葉桜は空音にざわめきを残す
窓の外で騒めいているのは葉桜。
あれほど咲き誇った花は名残すらもなく、その色香も幻のように。
力強さを増していく日差しに反するように、ここは冷え切り、静まり返っている。
誰もいない場所。
人の出入りが絶えた場所は、大抵同じような匂いがする。
古びたものと、澱んだ空気と、朽ちていく時間の匂い。
古いものは、ほんの少しだけ雨上がりの土に近い匂いがする。
もしも、まどろむのなら。
古いものの中で、苔むした石のように朽ちるのが良い。
「やあ」
そう言って、気安い様子で本を閉じたその人を、私は見つめる。
夕暮れ時の窓を背負って、まるで自然な様子でいるその人の存在は、あまりにも異質で。
それなのに、あの日の続きそのもので、私の心を過去に引き戻す。
行儀悪く机に座り、椅子に上履きを履いた足をかけてくつろぐ姿は、お世辞にも優等生とは言えない。
だけど、私はその人の素性を知っている。
まだ半分寝ぼけたような顔で瞬きを繰り返している、その顔を忘れようはずもない。
「先輩」
「うん?」
呼び掛ければ、困ったように笑みを浮かべる表情も記憶のままで。
それなのに、季節は巻き戻らないように。
大人びて見えたあの人は、もう10も20も年下の学生で。
時の流れは残酷だ。
全てを過去へ過去へと押し流し、風化させていく。
忘れたくない思い出も、大切だったはずの約束も、確かにあったはずの絆さえも。
全てを平等に、容赦なく奪い去っていく。
それを痛いと感じることも、抗うことも忘れてしまった。
全てに流され、受け入れることに慣れた。
私はもう、つまらないありふれた大人になってしまったんだろう。
「ねぇ、その本は?」
「うん。読みかけだったんだけどね。……ほら」
私が指差せば、我に返ったように手にした本をめくる。
その仕草が、表情が、音を立てて色褪せていく。
止まっていたはずの針を進めてしまった私は、この結末を見届けなければならない。
苦笑気味に広げられたページは、何も記されておらず。
「タイトルも、もう読めないんだ」
その言葉に、胸が詰まって言葉にならない。
この人を置いて大人になってしまった私は、あの頃のように泣いたりしない。
笑顔で嘘をつけるだけのズルさと強かさを、身に着けたから。
「もう、必要ないってことなんじゃない?」
「え?」
「その本。もう、続きを読まなくてもいいってことなんじゃない? 先輩は、もう私を待たなくていいんだよ」
あの日、この教室でこの人を待たせてしまったことは、私が一生背負う十字架だ。
この図書準備室は、あの日、古い型のストーブが不完全燃焼を起こして。
見つけ出された時はもう手遅れだったと聞いた。
本を読みながら転寝でもしてしまったように、先輩は亡くなっていたと聞いた。
一酸化炭素中毒。
幾つもの不幸な偶然が重なって起きてしまった事故で、管理責任者として定年間近だった司書の先生がお辞めになったと聞いた。
全てが伝聞なのは、起こったことの重みを受け止めることが出来なかった私が、ありとあらゆることを放り出して逃げてしまったからだ。
そんな私が今日ここへ来たのは、この校舎の取り壊しが決まったと聞いたからだ。
忘れたくて忘れられない約束を、最後に、ちょっとした気まぐれで叶えておこうと思っただけ。
同行を申し出てくれた友人を返したのも、私の気まぐれに付き合わせるのもどうかと思ったから。
たったそれだけの理由。
意味のない行動で、ただの自己満足で、ちょっとした感傷。
過去は変えられず、何の意味もないはずだった。
それなのに。
それだけのはずなのに。
待ち人がいるなんて、聞いていない。
「大事な話があったはずなんだよ」
その内容は、おおよそ想像がついている。
「でも……もう、思い出せないや」
一瞬、不器用に笑う表情が悲しげに歪んだのを、見てしまった。
相変わらず、嘘は下手みたいだ。
変わってしまった私と、変わらない先輩。
懐かしいはずなのに、たまらなく遠い。
相手を傷つけないためにバレバレの下手な嘘をついてしまうような、そういう人だった。
何もかも器用に熟しそうな見た目のくせに、とても不器用で。
自分のことを後回しにして、相手のために奔走してばかりで。
貧乏くじを引いてばかりだとぼやきながら、いつだって笑顔だった。
「もう、君を待たなくていいね」
先輩は、静かに手にしていた本を置く。
置いたはずの本は、存在などなかったかのように掻き消える。
全ては幻なのだろう。
きっとこれは、私の後悔が見せる束の間の幻なのだろう。
叶いもしない約束を交わした私が、捨てることの出来なかった後悔の名残だ。
「死者に友人はいらないし、恋人も、家族もいらない」
窓から差し込む光が、幻のはずのその人の表情を隠して見えなくする。
「だから、すべて忘れてしまえ」
一瞬の光が消え去った後、その人は完璧な、本当に完璧に美しい笑みを浮かべて言った。
「君は、幸せになればいい。それだけを、願っている。ずっと、ずっと――」
呟いて、その人は握り締めていた手を開く。
その手から、見えない何かが零れ落ちるのが分かった。
太陽の残光が陰る。
フッと、何ごともなかったかのようにその姿が消える。
誰もいない教室は、妙にがらんとして冷たくて。
「嘘つき」
心の中で、疑惑が確信に変わる。
あの日、普通に考えて途中で異変に気が付いたはずなのだ。
暖房器具が故障していることに、妙に勘が鋭いところのあったあの人が気付かないはずがないのだ。
偶然暖房器具を覆うようにコートを掛けて暖を取っているなんて、出来過ぎなのだ。
二次被害が出ないように、速やかに発見されることまで見越して。
心臓がドクンと嫌な音を立てる。
背中を、ツッと冷たい汗が落ちていく。
『利用したのは、こちらの方だよ』
すました顔で、あの人が笑うのが見えるようだ。
「ああ、やっぱり。――忘れられる訳がない」
自分が逃げたと思っていた。
約束から、責任から、罪の意識から。
でもずっと鮮やかに、こうも完璧に全てを欺いて逃げられるなんて。
なんて狡くて、酷くて、――哀しい。
なんて罪深い人だろう。
きっと目論見通りだと、笑っているに違いない。
優し気な仮面の下で。
あの人は、筋金入りの嘘つきだ。
窓の外で、夕闇に葉桜が風に騒めいている。
この校舎の取り壊しと共に、あの木も切られる運命だと聞いた。
この場所が、ありとあらゆる名残が失われても。
決して暴かれることのないその嘘を
「私だけが、覚えている」