第1話 期待外れのジプシー
呼ばれているような気がして、冷泉院王化はふと目を開いた。
ぼんやりと歪む薄暗い視界と奇妙な浮遊感。思考がまとまらない。ああ、これは夢なのかもしれない――そんなことを思いつつ、王化は僅かな明かりに目を向ける。
幾つかの燭台に囲まれた、豪勢な天蓋付きのベッドがあった。広々としたそのベッドの上に、髭をたくわえた老人が眠っている。彼は浅く苦しげな呼吸をゆっくりと繰り返し、ときおり小さく咳き込む。
余命幾許も無い。そんな言葉が王化の脳裏に浮かぶ。事実、その老人は今この瞬間に息を引き取ってもおかしくないほどに衰弱していた。
ふと。王化はそのベッドの向こう側に、人影があることに気付く。
ベッドから伸びる細い老人の腕を、祈るように両手で握りしめるのは、金髪の少女だった。すすり泣いているらしく、少女はベッドに突っ伏しているのでその顔を窺うことはできない。しかし、銀のバレッタで纏めた腰まで届く金髪は、実った麦穂のような暖かな色彩を放ち、それだけでも王化の目を奪うには十分だった。
顔を上げないだろうか、と見下ろすこと少々。不意にすすり泣きが止み、少女は意を決したようにその顔を――
■
「――か。若。朝です、七時です、おはようの時間です」
「……いま、おきる」
肩をゆすられて目を覚ます。
上半身を起こし、欠伸と伸びを大きく一つ。王化は自分を揺り起した相手に目をやる。というより鼻先数センチの位置にその顔があった。
一つ縛りにした髪が良く似合う、純和風の端整な顔立ち。しかしながら一文字に結んだ口と、黒目の小さな三白眼のせいで少々近寄りがたい雰囲気はある。彼女の名は――
「近いぞ、しとね」
「失礼。朝の顔色チェックですので」
「んなこと頼んでないぞ」
「言われる前に即行動、できる女こと澪標しとねでございます」
「そのポーズやめろ」
奇妙なポーズをとるを決めるしとねをぐいと押して、王化は布団を出る。カーテンを開くと、夏らしい爽やかな朝日が差し込んできた。
本日七月二十五日、王化の通う高校では待望の夏休みの初日である。
「若、いつも思うのですが、着替え前にカーテンを開け放つのは如何なものかと。というより、カーテン全開で着替えるのは無防備が過ぎるのでは」
「この辺に建物など無いから構わんだろう。辺りは竹藪ばかりだし――そもそも、やくざの家のそばにわざわざ近寄る阿呆もいねえさ」
王化は窓の外を見渡しながら笑う。眼下には鯉が跳ねる池まである日本庭園と、黒塗りの高級車が並ぶ駐車場。そして高い塀と有刺鉄線で囲われた敷地の向こうには、一本だけの道路と鬱蒼とした竹藪が続いていた。
――ここは、この周囲一帯の裏社会を牛耳る冷泉院組の本拠地である。そしてこの冷泉院王化という少年は、組長である冷泉院栄華の一人息子であった。
「仮に迷った奴がいたとしても、すぐに若い衆が追い返すだろうよ。……それより、着替えだってのに居座るお前の方が問題だ。いつまでいる気だ」
「大丈夫です、私は見ているだけなので」
「出ていけ阿呆」
しとねを部屋から追い出し、王化は彼女が置いて行った甚平に着替える。特に家で義務付けられているというわけではないのだが、彼は休日は和装で過ごすことが多かった。
(甚平は楽で良いんだがねえ)
日本人はもっと和装を取り入れるべきだ、なんて思いつつ、王化は髪の毛を強引にオールバックにまとめる。そしていつも通り机に置いておいた鉄扇を持って部屋を出た。
廊下で待っていたしとねと共に一階へ。そして向かうのは家族のリビングではなく、「集会部屋」と呼ばれる縦長の宴会場のような部屋だ。畳敷きの部屋の中央に一列の卓袱台が置かれ、その両側に柄の悪い男たちがずらりと並び、がやがや騒ぎながら朝食をとっている。その様子はさながら温泉旅行に来たやくざ御一行、という感じである。
王化が中に入ると、それに気付いた者たちは思い思いに礼をする。わざわざ食事の手を止めて深々と頭を下げる者もいれば、茶碗を片手にフレンドリーに声を掛けて来る者もいる。王化はそれらに気軽く返しつつ、しとねと共に最奥の自分の席に着いた。
「おはよう、親父。――っち、まだ生きてやがったか」
「がはは、今日も朝っぱらから元気でなによりだぜ、クソ餓鬼」
王化の席の隣、つまり上座に座るのは筋骨隆々たる隻眼の大男。右目に眼帯を着けたその顔には、熊や猪を思わせる野性的な凄味と、大物然とした風格が同居している。この男こそが王化の父にして冷泉院組組長、冷泉院栄華である。
この王化の暴言はいつものことで、律儀に諫めるのはしとねぐらいだ。
「若、御当主にそのようなことを仰るのは如何なものかと」
「だって親父がくたばれば、この家丸ごと俺のものになるんだぜ? そうなりゃ俺が王様だ。立派な城と血気盛んな臣下までオマケでな」
その言葉に、周囲は呆れ混じりの優しい笑いをこぼす。上座の近くとなれば皆揃いも揃って幹部クラス、王化が赤子の頃から面倒を見てきた古参の者たちだ。
おれはおうさまになる――片手の指で足りる年頃から、王化は常々そう言ってきた。
いえのみんなをしあわせにする、りっぱなおうさまになってやる、と。
幼い頃からまるで変わらぬ志と、幼い頃とは見違えるほど成長した王化の姿に、血気盛んな臣下たちも笑みを禁じ得ないのであった。
「ははっ、オヤジィ、これは御隠居の日も近いんじゃねえですかい」
「馬鹿言え、こちとら生涯現役って決めてんだ。ったく、どいつもこいつもこのクソ餓鬼に入れ込みやがって……まだ高校生だぞこいつ。
ん? そういやお前の学校、今日から夏休みだろ。どうすんだ」
「どうする、ってのは?」
「なんかしねえのか。免許取ってバイク乗り回すとか」
「免許の取得は校則で禁止されてる」
「……やくざの息子が校則なんざ律儀に守ってんじゃねえよ」
変なとこ真面目だなあお前、と栄華は呆れて見せる。
(まあ、単にバイクとか車にあんまり興味無いだけなんだが)
あんなものはただの移動手段だ、というのが王化の考え方だった。
「だがま、どこか遠くに行きたいとは思っている」
「ほう? そりゃまたどこに?」
「特に決めちゃないんだがな。ただ、折角たまの休みなんだ、見聞を広めるのも良いだろう」
立派な王になるためにな、と付け加える王化。
まあ、要はちょっとした旅行がしたいのである。
「がはは、そうかいそうかい。いいぜ、金が必要ならある程度は出してやる。俺もお前ぐらいの頃に、ふらっと五年ほど旅に出たしなあ」
「そりゃ旅って言わねえよ。失踪って言うんだ」
「変わんねえ変わんねえ。ああそれと、もしパスポートが必要ってんなら二、三枚は作ってやれるぜ」
「一枚でいい」
指名手配とかされてないから。
そんな冗談かどうか微妙な会話をしていると、横からしとねが口をはさむ。
「もしどこかへ行かれるのなら、私もご一緒しますから」
「構わんよ。どうせ来るなっつっても来るだろうしな」
「言われなくてもついてくる、しつこい女こと澪標しとねでございます」
「そのポーズやめろ」
そんないつも通りのやりとり。
――しとねと王化の関係は、『幼馴染兼ボディーガード』というのが正解だろうか。彼女は組の幹部の娘で、たまたま同い年に生まれたのもあり幼い頃から王化とはよく遊んでいた。ある程度の年齢になると二人もお互いの父親の立場を理解しはじめ、更にしとねの父の教育、幼い頃二人にあった出来事などもあり、今では過保護な側役として冷泉院家に住み込みで王化に尽くすほどになっていた。
と、王化は思い出したようにしとねに話を振る。
「そういえば、お前は何か無いのか? 夏休みの予定とか」
「若のおそばにいます」
「いつも通りってことか。んじゃ尚更、たまにはどっか連れて行ってやらねえとな」
「家族サービスという奴ですね」
「ある意味家族っちゃ家族だがな……」
物騒なニュアンスの一味である。
■
呼ばれているような気がして、冷泉院王化はふと目を開いた。
ぼんやりと歪む薄暗い視界と奇妙な浮遊感。思考がまとまらない。ああ、またこの夢か――王化は朝と同じように僅かな光へ目を向けた。
幾つかの燭台は同じ、しかしそこに豪勢なベッドは無く、代わりに一つの人影があった。
銀のバレッタで纏めた、実った麦穂のような黄金の髪――後姿でも分かる、先程の夢の少女だ。王化に背を向けてその場に座り込んでいるため、少女の顔は相変わらず見えないが、何をしているかは辛うじて分かる。
(なにかを、描いているのか……?)
床なのか地面なのか、それすらも判然としないが、とにかく少女は座り込んだその場に直接なにかを描き込んでいるようだった。
一心不乱に、黙々と。
チョークかなにかが削れる音と、少女の真剣な息遣い。そして時折ぽつんと、汗が床に落ちる水音が響く。
どれ程経っただろうか。
息遣いが嗚咽に変わり、その水音の間隔が徐々に短くなり、絶え間なく、まるで雨のように絶え間なく続いて――
■
雨だった。
窓を打つ水音に目を覚ませば、朝のうちは快晴だったはずの空はすっかり重々しい灰色に変わっていて、外は滝のような雨が降っていた。
(なんだか、妙な夢を見た気がする)
よく思い出せないが、まあ夢なんてそんなものか――と王化は自分を納得させる。
昼寝後の気怠さを抱えながら、雨の様子を確認するため窓際に歩み寄る。どうやら突然の夕立だったらしく、庭では家に居た連中が大慌てで洗濯物を取り込んでいて、その中にはしとねの姿もあった。
タオルでも用意してやるか、と一階へ向かおうとして、王化はふと立ち止まる。視界の隅、窓の向こうの竹藪で、人影を見た気がしたのだ。
まさかと思いつつ凝視してみると、たしかに誰かいる。それも子供のような人影が、土砂降りの雨の中佇んでいるのだ。
(なにやってんだ、あのガキは……?)
その出で立ちもまた奇妙なものだった。純白の浴衣を身にまとい、顔には赤い天狗の面を着けているのだ。
(あのわけの分からん格好、絶対堅気の人間じゃねえだろうが……つっても、他の組があんなガキを寄越す意味も分からん)
と。
突き出た天狗の鼻が、くいと王化の方を向く。窓一枚とお面越しに、二人の視線が合う。
その瞬間、だった。
(――呼ばれている、ような)
声も無く、言葉も無く、ただそんな気がした。
行かなくては。
理由は分からない。しかし焦燥感のようなものに突き動かされて、王化は夢遊病の如く覚束ない足取りで部屋を出ていく。廊下を進み、階段を降り、草履を突っ掛けて傘もささずに外へ出る。
(なんだ、これは……俺は、なにをしている……?)
自身の意思とは関係なく身体が動く。王化は理解できない力によって操られていた。
少年のもとへ行かなくては。あの天狗の面の少年のもとへ。
王化の意思を塗り潰すように、焦燥感は大きくなっていく。歩みが早足になる。
「――っ、え、若!? ど、どうしたんですか!?」
「し、とね……」
声を掛けられ、正気に戻って振り向いたのもほんの一瞬。王化はすぐに向き直り、少年のもとへと急ぐ。
「行かないと……あの、天狗の……」
「ちょ、若っ、なにを!? 今傘をお持ちしますから、待っててください!」
「天狗の、面の……」
無理矢理にでも引き止めなかったのは、あくまで王化の意思を尊重しようとしたしとねの忠誠心故だ。しかしこの時ばかりはその忠義が仇となった。
大急ぎで傘を取りに走るしとねを置いて、王化はもはや小走りで屋敷を出ていく。門を抜け、雨にぬかるむ竹藪に分け入ってゆく。
雨に霞む視界の中、それでも純白の浴衣ははっきり見えた。王化の姿を認めるや否や、天狗の面の少年は誘うように駆け出す。
「――こっちだよ、こっち」
舞うように竹藪を駆けていく天狗の面の少年を追う。既に王化の理性はどこかへ消えて、雨に打たれながら無心でその背を追っていた。
どれ程走っただろう。いつの間にか周囲がまるで見慣れぬ風景に成り果てた頃、不意に天狗の面の少年が止まる。王化は息も絶え絶えになりながら、ようやくその肩を掴み――
その瞬間、この世界から冷泉院王化は消滅したのだった。
■
頬に何かが触れる感覚で、王化は目を覚ます。
「ん、なん、だ……?」
いつ眠ったんだっけか――ぼやける頭で記憶を探りながら、ゆっくりと重い瞼を開く。すると鼻先数センチの位置に、まるで見たことの無い人の顔があった。
「っうぁああああぁああああ!?」
「××××××××××××!?」
悲鳴を上げたのは両方だ。王化は思わずずりずりと後ずさり、相手の少女も同じように飛び退く。
少女――そう、相手は王化と同じくらいの少女であった。どうやら西洋人らしく、端整に整った顔の中にサファイアのような大きな碧眼が輝いている。彼女は豪勢な赤いドレスを身に纏い、その赤色が腰まで伸びた艶やかな金髪を引き立たせていた。
――実った麦穂のような、暖かな黄金色。
(あれ、この女……)
銀のバレッタで纏められたその髪を見て、王化は夢に見た少女を思い出す。そしてその両者が同一人物だと、自分でも不思議なくらいあっさりと確信した。
ならばこれは夢なのか、と王化は辺りを見回す。
夢と同じく、幾つかの燭台に照らされた薄暗い空間に彼はいた。しかし今までの二回とは比べ物にならないほど感覚が鮮明だ。地下室特有の湿った空気、蝋燭の火の揺らめき、そして石畳の地面から伝わる冷たさ――どれをとっても嫌にリアルである。
そして、もう一つ今までの夢との違いとして、少女の後ろに見知らぬ二人の男の姿があった。一人はローブのようなものを羽織り、モノクルを掛けた長身痩躯の西洋人。もう一人はジーンズにTシャツというラフな格好をした、中年の東洋人だった。
「夢、なのか……?」
「××××?」
王化の呟きに、少女が何やら反応する。しかし彼女の口から出る言葉は、王化にはまるで理解できない未知の言語だった。
東洋系の言語の響きでないことは確かだが、かといって英語やフランス語の雰囲気でもない。全く聞き覚えの無い発音である。
眉を潜める王化に、少女ははっと気付いたような顔をする。そしてドレスのポケットから手のひらほどのサイズの何かを取り出すと、王化に歩み寄りそれを差し出してくる。
「? 受け取れってのか?」
「××」
恐る恐る手を差し出すと、少女はそれを王化に握らせる。
見てみると、それは細長いカプセル型のガラス塊だった。無色透明なその中には、全長四~五センチほどの羽が生えた妖精のような人形が埋め込まれている。
「なんだこりゃ。どこの土産だ」
「――それは、言語妖精というものよ」
と。
目の前の少女は、はっきりとそう答えた。
今まで異言語を話していた少女が、非常に流暢な日本語を話し出したことに、王化は驚きを隠せない。
「っ!? な、なんだお前、日本語喋れたのか?」
「ニホン語? ああ、貴方の言葉はそういう名前なの。――いいえ、違うわ。私が話しているのはオリアボス語、貴方が私の言葉を理解できるようになっただけ」
「は? 理解できるように、なった? お前、さっきから何言ってんだ?」
「後で説明はするわ。ガイアス、解析をお願い」
戸惑う王化をあしらいつつ、少女は後ろの西洋人の青年に声を掛ける。するとガイアスと呼ばれたその男は、少女と入れ替わりに王化の前に立った。
失礼します、とガイアスは王化の肩に手で触れる。
「な、なにをする?」
「落ち着いて。危害を加えるつもりはありません。ただ、あなたについて少々調べさせてもらうだけです」
ガイアスはそう言うと、そのまま静かに目を閉じる。そしてそれと同時に、彼の手が触れている王化の肩がじんわり熱を帯び、発光し始める。
なんだこれは――王化が問う間も無く熱と光は増していって、あっという間に王化の全身を包み込む。まるで輝く湯船に全身浸かっているような、そんな感覚に包まれることしばし、ガイアスは「分かりました」と言うなりその手を離す。
その途端、熱も光もすっと消える。全身ずぶ濡れなのもあって、王化は思わず身震いする。
(って、そういえばなんで俺、こんな濡れ鼠に……ああ、そうだ)
天狗の面の少年。半ば正気を失ったまま、王化はその背中を追いかけてきたことを思い出す。そしてようやく捕まえたと思えば気を失い、気付けばここにいるというわけだ。
とすれば、一体どこから夢なのか。
――そもそも、本当に夢なのか。
王化のそんな疑問を遮るように、ガイアスが告げる。
「姫。この者の受けた加護は『増幅』――残念ながら、お望みのものではありません」
「……そう」
その報告に、少女は短く答える。しかしその一言には隠しきれない失望が滲んでいた。
またか、と言わんばかりの表情に、王化は思わずむっとする。
「おい、あんたらいったい何なんだ? いきなりわけの分からん事ばかり並べて、挙句に人の顔見て溜息とは随分じゃねえか」
「……そうね、非礼は詫びるわ」
「んな言葉で済めば誰も小指なんざ落とさねえよ。納得できる説明をしろってんだ」
「っ、貴様、姫になんて口を――!」
「やめなさい、ガイアス。その者の言い分が正しいわ」
掴み掛らんとするガイアスをぴしゃりと制し、少女は片膝をついて王化に向き合う。
臆すことなく視線を合わせるその双眸は、清く深く澄んでいる。彼女はポケットから高級そうなハンカチを取り出し、それで濡れた王化の頬を拭いながら、はっきりと言い放つのだった。
「――ここは、純潔の王国オリアボス。貴方たち遠き地の者が言うところの、異世界よ」