16話 逸る気持ち
陽が顔を照らし、眩しさ意識がわずかに浮上する。小鳥のさえずりが耳に届けば、朝がきたのだと知るには十分で。
ぼやけた視界が鮮明になるにつれて、目を見開いていく。口から溢れた呟きは掠れていた。
「…………これは夢?」
私の目の前には、穏やかな寝顔を晒したノーマン様が横たわっていた。――と、いうよりも私が胸元に顔をうずめているような状況。頰に当たるのは柔らかな寝具ではなく、彼の腕。寝姿勢もあって、私の腰にはしっかりと腕が回されていた。
途端、どっと押し寄せる緊張感と胸の高鳴り。相反する感情がせめぎ合い、ついには混乱する。混乱に眩暈を覚えながら、どうにか深呼吸を繰り返す。
(ど、どうしたら――いいのかしら……!?)
答えは出ない。だからと言って、ノーマン様を起こしてしまうのも憚られる。
おずおずと視線を上げれば、再び目にするノーマン様の寝顔。彼の目元には薄い隈がある。ノーマン様は連日、執務に追われているにも関わらず、毎朝訓練場に顔を出しているのだろう。
それを思えば、私は徐々に冷静さを取り戻していった。
(お疲れなのね……。せっかく、お休みになっているんだもの。起こさないように――)
そう思い、ノーマンの腕の中から抜け出そうと試みる。しかし、彼の腕は剣を振るうために鍛え上げられている。剣を振ると一言でいっても、彼が振るうのは私の軽さを重視した剣と同じではない。
(やはり……彼の腕は剣士のそれ、さすがに重いわ……!)
抜け出そうと試みたものの。結局は、元通りの位置に戻ってしまった。――そうすると、諦めの感情が湧いてくるのも不思議なものだ。
(それはそうと、コルネリア様はどちらへ――?)
そこで、はたと思い至る。昨晩は、コルネリア様と一緒に眠ったはず。しかし、目を覚ましてから彼女の姿を目にしていない。どうにか動く視線で彼女の姿を探した。
「おはようございます」
すると、突如として小声で囁かれた朝の挨拶。それは私の背の方から掛けられたようだ。ノーマン様の腕の中で振り向くこともできず、私はおずおずと声を上げる。
「おは、ようございます……? コルネリア様……?」
「リリー様。お父さまは凄くお疲れのようなので――。もうしばらく、そうして頂けると嬉しいです!」
「えっ……!?」
思いがけない、コルネリア様の言葉。驚きの声を上げてしまった。
(恥ずかしさで、顔が熱いわ……!)
せっかく平静を取り戻していた私は、再び顔へ集まる熱に困惑する。
――もぞり、と目の前の体躯が揺れた。ノーマン様はおぼろげながらも、声を上げる。
「……おはよう」
「おはようございます! お父さま」
「コルネリア……? どうしてそこに――」
彼の視線はコルネリア様へ注がれているのだろう。じっと、彼が見つめる視線の先を追う。どうやら、彼女はベッド脇に佇んでいるようだ。私にその様子を窺い知る術はない。
恥ずかしさに耐え切れなくなった私は、ノーマン様の腕の中でわっと声を上げた。
「あ、あの……っ!」
「…………!?」
びくり、と彼の体躯が震えた。――恐らく、私が腕の中で横たわっている、とは思いもよらなかったのだろう。
おずおずとノーマン様へ視線を向ける。彼も、恐る恐る視線を落としたようで――視線がかち合った。私の頭上に降りかかる、息を呑む音。
(ち、近い……!)
それはダンスを共にしたときよりも、距離が近くて――。心臓が跳ね上がる。
すると、背後からコルネリア様の嬉しそうな声が聞こえて来た。
「お父さまとお母さまが仲良くして下さって、わたしはとっても嬉しいです!」
私の脳裏に、コルネリア様の無邪気な笑顔が浮かぶ。――と、言っても、抜け目ない彼女のことだ。こうなるように計算されたに違いない、と内なる私が語る。
そうして、背後からコルネリア様の声が続く。
「お二人がもっと仲良くなるように、わたし、ちょっと早く起きたのです」
「早起きは――、素敵なことですわ」
「えへへ、ありがとうございます。お母さま」
私は消え入りそうな声で、気恥ずかしさを誤魔化すので精一杯だった。
「こ、コルネリア……!? リリー! 君にはすまないことをっ……、してしまっ、て……!」
「ノーマン様! お、落ち着いて下さい……!」
「つい、君といると安らいで――」
慌てたノーマン様。私はようやく彼の腕の中から解放された。――ほんの少し、名残惜しいなんて口が裂けても言えないだろう。
ベッドに座って向かい合いながら、互いに頭を下げる。――なんとも、珍妙な光景だった。コルネリア様はベッドに両手で頬杖をついて、その光景をにんまりと眺めている。
(コルネリア様ったら……!)
彼女の表情を目にして、私は恥ずかしさを隠すため。拗ねたように唇を尖らせたのだった。
そこへ、突如として力強いノック音が響き渡る。その次には執事長の声。
「旦那様、リリー様、コルネリア様。お目覚めでしょうか」
「はいっ……!?」
思いがけない声に、私は慌てて大きな声を上げてしまった。すると、執事長は扉の向こうから言葉の先を続ける。
「お目覚めのところ大変、失礼致します。至急、マティアス騎士団長より、会議室へお越し下さるように、と。また、使者より取り急ぎの書簡が届いております」
「今、行く。少し待っていてくれ」
言葉の端々から伝わる緊張感。先程までの和やかな雰囲気が、一瞬にして緊張感のあるものに変わる。ノーマン様は険しい表情を浮かべながら、身支度をするために部屋を後にした。
彼を見送り、残された私とコルネリア様は、そっと身を寄せ合う。
(物々しい雰囲気だわ……。何かあったのかしら……)
その緊張感はコルネリア様にも、伝わるもので――。
「お父さま……」
彼女は不安げに、言葉を溢していた。部屋に身支度をしようと、侍女たちが入ってくる。しかし、コルネリア様は呆然とノーマン様が去った後を見つめるだけ。
私はさらに身を寄せて、コルネリア様と体温を分け合う。ほんの少しでも、彼女の不安を取り除けるように――。
「コルネリア様。大丈夫です、私がいます」
「……はい!」
コルネリア様は不安な感情を押し殺すように、力強く返事をした。――彼女と繋いだ手に、力が籠る。
(決して、彼女を独りにはしないわ)
そう胸の内に呟き、じっと、ノーマン様が去った扉を見つめていた。
* * *
数時間にも及ぶ、会議の後。コルネリア様と私は執務室を訪ねるようにと、伝言をもらったのだ。
訪ねたノーマン様の執務室には、彼の他に執事長とマティアス騎士団長の姿があった。執務机に向かうノーマン様の両脇に、彼らが控えるようなかたちだ。
私とコルネリア様の姿を目にしたノーマン様は、重く口を開いた。
「国境視察へ赴くことにした」
――やはり、とコルネリア様と私は小さく頷いた。屋敷全体の物々しい雰囲気、訓練場へ向かう騎士の流れでそれは察していた。既に出立の準備は始まっているのだろう。
コルネリア様は不安そうに瞳を揺らしながら、声を上げる。
「お父さま。やっぱり――」
「すまない、コルネリア」
その言葉が意味することは明白だった。――この親子が共に過ごした時間は、あまりに短い。それを想うと、私の胸は締め付けられる。
ノーマン様は険しい表情を浮かべながら、現状を語った。
「隣国の動きが怪しいと、国境拠点から報告を受けた。大方、交易路を狙ったものだろう。周辺地域から断絶されれば、辺境が弱体化すると思われているようだが、奴らの目論見はそう簡単には叶わない。――まぁ、厳冬期が明ける時期はいつもこうだ。奴らも懲りない」
そこで声を上げたのはマティアス騎士団長だ。
「リリー様、大丈夫ですよ」
彼はコルネリア様と私へ力強い視線を送った。
「残雪に赤毛を見たら、即刻退却! なんて、向こうさんは言っているらしいですよ? 兄なら、今回も何事もなく帰還しますよ」
「マティアス」
マティアス騎士団長の軽口に、ノーマン様は彼を諫めるように名を呼んだ。この重苦しい雰囲気を、どうにか和らげようとしたのだろう。マティアス騎士団長らしい、とコルネリア様と目配せをし合った。
すると、ノーマン様は大きく咳払いをひとつ。気を取り直してと、言うように言葉の先を続ける。
「私が不在時、辺境統治の権限はコルネリアに移っていた。もちろん、執事長の補佐ありきだったが……。しかし――」
そこで言葉を切り、アメジストのような瞳で、じっと見つめたのは――私だ。
「今は、君がいる」
信頼の言葉と眼差し。隣に佇む、コルネリア様がそっと私の手を引いた。彼女も、ノーマン様と同じ視線を送っている。
私が答えるべき言葉は、決まっていた。
「――かしこまりました。謹んでお受けいたします」
ノーマン様を見据えて、視線に応える。ぐっ、と唇と手に力が入ったのは必然だった。
さらに彼はふっと、目元を綻ばせながら口を開く。
「君なら、俺の大切なものを……守ってくれると信じている」
「もちろんですわ」
それに力強く返事をした私は、コルネリア様の手を優しく握り返したのだった。




