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八回目

―私は…私であり続けたいの…。消えたくない。自分を見失いたくはないの。

「……」

アリスの最後の言葉が、俺を不思議と責めたてる。

その言葉たちは、俺の志向に隙間なく入り込み、考えをやめることを許さない。

だから、あれからの一週間、俺はひたすら考え続けた。

自分が、自分である、ということを。

ひたすら考えた。生まれてから今までを何度も思い返した。成功も挫折もなにもかも洗いざらい。それでも俺は、なかなか見えそうで見えない自分の本心を見ようとはしなかった。すっかり見えるところまで出てきてくれているそれを、それでも見るのが怖かった。

怖かった。

そう、俺はただ、怖いからという理由を探すだけで、こんなにも月日を重ねていたのだ。

そのことに気が付いたら、昨日、夢を見た。

いつもは俺に優しいはずの夢が、昨日はどこまでも正直だった。

それは、俺がダグに銃を向け、ダグが俺に何か言う、いつもの場面だった。そして俺は、いつものように、ダグが何と言うのかは、分からないのだろう、と決めつけていた。

しかし、その日は違った。

ダグの血走ったような必死な目が、俺を叱るモリナガさんの目とダブり、次に、泣きだしそうに、歪んだアリスの目とダブった。

どきりとして、銃口が不自然に震え、冷や汗が止まらない。

怖い。怖い。

恐怖に耐えられなくなり、俺が目をつぶった瞬間、夢の中のダグが叫んだ。

そして、今までは思い出せなかった「あの言葉」を、はっきりと、大声で。


―俺が裏切った?違う。あなたが己自身を裏切ったんだ!


まるで、三人共に言われたような感覚に飛び起きた。

全身がガタガタと震え、生まれて初めて、自分で自分の体を抱きしめた。しかし、その行為は、ただただ腕まで震えさせるだけに終わった。恐怖は薄れることはなく、しばらく、毛布の一点を見つめ、じっとしていた。すると、不意に、視線を感じて、顔をあげた。

アリスが少し離れたところに佇んでいた。

初めて視界に入れた時と同じ、純白のドレスを着て。

「…・おはよう、アリス」

俺が取り繕うように声をかけると、アリスは、暗い顔をして、「おはよう」と返した。元気がない様子が心配になり、ベッドから降り、アリスに近づいた。すると、アリスは逃げるように後ろへ下がった。

想像していなかった拒絶に、思いのほか打ちひしがれながら、俺は伸ばそうとした手をだらりと下げた。

そして、俺は自分が本当はどういう人間なのかアリスに知られてしまったのだろうと思った。そして、だったら、嫌われてもしょうがないと、勝手に決め付けた。

さっさといなくなるか、別れのあいさつでもされるだろうと思っていたのに、アリスは何も言わないまま、じっと立ちすくんでいる。

「…・」

「……」

沈黙が続き、俺はその沈黙を消し去りたいと思いながらも、アリスとの時間が終わってしまうことが怖くて、何も言うことができなかった。

どれくらい経っただろうか、アリスがようやく重い口を開いた。

「……私のこと…嫌いになった?」

か細い声はそれでも俺の鼓膜に届き、俺はその言葉の意味を、なかなか理解できなかったその言葉を理解し、そして、どうしてそんなことを言うのかわからずに、困惑した。

しかし、それでも、見捨てないでとでもいうように、縋った瞳で見つめられ、俺はどうして?という疑問よりも先に、気がつけば、アリスを安心させることだけ考えていた。

「どうして嫌いになるだなんて思ったんだ?俺がアリスを嫌うわけないだろう。」

しゃがんで目線を会わせながらそう言うと、アリスは、更に泣きだしそうになりながら、両手でギュッとドレスの裾を握りしめ、

「だって…・私、お化けなんだよ?もう死んでるのに、まだこの世にいるんだよ?神の教えに背いているんだよ?」

今さら過ぎることを訴えてきた。

俺にしてみれば、アリスが幽霊であることは、明白すぎる事実で、幽霊であるという事実を認められたからこそ、受け入れられた存在であるのに、そんなことは、本当に、今さらとしか言いようがない。神の教えがどういうものかわからないが、本当に神がいるならとっくにアリスをどうにかしているだろうし、現世を彷徨っている幽霊なんて、それこそよく聞く話だ。

しかし、そんな説明を長々とするわけにもいかないし、説明できる自信もないので、俺は、思ったままの、俺の感情を伝えることにした。

「…アリスが何であっても、俺にとっては大事な友人だ。それには何の変わりはないよ。アリスが居てくれるから、今の俺があるんだ。嫌うなんてありえない。」

「本当に?」

窺うように、涙で縁取られた瞳が揺れた。

「…あぁ、娘のように愛しているよ。君がここにいてくれて、心から嬉しい。」

ゆっくりと房の中に入ってきたアリスの、小さな手を、両手でしっかり握りしめながら伝えると、アリスは不器用に笑った。そして、その衝撃で、目じりから零れ落ちた涙の粒が、俺の手を伝った。

「…」

その瞬間、弾かれたように、俺の中の無意識に見ないようにしていた感情が堰を切ってあふれた。そのあまりの衝撃に俺は、目を見開いて、心を開くという行為における、幸せな激痛をこらえた。


自分らしく生きてきたつもりだった。

信念を曲げずに、信念に背かず、それこそ、自分らしくあるために生きてきた。

はずだった。

はずだったのに。

俺は…、俺は自分を見失っていた。いや違う、自分を省みることをしなくなっていた。自分が自分であることを考えもしなくなっていた。

しかも、そうなってしまったことにうすうす気が付いていながら、目をそむけていた。

だから、俺は、ダグを殺した。

俺が目をそむけていた部分を、真っ直ぐに糾弾したダグが怖かった。脅威だった。恐ろしかった。

あぁ、俺を嫌っていた大佐も同じような気持ちだったのだろう。今さらわかったところで意味などないし、正直、できれば一生分かりたくはなかった。

正論を口にされる怖さ。

正論を口にする怖さ。

正しいことばかりを選んでは生きていけはしない、この世をわかっていたからこそ、正論だけで生きて行こうと思っていた自分の浅はかさ。傲慢さ。

そして、間違いを指摘され、力でねじ伏せた。

ダグは、あの時の俺で、俺はあの時の大佐になったのだ。

「……ダグ」

つぶやいて俯けば、自然と、涙があふれた。

湧き出る水のように、自分では制御できないところで涙が止まらない。

そう言えば、俺は、泣いたのはいつぶりだろうか?

そう言えば、俺は泣いてやっただろうか?あいつらのために。

涙を流してやっただろうか?泣いて悲しんだだろうか?

「…っふ…っ」

そもそも、泣いてやることが、政府をどうにかしようと考えることなんかより、ずっとずっと前にしなければならないことだった。

俺は本当に、愚かだ。

結局、政府を変えることもできずに、私欲に溺れた。

「うぅ…」

ぽんぽん

と、泣いている俺の頭を、誰かが優しく撫でた。

その小さくてやわらかな感触は、俺の全身にしみわたり、俺は、顔を上げることなく、泣き続けた。

その手はずっと、俺の頭を撫でてくれた。

勘違いでも良い、その時のアリスの手は確かにそこに存在していて、暖かかった。

暖かかったんだ。

「…ありがとう。アリス…」

ようやく落ち着いた俺がそう言って、顔を横に向けると、そこには誰もいなかった。まるで、一度も存在していなかったかのように自然に。

だから、俺は、今度こそ、二度とアリスには会えないのだろう、と勝手に思った。


                                      九回目にいくの




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