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麦畑の領主さまは、平民のわたしを見初めて溺愛してくださる。長命のエルフのそばは、いつも不思議なほど静かで——夏風に鳴る『麦の穂ずれ』と、わたしの声だけが、やけによく響くのです

作者: 蜜月 憂
掲載日:2026/07/22

さわさわ、と。


夏の風が、麦畑を、渡っていきます。


金色の穂が、いちめん、波のように、揺れて。


さわ、さわ、と、涼やかな音を、立てる。


麦の穂ずれ。


わたしが、いちばん、好きな音です。


わたし――リナは、この、のどかな辺境の、平民の娘。


畑仕事の合間に、いつも、こうして、歌をうたっていました。


その日も、麦の穂ずれに、合わせて、鼻歌を、うたっていたら。


「――いい声だ」


すぐ、うしろで。


そんな、声が、しました。


「え……っ」


振り返って、わたしは、息を、呑みました。


淡い金色の、長い髪。


若葉のような、瞳。


そして、髪のあいだから、すっと、伸びた、長い、耳。


——エルフ。


しかも。


この、麦畑の広がる領地を、治めておられる。


長命の、領主さま、その人だったのです。


「あ、あの、わたし、その、畑の……」


しどろもどろの、わたしを。


領主さまは、若葉色の瞳で、じっと、見つめて。


「きみの、その声を」


ふ、と、微笑みました。


「もっと、そばで、聴かせて、くれないか」



それから、わたしの暮らしは、まるで、おとぎ話みたいに、変わりました。


麦畑の、平民の娘が。


領主さまの、お屋敷に、招かれて。


それはもう、大切に、大切に、甘やかされる。


「リナ。今日は、何を、うたってくれる?」


「ええと……じゃあ、麦刈りの歌を」


「ああ。……聴かせておくれ」


領主さまは、わたしが、歌をうたうと。


いつも、それはそれは、しあわせそうに、目を、細めるのです。


長命のエルフの、時間の感覚は、人とは、違うのでしょう。


領主さまは、たいてい、とても、静かで、超然と、なさっています。


けれど、わたしの歌を聴くときだけは。


まるで、はじめて、雨あがりの虹を見た、子どものような、顔を、なさる。


「もう。……そんなに、褒められると、照れます」


「ほんとうのことだ」


領主さまは、そっと、わたしの頬に、手を、添えました。


「きみの声は、この世で、いちばん、美しい。……わたしは、そう思う」


長い時を、生きてきた、このお方が。


平民の、わたしの、歌なんかを、そんなふうに、言ってくださる。


わたしは、うれしくて、うれしくて。


——ただ、一つ。


このお屋敷には、ずっと、拭えない、不思議が、ありました。



領主さまの、おそばは。


いつも、不思議なほど、静かなのです。


はじめは、辺境の、のどかさの、せいだと、思っていました。


けれど、それに、しては。


——静かすぎる。


たとえば、市に、買い物に、出たとき。


本当なら、そこは、人の声で、あふれているはず。


呼び込みの声。


値切る声。


噂話に、笑い声。


なのに。


領主さまと、腕を組んで、歩いていると。


そういう、ざわめきが。


ふつり、と。


まるで、耳を、ふさがれたみたいに、消えて、しまうのです。


聞こえるのは、ただ。


さわさわ、と、遠くで鳴る、麦の穂ずれと。


わたし自身の、声だけ。


「領主さま」


わたしは、あるとき、尋ねました。


「あなたのおそばって……どうして、こんなに、静かなんですか?」


領主さまは、ほんの少しだけ、間を、置いて。


「……わたしが、エルフだからだよ」


そう、微笑みました。


「エルフの領地は、そういうものだ。……気に、しなくていい」


「ふうん……そういうもの、なんですね」


わたしは、そのときは、素直に、頷きました。


だって、静かなのは、心地よかったから。


——けれど。


ある日。


わたしは、見て、しまったのです。



市で。


道の、向こうから。


わたしを、指さして、何か、囁いている、女の人たちが、いました。


その、顔つきで。


わかりました。


きっと、こう、言っているのです。


「平民のくせに、領主さまに、取り入って」とか。


「身のほど知らずな娘」とか。


そういう、意地の悪い、言葉を。


わたしは、思わず、身を、すくめました。


平民の娘が、領主さまに、見初められたのです。


そんな、陰口くらい、覚悟は、していました。


——けれど。


次の、瞬間。


女の人たちの、口が、たしかに、動いているのに。


その、声が。


わたしの耳には、ひとつも。


届か、なかったのです。


まるで、そこだけ、世界から、音が、消えたみたいに。


さわさわ、と。


麦の穂ずれ、だけが、遠くで、鳴っている。


「……領主さま」


わたしは、隣を、見上げました。


領主さまは、静かな顔で、まっすぐ、前を、見ていました。


その、若葉色の瞳が。


ほんの一瞬、なにか、深いものを、宿したのを。


わたしは、見て、しまったのです。



その夜。


わたしは、思いきって、尋ねました。


「領主さま。……あの、市での、こと」


麦畑を望む、窓辺で。


領主さまは、静かに、わたしを、見つめました。


「あの人たち、たしかに、何か、言ってたのに。……声が、聞こえなかったんです」


「……」


「ねえ。あなたのそばが、こんなに、静かなの。……本当は、"そういうもの"じゃ、ないんでしょう?」


領主さまは、しばらく、黙って。


やがて。


観念したように、ふ、と、目を、伏せました。


「……気づかれて、しまったか」


さわさわ、と。


夜風に、麦の穂ずれが、鳴りました。


「わたしはね、リナ」


領主さまは、静かに、語りはじめました。


「長く、生きすぎた」


「……はい」


「何百年も、人の世を、見てきた。……そのあいだ、耳に、届くのは。醜い、諍いの声。妬みの、囁き。心にもない、お世辞。……そういう、雑音ばかりだった」


その、若葉色の瞳が、遠くを、見ました。


「わたしは、ずっと、倦んでいた。……この世の、あらゆる、音に」


さわ、と。


麦の穂ずれ。


「そんなある日。……麦畑で、きみの、歌を、聴いた」


領主さまは、わたしを、まっすぐに、見つめました。


「久しぶりに、思ったんだ。……ああ、この世にも、まだ、こんなに、美しい音が、あったのか、と」



「だから、わたしは」


領主さまは、そっと、わたしの手を、取りました。


「決めたんだ。……この声を、二度と、汚させない、と」


「汚させ、ない……?」


「きみの、まわりの、音を。……ぜんぶ、消した」


さわさわ、と。


麦の穂ずれが、鳴っています。


「街の、ざわめきも。きみを、蔑む、噂も。悪意ある、囁きも。……ひとつ残らず、魔法で、消した」


わたしは、息を、呑みました。


「残したのは、二つだけだ」


領主さまは、囁きました。


「麦の穂ずれと。……きみ自身の、声だけ」


——ああ。


だから。


領主さまの、おそばは。


いつも、あんなに、静かだったのです。


この世の、あらゆる、雑音を。


このお方が、わたしのために、消して、くれていたから。


聞こえるのは、いちばん、美しい音――麦の穂ずれと、わたしの声だけに、なるように。


「……こわい、か」


領主さまが、静かに、尋ねました。


「世界の音を、勝手に、奪う、こんな男が」


わたしは、しばらく、答えられませんでした。


こわくない、と言えば。


それは、嘘に、なります。


でも。



「……領主さま」


わたしは、顔を、上げました。


「わたし、ずっと、不思議だったんです」


「なに、を」


「平民のわたしを、どうして、こんなに、大事にしてくださるのか」


わたしは、領主さまの、頬に、手を、添えました。


「それに……市で、あの人たちの、悪口が、聞こえなかったとき。……本当は、少し、ほっと、したんです」


領主さまの、瞳が、揺れました。


「わたし、こう見えて、けっこう、気に、しいで。……陰口とか、こわくて」


わたしは、へへ、と、笑いました。


「なのに、あなたのそばだと。……そういうの、なんにも、聞こえなくて。心が、すごく、軽くて」


「リナ……」


「わかったんです。あなたは、わたしから、無理やり、何かを、奪ったんじゃない」


さわさわ、と。


麦の穂ずれが、優しく、鳴りました。


「わたしを、いやな音から、守ってくれてたんですね。……こわいくらいに、大事に」


領主さまは、大きく、目を、見開いて。


「怒らない、のか」


「怒る?」


わたしは、首を、振りました。


「だって。……この世のだれよりも、わたしの声を、好きでいてくれたって、ことでしょう?」


わたしは、にっこり、笑いました。


「そんなの、うれしいに、決まってます」



領主さまは、わたしを、そっと、抱き寄せました。


その腕が、かすかに、震えていました。


「……離さないよ、リナ」


耳元で、囁く声が、しました。


「きみの声を、汚す音は、これからも、ひとつも、届かせない」


「はい」


「きみの世界には。……いちばん、美しい音だけ、残す。麦の穂ずれと。……きみの、歌だけを」


「はい。……うれしい」


わたしは、領主さまの胸に、頬を、寄せました。


「そのかわり」


わたしは、囁きました。


「ずっと、そばで、聴いていてくださいね。……わたしの歌」


「ああ。……もちろんだ」


領主さまは、はじめて、泣きそうな顔で、微笑みました。


「何百年でも。……きみの声だけを、聴いていたい」


さわさわ、と。


夜風に、麦の穂ずれが、鳴っています。


その、静かな、静かな、世界のなかで。


わたしの声だけが、澄んで、響いていました。



それから、幾度、麦の実る夏が、めぐったでしょう。


わたしは、今も、この麦畑で。


長命のエルフの領主さまと、しあわせに、暮らしています。


わたしのまわりは、あいかわらず、不思議なほど、静かです。


でも、もう、その理由を、わたしは、知っています。


この静けさは。


このお方が、わたしのために、作ってくれた。


いちばん、優しい、繭なのだと。


夏の宵。


麦畑を、二人で、歩きながら。


領主さまは、わたしを、そっと、抱き寄せて、囁きます。


「歌っておくれ、リナ」


「もう。……また、ですか?」


「ああ。……何度でも、聴きたい」


わたしは、くすくす、笑って。


それから、そっと、口を、開きます。


さわさわ、と、鳴る、麦の穂ずれに、合わせて。


わたしの声だけが、この、静かな世界に、澄んで、響く。


このお方が、わたしの声を聴くために、どれほど深く、途方もなく、世界の音を消したのか。


——それでも。


いいえ。


だからこそ。


わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。


さわさわ、と。


今日も、麦の穂ずれが、鳴っています。


わたしと、領主さまの、二人きりの。


いちばん、静かで、いちばん、あたたかい、世界のなかで。

蜜月 憂です。今回は、甘々スローライフ「エルフ領主×麦の穂ずれ」。長命のエルフのそばが不思議なほど静かな理由——それは、人の世の喧噪と悪意に倦んだ彼が、平民の娘の澄んだ声を何より愛し、その声を汚す世界の雑音をぜんぶ魔法で消していたから。残したのは、麦の穂ずれと、彼女の声だけ。ヒロインは最後まで傷つかず、いちばん優しい繭の中で愛されて幸せです。甘くて、静かで、ちょっとだけゾクッとする——そんな夏は、いかがでしたか?

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