が行く。
「別に構わんさ」
「なら良いけど―――イリーナ、”黒の執行者”って名前に聞き覚えは?」
「……ああ、成程ね。君があの」
香華がその名を口にすれば、イリーナは合点がいったように頷く。
「……戦部 戒斗だ」
「初めまして、ミスター・イクサベ……いや、”黒の執行者《Black Executer》”とお呼びした方が良いかな?」
「どちらでも、好きな方で結構だ」
「そうかい。まあいいや。会えて光栄だよ、ミスター・イクサベ」
半笑いを浮かべるイリーナは片手を差し出し、握手を求めてくる。それに応じて彼女の手を取ると、見た目相応にイリーナの手は華奢だった。
「それにしても、随分な手練れを呼んで来たもんだねぇ。そんなにヤバい相手にも思えないんだがね」
「偶然よ、偶然。それよりもイリーナ、早速で悪いんだけど商談の方に入りましょう」
「勿論さ。私達だって、無用なドンパチは避けたいからね」




