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・細かいことは気にしないでください
「ゲホッゲホッ……」
嫌な咳だ。イワンは不快感と共に目を覚ました。ベッドの薄い布団を引きはがし、上体を起こす。
歪んだ窓枠の向こうから朝日が小さな筋となって部屋に差し込んでいた。
窓の木戸を開ける。もちろんガラスなんて気の利いたものは嵌っていない。
朝の清新な空気が部屋に流れ込んでくる。少し寒い。
安宿の小さな部屋にはベッドと戸棚が一つ、そして飾りも何もない長剣が一本壁にかかっている。
イワンはもう半年も使っているその無骨な商売道具を見やって独りごちた。
「クソッ、忌々しい。瘴気を吸ったか」
戸棚の上に置いてある浄気の護符を見やる。ずいぶんと薄汚れている。完全に真っ黒になっても交換しない奴もいるが、イワンは早めに交換するようにしていた。瘴気で肺をやられるのは勘弁だ。
瘴気病みは冒険者たちの職業病である。暗くじっとりと湿った迷宮の中で瘴気を吸い込み続けると、冒険者たちは血を吐くようになる。神殿で治療してもらうにはとんでもない大金がかかるし、浄気の護符も安くは無いのだ。
イワンは朝の光の中で装備をチェックし始めた。照明代がもったいないので、朝にやるのが習慣になっている。長剣は鋳鉄で作られており、長さは自分の身長の半分ぐらいで、ずっしりと重い。普通は刃の部分に焼きを入れて切れ味を改良するのだが、硬化した刃の部分はとっくの昔に剥がれ落ちており、ほとんどぶっ叩くだけの代物である。
もう一つ、刃渡りが手のひら2枚分ほどの短剣も持っている。こちらは高かったが刀身が鋼でできており、切れ味は良好だ。魔物の戦利品の剥ぎ取りに使っている。
防具は硬化皮革の鎧とすね当て、手甲、身体半分を覆うぐらいの木の盾、そして全身を覆う灰色がかったマントである。どれも大小の傷が無数に入っているが、致命的なものはなさそうだ。
応急措置のための蒸留酒と薬草の類もまだあるし、ロープや松明、火打ち石もある。水筒替わりの皮袋も痛んではいない。最後に戦利品をいれるための背負い袋にほつれや穴の開いていないのを確認する。
イワンは存分に装備を改めると、ゆっくりと装備一式を身に着けた。鎧を着こみ、道具類を背負い袋に入れ、そして部屋を出て施錠する。この部屋は月単位で借りているし、そもそも掃除やシーツ交換のサービスなど無いので宿の人間も入る必要はない。とにかく何も入り込まないならそれでいいのだ。
~ ~ ~
イワンは階下に降りていく。
一階は大部屋だ。食堂を兼ねており、宿屋の主人がカウンターで安酒とパンを売っている。大部屋のあちこちでは冒険者たちが淀んだ目をして転がっている。
まるで死んだ魚のようだな。イワンは冒険者たちを見据えて思った。
彼も昔は大部屋で雑魚寝していたのだが、置き引きに遭ってから一番安い部屋を借りるようにしていた。大部屋で寝るような冒険者たちは基本的にその日暮らしのため、装備一式を身に着けて剣を抱いて寝ていれば取られるようなものもないのだ。 イワンが部屋を借りるようになったのは貯金をするようになったからだ。とりあえずカギがかかればそれでいい。
「ゴホゴホゴホッ!!」
「……爺さん大丈夫か?」
「誰がジジィ…ゲホッ」
カウンターの端に寄りかかっているボロボロの鎧を纏った冒険者の口の端から血が一筋伝っている。瘴気にやられているのだ。
イワンが覚えている限り、彼はたしかまだ40前のはずだが、頭はすっかり白くなっており、顔には皺が寄って、手の指はごつごつとしている。
もう長くは無いだろう。
イワンはそんなことを考えながら、銅貨を2枚だして朝食を頼んだ。宿屋の主人はむすっとしながら金を受け取ると、カウンターの奥に合図をする。婆さんがよろよろとビールと黒パン、皿に乗せた塩漬け肉と酢漬けの野菜を持ってきた。朝からビールを飲むのは酒が好きなわけではない。水質が悪いためアルコール類ぐらいしかまともに飲めるものが無いのだ。
同じ食べ物でも妙齢の女の子が持ってくるなら、味も変わってくるんだがな……
イワンは塩と酢の味しかしない食べ物を詰め込みながら考える。だが、考えても仕方がない。
この宿の看板娘は「加護持ち」の冒険者が連れて行ってしまったのだ。宿屋の主人はそれ以来、笑わなくなった。
イワンは朝食を食べ終わると、ビールを煽った。少し水っぽい。1割ぐらい水増しされてるか、まだマシなほうだな。昼食用にビールを水筒に詰めてもらい、パンと干し肉を買って銅貨2枚を払った。今日はまず神殿に行かなければ。
~ ~ ~
このチェムニツァの街にはそれぞれ違う信仰の神殿が3つあり、お互いに仲が悪い。
イワンはそのうちの一つ、ソーンツェの神殿に通っている。別に信心しているわけではない。宿から一番近いのだ。
白い塔の上に黄色い円を乗せた神殿の門をくぐる。神殿の中は礼拝堂になっており、熱心な信者たちが祈りをささげている。
入口を入ってすぐ右にカウンターがあり、黄色い丸を象った白い帽子をかぶった神官が無言で突っ立っている。
「浄化の護符をくれ」
「銀貨10枚だ」
イワンが銀貨を渡すと、神官は無言で銀貨をジロジロと調べはじめた。贋金でないことを確認し終わったのか、神官が護符をカウンターの上に放り投げる。イワンは無言で護符を拾って外へでようとした。
「お兄さん、お祈りはしていかないのかえ?ソーンツェさまの祝福で魔物との戦いも楽になるよ?」
人のよさそうな信者の婆さんが声をかけてくる。
ああ、そんなことは知ってるさ。あと冒険者が祝福をもらうのには銀貨がたっぷり必要なこともな。あんたらカタギとは違うんだ。
「悪いね、おっかさん。今日はちょっと忙しいんだ」
嘘ではない。冒険者は迷宮にいかなければ、飢えて死んでしまう。
婆さんはすこし残念そうに、イワンに声をかけて見送った。
「ああ、お兄さんをソーンツェさまがお見守りくださいますように!」
ありがとう、気は楽になったよ。何の効果もないけどな。
迷宮に行かなければ。