26話 女神の福音
姿を現した大鹿。次々に襲い来る脅威に、緊迫した状況は変わらない。
コルネリアとフローレンツ子爵令嬢はどうすればいいのか迷い、体を固めてしまっている。
私はレイピアを抜いたまま、ゆっくりと歩みを進める。二人を背に庇う立ち位置で足を止めた。大鹿から視線をそらすことなく、彼女たちに向かって話し掛ける。
「背を向けてないで。このまま静かに後退って……」
小さく囁いた私の言葉に、二人が小さく息を呑んだ音が聞こえる。そうして、少しずつ遠ざかる気配。――彼女たちが逃げるのに十分な距離を取るまで、私が盾になって時間を稼ぐ他ない。
一歩間違えれば、二人に危険が及ぶ。深呼吸で冷静さを取り戻す。
そのとき――。
「お下がり下さい!」
切羽詰まった声が周囲に響いた。はっと、声がした方を見やれば、焦った様子でこちらに駆け寄ろうとする者たち。大鹿を追って、ここまで来たのだろうか。それに加え、彼らは叙任を終えたばかりの騎士のようにも見受けられた。この状況下で冷静な思考を失っている。
――完全に悪手だ。大きな声、敵意をもった視線は大鹿を刺激するだけ。
すると、大鹿は興奮した様子で足踏みを始めた。ただ、その動きは歪で、違和感を覚える動き。
(なんだか、様子が……変だわ)
私はじっと大鹿を注視していると、目に留まるものがあった。
(脚に怪我を負っている……!)
豊富な体毛に覆われた脚。体毛で分かりづらいが、短い矢のようなものが刺さっている。――討ち損じか、大鹿を暴れさせるための意図的なものか。一瞬にして脳裏を駆け巡った。
だが、それを思考に留めておくよりも前に、目の前の状況は一変する。
大鹿がこちらに向かって駆け出したのだ。威嚇するように、大きな角を振りかざす。
私は咄嗟に、レイピアを盾にした。上手く護拳に当てさえすれば、吹き飛ばされても一撃による失神は免れるかもしれない。
しかし、その目算は甘かった。弾かれたのは刀身。反動で吹き飛ばされ、態勢を崩してしまう。なんとか立ち上がりその場に踏みとどまる。しかし、失態に血の気が引いた。
「しまっ――」
折れた。レイピアは大鹿が振り回した角の衝撃を受け、しなった反動を逃がすことができず、無残にも折れてしまったのだ。
大鹿の体が、やけにゆっくりとした動きに映る。大きな角が私の体を吹き飛ばそうと迫る。――どうあがいても、回避できない。せめて、背に庇ったコルネリアとフローレンツ子爵令嬢が逃げられることを切に願い、ぎゅっと目を固く閉じた。
そのとき――、ひときわ鈍い音が耳に届く。恐る恐る目を開けると――、次の瞬間。大鹿の巨体が鈍い音を立てて崩れ落ちた。
わずかに漏れた声は安堵に満ちていた。
「あっ……」
目の前に広がる大きな背中。私が口にしたのは彼の名前。
「ノーマン様……」
安堵して、一気に体の力が抜けた。膝から崩れ落ちるようにして、地面に座り込む。手も力が抜けて、折れたレイピアが地に転がった。震える指先を誤魔化すように強く握り締める。
私はノーマン様を見上げた。そこに佇む彼の姿は威厳に満ちていて、惚れ惚れするものだった。それに、寸前のところで間合いに入り込み、大鹿をほぼ一撃で倒したのだろう。
――彼の剣さばきを見逃してしまった。目を閉じてしまったことが残念だ。
(だなんて……、口が裂けても言えないわね)
心の中で自嘲する。そうして、ようやく指先の震えが治まり、息を大きく吸い込んだ。
ノーマン様は大鹿が動かないか確認した後、茂みへ鋭い眼差しを向けた。彼は少し離れた場所へ避難したコルネリアを目にすると、すぐさま声を上げる。
「コルネリア! 無事か!?」
「お父さまっ……!」
茂みの向こうからコルネリアが駆け寄って来る。ノーマン様とコルネリアは、地面に座り込んだ私を囲むようにして膝をついた。
ノーマン様は眉をこれでもかというほど下げて、口を開く。
「リリー、君は本当に無茶を……。怪我は?」
「申し訳、ございません……。私の力不足で……」
「違う!」
彼のひときわ大きな声が周囲に響き渡った。
私は思わず、びくりと肩を震わせて視線を逸らす。ノーマン様と目を合わせてしまったら、きっと不甲斐なさにいたたまれなくなるだろうから。そう思い、きつく唇を結んだ。
すると、膝にのしかかる重み。はっと視線を落とせば、コルネリアが私に抱きついていた。私は彼女を抱き締めて、互いに無事を確かめ合う。
彼女は大きな目を潤ませながら、わっと声を上げる。
「お母さま、よかったぁ……! ご無事で……!」
「結果、怖い思いをさせてしまったわ……」
答えた私の声は小さなものだった。すると、そこに掛けられた一声。
「違います! リリー様は私たちを守って下さいました……!」
「フローレンツ子爵令嬢……」
彼女は胸の前で両手を握り締めながら、強い眼差しを送っている。――フローレンツ子爵令嬢のおかげで、私の胸にあった無力感は少し解消され、肩の力を抜くことができた。
ノーマン様は彼女の言葉に頷き、そのまま口を開く。
「そう……みたいだな」
彼は地面に転がっている不届き者たちに視線をやった。すぐさま騎士に指示を出し、息のある者は捕縛する。
ノーマン様はコルネリアとフローレンツ子爵令嬢をマティアス騎士団長の元へ送り届けるように、と指示を出した。彼女たちのどちらを狙ったのか不明である以上、両者の身の安全を考慮したのだろう。
マティアス騎士団長の元であれば信頼できる。――依然として、彼女たちを護衛していたという騎士は行方知れずだ。
私とノーマン様は佇み、彼女たちの背を見つめていた。
ようやく、この場は収束に向かう。――しかし、コルネリアとフローレンツ子爵令嬢を狙った不届き者や、怪我を負って暴れた大鹿。ハーヴェイ伯爵の子息と尻もち子爵の密会。腑に落ちない点が山積みだ。
私は大きな溜め息をついた。ノーマン様と情報を共有したものの、拭えない不安は疲労を助長させる。僅かな眩暈にふらついた。
すると、ノーマン様はふらついた私の肩を支えたのだ。その次には、徐々に見開かれていく瞳。
「リリー! やはり、怪我をしていたのか!?」
「えっ……?」
ノーマン様の言葉に理解が追いつかず、素っ頓狂な声を上げてしまった。
その間にも、彼は唇を戦慄かせながら、じっと私を注視している。ゆっくりともたげられた彼の手は、まるで腫物に触れるように私の腕を取った。そこにあったのは、汚れた剣先を拭った血痕。
彼はこの血痕を目にして、私が負傷したのだと思い違いをしたのだろう。
私はゆるやかに首を横に振った。腕に触れていたノーマン様の手を取ると、優しく握り返す。そうして、ことの経緯を語る。
「あ……、いいえ。これは違います。汚れたので拭っただけで……。怪我はしていません」
「そうか……。よかった……」
ノーマン様の安堵に満ちた声音と溜め息。それらは私の胸に、じんわりとした温かさを与えてくれる。そう思った矢先。揺らぐ視界と、肌で感じる温かさがあった。
ノーマン様に抱きしめられている。そう理解した私は慌てて声を上げた。
「あ、あの……!?」
答えはない。抱き締められたまま、行き場をなくした手が空をさまよう。――心臓が破裂しそうなほど高鳴り、頬が熱くなるのを抑えきれなかった。
私は咄嗟に声を上げた。
「服が、汚れますので……!?」
「そんなこと、どうでもいいだろう。君が無事で、本当に良かった……」
「あっ……」
彼の言葉に思い出したこと。それは雪山での危機だ。あのとき、私は今のノーマン様と同じ思いを抱いていたはず。――私はおずおずと、彼の背中に手を回した。
ひとしきり時間が経ち。私はノーマン様を見上げ、疑問を口にした。
「でも……、どうしてこちらへ……?」
「あぁ。その……」
ノーマン様は言いよどむ。彼の眼差しはとても柔らかく、少しだけ気恥ずかしさを滲ませている。ごほん、咳払いをした後、ようやく言葉の先を口にした。
「マティアスから君の働きを聞いていて……。君は避難せず、コルネリアを探しに行くだろうと考えて……。まぁ、その……女神の思し召しとでも言うかな」
はにかみながら、肩をすくませるノーマン様。
ぼっ、と顔に熱が集中する。恥ずかしさのあまり目が泳ぐ。私は慌てて、彼の背に回してた手を離した。
(まるで、私の行動を先読みしていたみたいだわ……! そ、そんなに分かりやすいのかしら……。いいえ、私って分かりやすいわね……)
心の中で自問自答を繰り返す。乱れた髪を執拗に手で触って、恥ずかしさを誤魔化そうとしていた。すると、私の意思を尊重してくれたのだろうか。ノーマン様はそっと、腕の中から解放してくれた。
あからさまに挙動不審となった私の様子に、彼はくすりと笑みを溢す。じっと、アメジストのような瞳が私を見据えて、安堵に満ちた声音で紡がれる言葉。
「間に合って良かった」
「えぇ……! ありがとうございます」
「さぁ、行こうか」
私は差し出された手を、しっかりと握り返した。




