麦畑の領主さまは、平民のわたしを見初めて溺愛してくださる。長命のエルフのそばは、いつも不思議なほど静かで——夏風に鳴る『麦の穂ずれ』と、わたしの声だけが、やけによく響くのです
さわさわ、と。
夏の風が、麦畑を、渡っていきます。
金色の穂が、いちめん、波のように、揺れて。
さわ、さわ、と、涼やかな音を、立てる。
麦の穂ずれ。
わたしが、いちばん、好きな音です。
わたし――リナは、この、のどかな辺境の、平民の娘。
畑仕事の合間に、いつも、こうして、歌をうたっていました。
その日も、麦の穂ずれに、合わせて、鼻歌を、うたっていたら。
「――いい声だ」
すぐ、うしろで。
そんな、声が、しました。
「え……っ」
振り返って、わたしは、息を、呑みました。
淡い金色の、長い髪。
若葉のような、瞳。
そして、髪のあいだから、すっと、伸びた、長い、耳。
——エルフ。
しかも。
この、麦畑の広がる領地を、治めておられる。
長命の、領主さま、その人だったのです。
「あ、あの、わたし、その、畑の……」
しどろもどろの、わたしを。
領主さまは、若葉色の瞳で、じっと、見つめて。
「きみの、その声を」
ふ、と、微笑みました。
「もっと、そばで、聴かせて、くれないか」
*
それから、わたしの暮らしは、まるで、おとぎ話みたいに、変わりました。
麦畑の、平民の娘が。
領主さまの、お屋敷に、招かれて。
それはもう、大切に、大切に、甘やかされる。
「リナ。今日は、何を、うたってくれる?」
「ええと……じゃあ、麦刈りの歌を」
「ああ。……聴かせておくれ」
領主さまは、わたしが、歌をうたうと。
いつも、それはそれは、しあわせそうに、目を、細めるのです。
長命のエルフの、時間の感覚は、人とは、違うのでしょう。
領主さまは、たいてい、とても、静かで、超然と、なさっています。
けれど、わたしの歌を聴くときだけは。
まるで、はじめて、雨あがりの虹を見た、子どものような、顔を、なさる。
「もう。……そんなに、褒められると、照れます」
「ほんとうのことだ」
領主さまは、そっと、わたしの頬に、手を、添えました。
「きみの声は、この世で、いちばん、美しい。……わたしは、そう思う」
長い時を、生きてきた、このお方が。
平民の、わたしの、歌なんかを、そんなふうに、言ってくださる。
わたしは、うれしくて、うれしくて。
——ただ、一つ。
このお屋敷には、ずっと、拭えない、不思議が、ありました。
*
領主さまの、おそばは。
いつも、不思議なほど、静かなのです。
はじめは、辺境の、のどかさの、せいだと、思っていました。
けれど、それに、しては。
——静かすぎる。
たとえば、市に、買い物に、出たとき。
本当なら、そこは、人の声で、あふれているはず。
呼び込みの声。
値切る声。
噂話に、笑い声。
なのに。
領主さまと、腕を組んで、歩いていると。
そういう、ざわめきが。
ふつり、と。
まるで、耳を、ふさがれたみたいに、消えて、しまうのです。
聞こえるのは、ただ。
さわさわ、と、遠くで鳴る、麦の穂ずれと。
わたし自身の、声だけ。
「領主さま」
わたしは、あるとき、尋ねました。
「あなたのおそばって……どうして、こんなに、静かなんですか?」
領主さまは、ほんの少しだけ、間を、置いて。
「……わたしが、エルフだからだよ」
そう、微笑みました。
「エルフの領地は、そういうものだ。……気に、しなくていい」
「ふうん……そういうもの、なんですね」
わたしは、そのときは、素直に、頷きました。
だって、静かなのは、心地よかったから。
——けれど。
ある日。
わたしは、見て、しまったのです。
*
市で。
道の、向こうから。
わたしを、指さして、何か、囁いている、女の人たちが、いました。
その、顔つきで。
わかりました。
きっと、こう、言っているのです。
「平民のくせに、領主さまに、取り入って」とか。
「身のほど知らずな娘」とか。
そういう、意地の悪い、言葉を。
わたしは、思わず、身を、すくめました。
平民の娘が、領主さまに、見初められたのです。
そんな、陰口くらい、覚悟は、していました。
——けれど。
次の、瞬間。
女の人たちの、口が、たしかに、動いているのに。
その、声が。
わたしの耳には、ひとつも。
届か、なかったのです。
まるで、そこだけ、世界から、音が、消えたみたいに。
さわさわ、と。
麦の穂ずれ、だけが、遠くで、鳴っている。
「……領主さま」
わたしは、隣を、見上げました。
領主さまは、静かな顔で、まっすぐ、前を、見ていました。
その、若葉色の瞳が。
ほんの一瞬、なにか、深いものを、宿したのを。
わたしは、見て、しまったのです。
*
その夜。
わたしは、思いきって、尋ねました。
「領主さま。……あの、市での、こと」
麦畑を望む、窓辺で。
領主さまは、静かに、わたしを、見つめました。
「あの人たち、たしかに、何か、言ってたのに。……声が、聞こえなかったんです」
「……」
「ねえ。あなたのそばが、こんなに、静かなの。……本当は、"そういうもの"じゃ、ないんでしょう?」
領主さまは、しばらく、黙って。
やがて。
観念したように、ふ、と、目を、伏せました。
「……気づかれて、しまったか」
さわさわ、と。
夜風に、麦の穂ずれが、鳴りました。
「わたしはね、リナ」
領主さまは、静かに、語りはじめました。
「長く、生きすぎた」
「……はい」
「何百年も、人の世を、見てきた。……そのあいだ、耳に、届くのは。醜い、諍いの声。妬みの、囁き。心にもない、お世辞。……そういう、雑音ばかりだった」
その、若葉色の瞳が、遠くを、見ました。
「わたしは、ずっと、倦んでいた。……この世の、あらゆる、音に」
さわ、と。
麦の穂ずれ。
「そんなある日。……麦畑で、きみの、歌を、聴いた」
領主さまは、わたしを、まっすぐに、見つめました。
「久しぶりに、思ったんだ。……ああ、この世にも、まだ、こんなに、美しい音が、あったのか、と」
*
「だから、わたしは」
領主さまは、そっと、わたしの手を、取りました。
「決めたんだ。……この声を、二度と、汚させない、と」
「汚させ、ない……?」
「きみの、まわりの、音を。……ぜんぶ、消した」
さわさわ、と。
麦の穂ずれが、鳴っています。
「街の、ざわめきも。きみを、蔑む、噂も。悪意ある、囁きも。……ひとつ残らず、魔法で、消した」
わたしは、息を、呑みました。
「残したのは、二つだけだ」
領主さまは、囁きました。
「麦の穂ずれと。……きみ自身の、声だけ」
——ああ。
だから。
領主さまの、おそばは。
いつも、あんなに、静かだったのです。
この世の、あらゆる、雑音を。
このお方が、わたしのために、消して、くれていたから。
聞こえるのは、いちばん、美しい音――麦の穂ずれと、わたしの声だけに、なるように。
「……こわい、か」
領主さまが、静かに、尋ねました。
「世界の音を、勝手に、奪う、こんな男が」
わたしは、しばらく、答えられませんでした。
こわくない、と言えば。
それは、嘘に、なります。
でも。
*
「……領主さま」
わたしは、顔を、上げました。
「わたし、ずっと、不思議だったんです」
「なに、を」
「平民のわたしを、どうして、こんなに、大事にしてくださるのか」
わたしは、領主さまの、頬に、手を、添えました。
「それに……市で、あの人たちの、悪口が、聞こえなかったとき。……本当は、少し、ほっと、したんです」
領主さまの、瞳が、揺れました。
「わたし、こう見えて、けっこう、気に、しいで。……陰口とか、こわくて」
わたしは、へへ、と、笑いました。
「なのに、あなたのそばだと。……そういうの、なんにも、聞こえなくて。心が、すごく、軽くて」
「リナ……」
「わかったんです。あなたは、わたしから、無理やり、何かを、奪ったんじゃない」
さわさわ、と。
麦の穂ずれが、優しく、鳴りました。
「わたしを、いやな音から、守ってくれてたんですね。……こわいくらいに、大事に」
領主さまは、大きく、目を、見開いて。
「怒らない、のか」
「怒る?」
わたしは、首を、振りました。
「だって。……この世のだれよりも、わたしの声を、好きでいてくれたって、ことでしょう?」
わたしは、にっこり、笑いました。
「そんなの、うれしいに、決まってます」
*
領主さまは、わたしを、そっと、抱き寄せました。
その腕が、かすかに、震えていました。
「……離さないよ、リナ」
耳元で、囁く声が、しました。
「きみの声を、汚す音は、これからも、ひとつも、届かせない」
「はい」
「きみの世界には。……いちばん、美しい音だけ、残す。麦の穂ずれと。……きみの、歌だけを」
「はい。……うれしい」
わたしは、領主さまの胸に、頬を、寄せました。
「そのかわり」
わたしは、囁きました。
「ずっと、そばで、聴いていてくださいね。……わたしの歌」
「ああ。……もちろんだ」
領主さまは、はじめて、泣きそうな顔で、微笑みました。
「何百年でも。……きみの声だけを、聴いていたい」
さわさわ、と。
夜風に、麦の穂ずれが、鳴っています。
その、静かな、静かな、世界のなかで。
わたしの声だけが、澄んで、響いていました。
*
それから、幾度、麦の実る夏が、めぐったでしょう。
わたしは、今も、この麦畑で。
長命のエルフの領主さまと、しあわせに、暮らしています。
わたしのまわりは、あいかわらず、不思議なほど、静かです。
でも、もう、その理由を、わたしは、知っています。
この静けさは。
このお方が、わたしのために、作ってくれた。
いちばん、優しい、繭なのだと。
夏の宵。
麦畑を、二人で、歩きながら。
領主さまは、わたしを、そっと、抱き寄せて、囁きます。
「歌っておくれ、リナ」
「もう。……また、ですか?」
「ああ。……何度でも、聴きたい」
わたしは、くすくす、笑って。
それから、そっと、口を、開きます。
さわさわ、と、鳴る、麦の穂ずれに、合わせて。
わたしの声だけが、この、静かな世界に、澄んで、響く。
このお方が、わたしの声を聴くために、どれほど深く、途方もなく、世界の音を消したのか。
——それでも。
いいえ。
だからこそ。
わたしは、このお方を、世界のだれよりも、深く、愛しているのです。
さわさわ、と。
今日も、麦の穂ずれが、鳴っています。
わたしと、領主さまの、二人きりの。
いちばん、静かで、いちばん、あたたかい、世界のなかで。
蜜月 憂です。今回は、甘々スローライフ「エルフ領主×麦の穂ずれ」。長命のエルフのそばが不思議なほど静かな理由——それは、人の世の喧噪と悪意に倦んだ彼が、平民の娘の澄んだ声を何より愛し、その声を汚す世界の雑音をぜんぶ魔法で消していたから。残したのは、麦の穂ずれと、彼女の声だけ。ヒロインは最後まで傷つかず、いちばん優しい繭の中で愛されて幸せです。甘くて、静かで、ちょっとだけゾクッとする——そんな夏は、いかがでしたか?




