6話 婚約の誓いは女神の御許で
瞬く間に、婚約式の日が訪れる。早朝から、廊下を往来する使用人たちは慌ただしい。――もちろん、私も。
更衣室に響くのは、ナタリーの熱意に満ちた声。
「リリー様、もっと息を止めて下さい!」
「も、無理……。妥協も大事よ……うっ!」
「せっかくの婚約式です! 妥協せず、気合を入れていきましょう!」
そう、コルセット縛り上げの刑である。ナタリーを筆頭に侍女たちは婚約式に向けて、私をコルセットで縛り上げる。
(普段、動きやすさを重視した衣服ばかり着ていたから――。私、早くもこの圧迫感に負けそうよ……)
悲しくも、私の心の声は誰にも告げられることなく消えた――。
* * *
辺境都市、中央に佇む荘厳な礼拝堂。愛と守護の女神ルクレリティアを信仰する。そこはケディック家が代々、婚約式を執り行ってきた場所だと聞き及んでいる。
祭壇の奥には女神ルクレリティア像がそびえ立ち、手に剣と白百合を持つ。主祭壇には、聖なる水が湛えられた銀の盆と、ケディック家の紋章を刻んだ青いリボンが置かれている。女神像とこれらの前で、婚約を誓うのだ。
神殿にはマティアス騎士団長を筆頭に、護衛騎士が数名。招待した周辺貴族が参列し、静寂が儀式の重みを際立たせる。
もちろん、コルネリア様も参列する。彼女は最前線で、私たちを見守っていた。
(今日のコルネリア様。ノーマン卿の礼装と合わせたお色のドレスで、とても可愛らしかった――)
式の直前に目にした、コルネリア様の愛らしい姿を思い出し、笑みが溢れた。――いけない、と口元を慌てて正す。
そうして、ちらり、と隣に立つノーマン卿に視線をやった。彼は大柄な体躯を活かした厳格な出で立ちを晒している。辺境伯として礼装に身を包みながらも、騎士として肩章を輝かせる。顔に遺る、眉から頬にかけての大きな傷が勲章であるように、私の目に映る。
(とても、素敵ね)
そっと心の内に呟いた言葉。決して言葉にしていないはずなのに――、ノーマン卿はこちらを見やった。視線がかち合う。
途端、跳ね上がるのは私の心臓だ。鼓動が耳にまで聞こえてきそうな勢いで拍動する。
(この胸の動悸はコルセットのせい、コルセットのせい……)
心の中で、まるで呪文のように何度も唱える。
はたと私を現実に引き戻したのは、司祭の声だった。
「――で、あるからして。愛と守護の女神ルクレリティアは――」
どうやら、彼は女神の有り難い教えを長々と語っていた様子。しかし、私はノーマン卿の姿と視線に気を取られ、内容が全く耳に入っていなかった。
司祭は柔和な笑みを浮かべ、促すように両手を広げた。私たちの目の前にある、銀の盆と紋章のリボンに視線を落とす。
「それでは、お二人とも。誓いの儀を」
「あぁ」
それに応えるノーマン卿。彼は私に視線をやり、力強く頷いてみせた。私もそれに応える。
――女神に捧げるのは、剣と剣だ。
通説であれば女神に捧げるのは、像に象徴されている通り、剣と白百合だ。しかし――、私たちが捧げたのはどちらも剣。
私が手にしたのはレイピア。リベルテ家の紋章が柄に刻まれ、私の身を現す。ノーマン卿が手にしたのは長剣。礼拝堂に降り注ぐ光を反射し、綺麗な銀白色を放つ。この剣は――、儀式用に用意したのだろう。
参列席から、僅かにざわめきが聞こえた。
ただでさえ、後妻を頑なに迎えなかったという、ノーマン・ケディック辺境伯。その彼の後妻となった私が、こうして儀式の通例を破るとなると――。悪目立ちもいいところ。
しかし、これはノーマン卿、そしてコルネリア様からの提案。こうして、私たちの絆を示すのだという。
司祭はディック家の紋章が刻まれた青いリボンを丁重に、盆へ浮かべる。私たちは、その盆の上で剣の刃元を交えた。――剣を握る手にノーマン卿への想いと、ケディック家の一員となる覚悟を見つめ直す。冷たいはずの刃に温かみを感じ、心を軽くした。
「愛と守護の女神ルクレリティアの御許において、二人の心を示します。汝らは互いを支え、剣と白百合の誓いを胸に、再びこの祭壇で愛を誓う日まで――」
司祭が言い終える前に――、誰かが手を叩く音。それは拍手なのだろうが、子どもが小さな手を叩くようで――。
私は弾かれたように視線を上げ、音のする方を見やった。ノーマン卿も振り返り、はっと目を見開いている。
(コルネリア様……)
礼拝堂で真っ先に拍手をしたのは私のお友達でもあり、愛娘となる――コルネリア様だ。彼女の瞳は、まるで私たちの未来を確信したように輝いている。
コルネリア様は得意げな表情を浮かべ、まるで参列した貴族たちへ、私たちの絆を示すかのように拍手を続けた。
それに続いたのはマティアス騎士団長。彼の大きな手から贈られる拍手は、礼拝堂の空気を一気に変える。貴族たちの雰囲気が、戸惑いから拍手を送るまでに変わったのだ。
一連の光景を目にしたノーマン卿はコルネリア様へ慈愛の眼差しを向ける。すると、その眼差しは突然、こちらに向き――。
「行こうか、リリー」
「ノーマン様」
唐突に呼ばれた名に、思わず彼の名を呼び返す。すると彼は一瞬、驚いたような表情を浮かべ、その次には――。壮年らしからぬ、可愛げのある表情に変わった。困ったように微笑みながらも、僅かに耳の先が赤い。
(あら、可愛らしい)
思ったことがすぐ口に出ない性分で良かった、と人知れず胸を撫で下ろした。
すると、彼は気を取り直してと言わんばかりに咳払いをした後、儀式のために掲げていた剣を下ろそうとした。私も、それに続こうと視線を剣へ向けると――。
銀の盆に浮かんでいたリボンが水面に揺れ、まるで女神の息吹に導かれるように私たちの刃元を包み込んだ。
驚きのあまり、言葉を失っていた私たち。
司祭は神秘的な光景を目にした驚きと嬉しさを滲ませながら、口を開く。
「これは……。まるで、女神ルクレリティアからの祝福です」
その言葉に微笑み返す。掲げていた剣を下ろすと、すかさず助祭が剣を受け取り、つつがなく婚約の儀を終えた。
すると、先に口を開いたのはノーマン様だった。
「そう呼んでくれて嬉しいと、伝えるのは迷惑だろうか……?」
「え……?」
ノーマン様のその言葉に、突沸したように顔が熱くなる。
(やだ、私ったら――!?)
思いがけずして、縮まった距離。内心、慌てふためく私を余所に、彼は目元を綻ばせた。
「夜会の席でも、そう呼んでくれ」
「と、当然です!」
――なるようになれ!と、わっと声を上げるので精一杯だった。
このやり取りをコルネリア様がにんまりとした表情で眺めていたことに、後から気付いた私。彼女と視線が合い、羞恥心で顔から火が出る思いをする羽目になったのだった。
そうして、舞台は夜会の場へと移る――。