17話 出立のとき
瞬く間に、出立のとき。
ものの数日で、遠征準備を終えてしまった。それ程までに、この辺境という地は危機に隣り合わせなのだ、と思い知らされる。
(ノーマン様へのお返事も返せないまま、見送ることになるなんて……。いいえ、今は役目を全うするだけよ)
私の中に渦巻くのは恋心と決意。それらは複雑なもので、雑念を振り払おうと首を何度も横に振ったものだ。
そうして、ノーマン様と遠征に赴く騎士団を見送るのは、私やコルネリア様。マティアス騎士団長率いる、辺境を守る騎士たち。さらには執事長や侍女長、屋敷中の使用人。屋敷中の全ての人が彼らの無事を祈っている。
私はコルネリア様と手を繋ぎ、ノーマン様と向き合う。コルネリア様はおずおずと声を上げた。
「お父さま」
たった一言。それだけでも、ノーマン様は彼女を安心させるように力強く頷いた。
彼はそっと口を開く。
「リリー、コルネリア。それでは」
「はい」
名を呼ばれ、私は留守を守りますと言わんばかりに、堅固に返事をした。
(多くを語らないのは、きっと――)
言葉を交わしてしまえば、それだけ離れるのが億劫になるのだろう。
そう思い至り、私は視線を落としてしまった。――ノーマン様は無事に帰還すると、信じている。しかし、万が一の凶事を想像してしまうほど、私は剣を握る世界に慣れていた。
思いふけっていると、頬にそっと触れた温かさに気付くには遅すぎて。――頬にキスをされたのだ。
「はっ……!?」
私は弾かれたように、ノーマン様を見やる。彼の照れくさそうに頬を掻く、彼の得も言われぬ表情。それを目にした途端、顔へ熱が集中する。
再会を約束した「家族のキス」だというのに、私の心をかき乱すには十分過ぎた。川魚のように口を開けていると、くすりと笑われてしまった。
(は、恥ずかしいわ……!)
頬に片手を添えて咄嗟に、視線を逸らす。お見送りだというのに、羞恥心から彼の顔を見られないだなんて――。
すると、ノーマン様はコルネリア様へ向き直ると、彼女の額にキスを贈った。無事と健闘を約束したものだろう。コルネリア様の無邪気な笑みが、私の目に映る。――ただ、ほんの少しだけ寂しさを滲ませているような気がした。
別れの挨拶を終えるのを、見計らっていたかのように騎士の声が周囲に響く。
「ノーマン・ケディック辺境伯、ご出立である!」
声高々に宣言された、遠征出立。
ノーマン様は背を向け、颯爽と愛馬に跨る。黒く艶やかな愛馬が、まるで意気込むかのように大きく鼻を鳴らした。――彼の背がいつも以上に大きく、私の目に映る。
荘厳な出立、徐々に小さくなる彼らの姿。私たちは、彼らが見えなくなるまで、その背を見守っていた。
(コルネリア様はずっと、ひとりで……。こんな気持ちで、ノーマン様を見送っていたのね)
胸の内に思い浮かんだのは、コルネリア様の心情のこと。そっと、繋いだ手に力が籠る。
ぽつり、とコルネリア様が声を溢した。
「お母さま……」
「えぇ、大丈夫です。コルネリア様。必ず、ノーマン様はご帰還なさいます」
私は彼女の瞳をしっかりと見据えて告げる。そうして、さらに言葉を続けた。
「それまでは私にできることを精一杯、努めさせて頂きます」
コルネリア様とふたり。じっと、ノーマン様が去った後を眺める。そこには辺境の景色が広がるだけ。
すると、マティアス騎士団長が、優しく声を掛けて下さった。彼もまた、騎士だ。辺境に残りノーマン様の背を守る。
「リリー様、コルネリア様。外はまだ冷えます。屋敷へ」
「えぇ……。ありがとう、マティアス騎士団長」
私と彼のやり取りを受けて、コルネリア様はか細い声を上げた。
「……わたしは先に、部屋へ戻りますね」
そう言い残して、屋敷へ戻って行った。小さな彼女の背を見送る私に「恐れながら」と声を掛けてくれたのは、コルネリア様の侍女だった。
「ご出立された後、コルネリア様はいつも自室へ戻られるんです。その……、リリー様」
「えぇ……」
言葉に詰まりながら、私は相槌を打つ。そう語った侍女の表情が暗いことに、気付かない私ではなかった。
* * *
コルネリア様の様子が気になって、私は彼女の自室へと向かう。心なしか、足取りは私の焦りを映し出す。
ようやく辿り着いた、扉の前。扉がそびえ立つように感じるのは、気のせいではないだろう。
「コルネリア様、いらっしゃいますか……?」
私はおずおずと声を上げた。すると、少しだけ扉が開かれる。隙間から覗く、彼女の表情は暗い。
コルネリア様は私を見上げ、こてんと可愛らしく首を傾げてみせる。
「リリー様……? どうして、こちらに――」
「よかった。少し、お話でもいかが?」
彼女の目線に合わせて屈み、そう声を掛ける。すると、コルネリア様は自室へ招き入れて下さった。
部屋の中は三人で眠った日の夜と比べると、どことなく空気が暗い。それはきっと、ノーマン様の遠征と関係があるのだろう。
コルネリア様は私の手を引く。彼女の指先は震えていて、少し冷たい。すとん、とソファーに腰を下ろす。私も後に続いて、彼女の隣に座った。
すると、しばらくの沈黙。彼女は私がどうして部屋を訪れたのか、察しているようだ。時間を掛けて、少しずつ気持ちを固めている。
私は待つ。コルネリア様が、本当の意味で心を開いて下さるのを――。
彼女はおずおずと、口を開く。
「お母さま、わたし――」
コルネリア様は喉につかえたような声を振り絞って、伝えようとする。彼女の本心。ずっと、胸の底にしまい込んでいたもの。それに、彼女が私を「母」と呼ぶときは決まっている。
夜会のように略的な場面もあれば、こうして彼女が不安に駆られたときだ。コルネリア様は無意識に私を「母」と呼ぶ。
私はそっと、コルネリア様を抱き締める。小さくて、震える背中に優しく手を添えた。
コルネリア様の嗚咽がひときわ大きく聞こえる。はたと、彼女を見れば、大きな瞳に大粒の涙を浮かべていた。
「お父さまが……ずっと、ここにいればいいのに――、って……」
ぽろぽろと頬を伝う、彼女の涙。それは、とめどなく溢れ出して――。最後まで言葉を紡ぐことができず、コルネリア様は声を上げて、泣き出した。
コルネリア様はずっと独りで、このような気持ちを押し殺してきたのだろう。誰にも弱音を吐かず、誰にも自分の気持ちを打ち明けることをせずに――。貴族としての彼女の立場から、周囲も見守ることしかできずにいたと、想像できてしまった。
コルネリア様のことを思うと、胸が張り裂けそうになる。ぎゅっと、彼女を抱き締めた腕に力を入れた。
「えぇ……」
小さく呟いた、私の声は掠れていた。
――私にできるのは、コルネリア様の気持ちを受け止めることだけ。下手な言葉は慰めにもならない。
(それをよく知っているのは、私の方だもの……)
そう、心の内に呟いた。だからこそ、コルネリア様に私の言葉を贈る。
「コルネリア様。たくさん、泣いて下さい。たくさん、ご自分の気持ちを話して下さい。私は、コルネリア様の継母ですから――」
コルネリア様と初めて会った日。私が母を語るには差し出がましいと、「お友達」になって欲しいとお願いをした。
(でも、今は――)
心の底から、コルネリア様の「継母」でありたいと願う。
これまでの、コルネリア様との日々を思い出す。ノーマン様との仲を取り持ってくれたこと。にんまりとした笑顔は、悪戯で策略家な彼女をとても良く表していて。でも、ふとした時に見せるあどけない子どもらしい表情。
その裏に隠された、コルネリア様の「寂しい」という感情。その感情を埋めるには、御母堂には敵わないだろう。けれど、これからの時間を共に過ごしていく「継母」としてならば、きっと――。
私は唇をきつく結んで、コルネリア様の震える肩、背中を優しく慰めるように撫でた。嗚咽で呼吸のリズムが崩れれば、トントンと優しく背中を叩く。それを繰り返していくうちに、私の耳が拾ったのはコルネリア様の整った呼吸。
横目で彼女を見やれば、大粒の涙を流していた瞳は閉じられていた。
(眠ってしまったわ……)
私の腕の中で、静かに寝息を立てるコルネリア様。彼女をそっと、ベッドへ寝かす。目尻に残った涙の跡を、優しく拭った。
(きっと、この小さな体で……。ずっと大きなものを抱えていらしたのね……)
コルネリア様の泣き腫らした瞼、頬の涙の跡。頬に張り付いた柔らかい癖毛。――貴族として、辺境伯の娘として振る舞いながらも、彼女はまだ、小さな女の子だ。
それを想うと、より一層、私の中の決意がカタチを成す。
「おやすみなさい、コルネリア」
私は小さく呟き、彼女の額におやすみのキスを贈った。
母が子に贈る、愛情の証のように。




