序章 — 眠りの淵からの呼び声
斎藤蓮司、29歳。東京の中心にある小さな会社のソフトウェアエンジニアである。彼の人生には特筆すべきことは何一つなかった。朝早く起き、いつもと同じ満員電車に乗り、いつもと同じデスクに座り、夜遅くに帰宅し、明るいままのモニターの光を浴びながら眠りに落ちる。
11月のある夜、異常なほどの豪雨が降るまでは。
彼は午前1時半にオフィスを出て、既に閉鎖された地下鉄の駅へと向かって歩いていた。街灯がいくつも消え去った道路沿いの歩道だけが残されていた。
側面からトラックのクラクションが鳴り響いた。彼は振り返る間もなかった。最後に彼の目に映ったのは、避けるにはあまりにも速く突っ込んでくるオレンジがかった黄色のヘッドライトの光だった。
そして、すべてが暗転した。
光のトンネルもなく、亡き親族からの呼び声もない。ただ、それ自体が質量を持っているかのような重苦しい沈黙だけがあった。蓮司は、上も下もなく、熱さも冷たさもない場所を漂っていた。身体の感覚は消失し、自分にまだ「肉体」が存在しているのかどうかすら確信が持てなかった。ただ思考と記憶、そして恐怖だけが、その虚無の中をあてもなく漂っていた。
どれほどの時間が経過したのか、彼には分からなかった。ほんの一秒だったかもしれないし、百年だったかもしれない。この場所において時間は何の意味も持たなかった。
その時、彼にはそれが聞こえた。
それは耳で聞こえる音ではなく、脊髄の中で、そして精神の奥底で鳴り響く声だった。彼の周囲の虚無すべてを震わせる、低く重々しい声であった。それは言語として語られたのではなく、直接思考に浸透してくる「意味」であった。まるで誰かが脳に指を突き立てて、そこに何らかの感情を直接描き込んでいるかのようだった。
……目覚めよ……。
蓮司は、何者かが自分をじっと見つめているのを感じた。形を持つにはあまりにも巨大で、距離という概念すら超絶したどこかから。その存在は、通常の意味での「そこ」にいるわけではなかった。それはあらゆる場所に存在し、同時にどこにも存在しなかった。全ての星々の背後を覆う暗闇のように。全ての現実の基盤の下に潜む亀裂のように。
蓮司が感じた恐怖は、人間が知るような恐怖ではなかった。痛みや死に対する恐怖ではない。なぜなら、彼はすでに死んでいたからだ。これはもっと深い次元の恐怖だ。自分に語りかけているその存在の前では、己が何の意味も持たないほどちっぽけな存在であると、人間の意識が悟ってしまったことによる恐怖だった。
黒混じりの濃い紫色の光が彼の周囲で形作られ始めた。それは明るさを放つ光ではなく、周囲のすべてから光を吸い取る光だった。蓮司は遠くで動く輪郭を見た。巨大な蛇のようにゆっくりとうねる長い曲線だ。しかし、彼がはっきりと見極めようとする度に、その輪郭は再び形を変えた。まるで彼の脳が、その真の姿を処理することを拒絶しているかのようだった。
……アジ・ダハーカ……。
その名が、出所もなく彼の思考の中に響き渡った。まるで直接彼の中に埋め込まれた知識のように。学習して得たものではない。その名を聞いた瞬間に「知っている」ものだ。まるで他の誰かの記憶が、ほんの数分の一秒の間に彼の頭に押し込まれたかのようだった。
蓮司の脳裏に光景が浮かび上がった。打ち砕かれたガラスのように、黒いひび割れが走る空の光景。見渡す限り灰と化し、焦土となった大地の光景。地平線のすべてを覆い尽くすように伸びる三つ首の影の光景。そして、数百万人の悲鳴が同時に響き渡り、瞬く間に静まり返る光景。
蓮司もそれに同調して叫びたかった。しかし、彼には叫ぶための口もなく、呼吸するための肺もなかった。己のものではないおぞましい光景の中を、ただ意識だけが漂っていた。
……お前は器となるか……。鍵となるか……。それとも、より大いなるものを養うための単なる極上の餌となるか……。
その声は彼に問いかけているのではなかった。彼を品定めしているのだ。まるで商人が購入を決める前に商品を吟味するように。蓮司は、無数の視線があらゆる角度から、あらゆる方向から自分を見つめているのを感じた。獣のような視線もあれば、昆虫のような視線もあった。言葉では形容できない無形の視線すらあった。全ての眼が、彼の魂の価値を評価していた。
彼は拒絶したかった。逃げ出したかった。しかし、方向さえない虚無の中では、逃げることなど不可能であった。ゆえに蓮司は、その時自分にできる唯一の行動をとった。
彼はそれを受け入れた。
勇気からではない。絶望からだ。他に何の選択肢も残されていない時、人間の精神は往々にして、生き延びることを選ぶものだ。たとえそれが未知の形態であろうとも。たとえ死よりもさらに酷い何かに直面する危険を冒すことになろうとも。
……よかろう……。受容こそが、全ての始まりである……。
名状しがたい苦痛が、かつて彼の意識であったものを貫き通した。まるで誰かが彼の全記憶を粉々に引き裂き、全く異なる形に組み立て直しているかのようだった。蓮司は奇妙な文字の羅列が、激流となって己の精神を流れ落ちていくのを感じた。それは彼の全く知らない言語であったが、瞬時にその意味を理解することができた。まるでその言語が、人間の声ではなく、宇宙そのものの法則によって書き記されているかのようだった。
そして、すべてが渦を巻き始めた。黒紫色の光は、深紅の血の色へと変わった。さらにそれは、不自然なエメラルドグリーンへと変貌した。どこかへと墜落していくような感覚が形成され始めた。蓮司は、自分自身がどんどん小さく、小さく圧縮されていくのを感じた。ついには小さな光の点となり、ドロドロとした液体のように密度の高い何かを突き抜けていった。
再び暗闇が彼を包み込む直前、その声が最後にもう一度だけ響いた。
……お前が在るべき世界で目覚めるがよい。お前が耳にしたその名の意味を探し求めよ。なぜなら、いつの日かお前は選択を迫られるからだ。それを解き放つのか、それともそれを屠る者となるのかを……。
かつて蓮司であったもののすべての細胞を、痛みが締め付けた。やがて、肉体を持っているという感覚が徐々に戻ってきた。指先から始まり、腕を伝い、そして、何時間ぶりか、あるいは何年ぶりかも分からない最初の空気を吸い込む胸へと。
蓮司は、己自身の絶叫と共に目を覚ました。




