第9話 穢れ水の魔女
――王化が目を覚ましたのは、見知らぬ薄暗い部屋の中だった。
まず目に飛び込んでくるのは、石でアーチ型に組まれた天井。体を包む暖かな感覚からして、どうやら自分はベッドに寝かされているようだ、と王化は悟る。
(あれ、俺、どうなったんだっけ……)
記憶を探りながら、王化は目だけで辺りを見回す。首を傾けるのも億劫なほどの疲労感が全身を包んでいたのだ。
左を向けば同じく石造りの壁、右を向けば狭い隠れ家のような空間が広がっている。向こう側の壁際には天井まで届く巨大な戸棚と本棚が一つずつ、二つに挟まれるように立派な机と椅子が一揃い置かれ、その椅子にはこちらに背を向けて座る人間の姿があった。
(たしか、壁ぶち抜いて、なんとか逃げ延びて……ここは、どこだ?)
その後ろ姿はソルファのものでもベネアルのものでもない。室内だというのに頭に黒い三角帽、そして同じく黒い全身を覆うローブ、そして背に掛かほどの長さのちぢれた焦げ茶の髪――ローブに出た身体の線からして、大人の女性であることは分かる。
(まずは、あいつは何者だ、か……)
敵か味方か。まずはそれを見極めなくては。
と。
重い身体を無理矢理起こすと、それに伴って『何か』が膝の上に落ちる。どうやら額の上になにか置かれていたらしい。
氷嚢かなにかか、と王化がそれに目を向けると、その『何か』も同じように彼を見つめてきた。
『きゅ?』
「……なんだお前は」
奇妙な鳴き声をあげたのは、饅頭のような半透明な物体だった。
大きさは拳ほど、半固形のぷるぷる揺れる丸い身体に、目と口のような黒い点が内包されていて表情らしきものを作っている。
(なんだこの顔文字スライムは)
無害なものなのかどうなのか、王化が試しにつついてみる。するとスライムは『きゅー!』と再び鳴き声をあげ、飛び跳ねて黒衣の女の元へと逃げ去った。
ぴょん、と膝に飛び乗ったスライムに、黒衣の女は話しかける。
「――あら、どうしたの、一号……」
『ますた、おきた、おきた』
「まあ……」
細く、それでいてぞくりとくるような妖艶さを含んだ声と共に、黒衣の女は席を立ち振り向いた。
その姿に、王化は絶句する他無かった。
全身を覆うローブの下、女性的どころか扇状的でさえあるような凹凸の激しい身体を、その女はほとんどビキニのような服で包んでいたのだ。下は辛うじてパレオのようなものを巻いているが、それも申し訳程度。黒いローブと黒いビキニ、それらが病的なほど白い肌とコントラストになっていて、見る者の視線を捕らえて離さない。
(ち、痴女だこいつ……!)
ごくりと思わず生唾を飲みつつ、王化はようやくその顔に目を遣る。伸ばしすぎた前髪で目は隠れているが、その下を見る限りやはり成人済みの女性だろう。口角をにぃと釣り上げた、蠱惑的な笑みが異様なほどによく似合っていた。
「起きてくれて良かったわ、遠き地の者……あのまま死んでしまうかと、心配したのよ……」
「っ、貴様、どうして俺が遠き地の者だと?」
警戒に身を堅くする王化を、黒衣の女はおかしそうに笑う。
「うふ、だってわたし、見ていたもの……貴方がこの世界に来てから、ずっと、ずぅっと……」
「城の関係者か? 王子の手の者だってんなら――」
鉄扇かマキャベルか、どちらでも良いから脅しに取り出そうとして、王化はようやくポケットが無いことに気付く。
否、ポケットどころではない。王化は今上半身は裸、下半身も下着一枚という、完全なる無防備な姿だったのだ。
「うふふ、そんな格好で凄んでも、ねえ……?」
「ひぃっ!? お、俺になにをしやがったこの痴女!」
「し、失礼ね……わたしが助けた時は、その格好だったのよ……」
「助けた、だと?」
予想外の言葉に、王化は眉をひそめる。
身ぐるみ剥いで武器も奪っておいて、なにが助けただ――むしろ警戒心を強くする王化を、しかし覚えのある声が宥めた。
『――この女の言う通りじゃよ、御主人』
「っ、マキャベルか!? 無事なのか!?」
声のする方に目を遣れば、机の上に折れた剣の柄が置いてある。そしてそれが淡い光を放ったかと思えば、次の瞬間には銀髪の幼女が机に腰掛けていた。
『はは、そりゃあ儂は剣じゃ、そう簡単には壊れんさ。ま、今度ばかりは命運尽きたかとも思ったが――儂もお主も、この者に救われたのじゃよ』
「そう、なのか?」
「だから、そう言っているじゃない……」
黒衣の女はそう言って、一歩一歩近付いてくる。王化は思わず身構えるが、黒衣の女は危害を加えるどころか、彼を気遣うように額に手を当てた。
「熱は、まだ高いわね……気分はどう……?」
「……でけえ」
前傾姿勢で強調された谷間に、王化は思わずぼそりと呟く。
『御主人、お主なにを阿呆なこと言っておるのじゃ……』
「い、いや、悪くないぞ。良いもの見せてもらった」
『この色情魔! 乳から離れんか! 貴様ももう少し慎みある格好をしろ!』
「なによ、うるさいわね……指先が震えたりしない? 胸に焼けるような痛みはあるかしら……?」
「指は、平気だな。胸にはたしかに、心臓の辺りがひりついてる感覚はある」
どうやら敵意が無いのは本当らしいので、王化は素直に質問に答える。
それを聞くと、黒衣の女は分かるか分からないかぐらい小さく、安堵の息を漏らす。
「どうやら、深刻な域は越えたようね……貴方、死にかけていたのよ。あの二人に見捨てられて、ね」
「? どういうことだ?」
『それは儂から説明しよう。その方が分かりやすいじゃろうて』
マキャベルはそう言って、堀に飛び降りてからの経緯を足をばたつかせながら説明する。
ソルファとベネアルは一応無事であること。
王化は魔力枯渇でずっと意識不明だったこと。
ベネアルが王化を見捨てたこと。
そして、それも本意ではなかったこと。
『――して、朽ちかけた我らを、この女の使い魔がここまで連れてきたんじゃよ。この女は儂に魔力を分け与え、お主には治療を施した。少なくとも敵じゃなかろうよ』
「なるほどな。んで、使い魔ってのはそれか」
『きゅ?』
話の間暇だったのか、先ほどのスライムはいつの間にか黒衣の女の三角帽に登っている。しかも気付けば彼女の両肩にも一匹ずつ、計三匹に増えていた。
「大体、話の通りなのだけど……どうかしら、信用してくれた……?」
「ああ、それと先ほどの非礼を詫びよう。恩人とは知らず、悪かったな。許してくれ」
「別に、構わないわ……」
「ありがたい。それじゃ、改めて――俺は冷泉院王化、王化でいい」
王化はそう言い、右手を差し出す。
「知っているけど……そうね、わたしはリキュリア・マグランド。リキュリアでいいわ」
黒衣の女――リキュリアは、若干躊躇いがちに王化の手を握る。されるがまま、という握手だった。
と。
繋いだ手を離す際、王化の膝の上にぴょん、ぴょん、ぴょんと。三角帽と両肩から、スライムたちが飛び移ってくる。
『いちごう』
『にごう』
『さんごう』
そう名乗りをあげて、スライムたちはじーっと王化を見つめる。
「ん、そうか。俺は王化だ、よろしくな」
王化は改めて名乗り、一匹ずつちょい、ちょい、ちょいとつつく。握手代わりということらしい。
『おーか』
『おーか』
『おーか』
どうやら自己紹介がお気に召したらしく、三匹のスライムは皆内包する黒い点を引き延ばして笑顔の顔文字を作る。そして満足したのか、ぴょんぴょん跳ねて部屋の隅へと去っていった。
「ごめんなさいね……わたし以外の人間が珍しくて、はしゃいでるのよ……」
「かはは、面白い奴らだな。後で遊んでやろう」
後で、だ。
王化がすべきことはまだ残っている。助けられたことは分かったが、その理由についてまだなにも聞いていないのだ。
そして、リキュリアという人間が、一体何者であるかということも。
「――聞かせてくれ、リキュリア。あんたは何者なんだ? なんで俺たちを助けた?」
「うふ、いいわ、教えてあげる……わたしは穢れ水の魔女、水の魔法の探求者よ……
そして、わたしの望みはただ一つ――貴方が、欲しいの……」
■
同刻。
水路の小部屋にいた王化は気付いていなかったが、時は既に夕暮れだ。窓からのオレンジの光が照らし出す宿屋の一室、ソルファはベネアルを睨んでいた。
「――オーカを助けに行く。そこを退きなさい、ベネアル」
「だーかーらー、駄目だって姫様……! この部屋だってなんとか確保したんだよ? 今はとにかく身体を休めて、ね?」
「もう十分休んだわよ、半日以上。貴女に眠らされて」
「それは悪かったって……」
部屋を出ようとするソルファと、ドアの前を守るベネアル。この攻防は既に三十分近くに及んでいた。
ソルファはどうにか部屋を出ようと、フェイントを掛けて抜こうとしたり、強行突破を試みたりしたものの、身体能力は亜人であるベネアルの方が上だ。彼女は怒気を込めた溜息を吐き、乱暴にベッドに腰掛ける。
「こんなことしてる間にも、オーカは苦しんでるのよ? あのままじゃ死んじゃうかもしれないのよ?」
「姫様、残念だけど『かも』じゃないよ。あんな状態で、しかもほぼ全裸で放置してきたんだ、もうとっくに死んでるだろうさ。諦めとくれよ」
「死んでないわ、絶対」
「なんでさ」
「こんなところで死ぬ男じゃないもの、あれは」
ソルファはなんの疑いも無く断言する。
まるで根拠の無い言葉だ。冷静に考えれば、そんなのはただの願望でしかない。
だが、それでも――ソルファは、王化の生存を確信していた。
「はぁ……姫様、いくらあれが死にそうにないっつっても、身体は人間だろう? 亜人の類ならともかく」
「だ、誰かに拾われてるかもしれないでしょう? ほら、噂があるじゃない、地下水路には魔女が住んでるっていう」
「そんな与太話まで持ち出して……百歩譲ってそんなもんがいたとして、なんだってオーカを助けたりする?」
「それは……あ、でも、オーカの加護は、魔法使いにとっては喉から手が出るほど欲しいはずよ? 自分の魔法を何倍にも『増幅』できるなんて、この上なく魅力的なはずだもの」
「そりゃ、オーカが遠き地の者だって知ってて、しかもその能力が『増幅』だって知ってりゃ、魔女も助ける気になるだろうけどねえ」
ベネアルは呆れ果てたように肩を竦める。
――身勝手な話だが、ベネアルとて王化に生きていてほしいという思いはある。しかし、考えれば考えるほど、それはありえないことだと理解できてしまうのだ。
彼女はソルファの隣に腰掛け、その手に自分の手を重ねる。
「――ごめんよ、姫様。あいつを見捨てたのはあたいだ。あたいのせいであいつは死んだ。姫様が助けられなかったのは仕方の無いことさ」
「……絶対、生きてるもん」
「もんってあんた……」
仮にも一国の姫の言葉遣いではない。
「だって、対等な位置にいるって、言ってたもん。私の弱音、受け止めてやるって言ってたもん」
「……姫様、あいつに口説かれたのかい?」
「っ! そ、そんなんじゃないわよ!」
顔を真っ赤にして否定するソルファ。それはむしろ分かりやすすぎる肯定だった。
そんなソルファを見て、ベネアルは一層胸を締め付けられる。
(一夜限りの初恋、かい)
少女趣味が過ぎる言い方だが、ソルファにとってはそういうことなのだろう。
世間知らずのお姫様が、異世界から来た少年に恋をする――絵本の世界の筋書きだ。二人は冒険の果てに結ばれて、めでたしめでたしで話は終わる。
だが――この現実に、ハッピーエンドは用意されていない。
「うぅ……おーかぁ……」
「……ごめんね、姫様」
遂には堪えきれず泣き出すソルファを、ベネアルはそっと抱きしめるのであった。