8話 夜会の礼儀
束の間の談笑を終えた後。私たちの前に足を運んで来たのは、老齢のご夫婦。
ノーマン様は彼らを見るなり、目を細めて私の方を見やった。――ノーマン様はお優しい。けれど、誰にでもその鋭い眼光を緩める訳ではない。それだけで、彼らとノーマン様の関係性が窺える。
「リリー、紹介しよう。こちら、アドラー伯爵」
「ご紹介に預かりました、ウェスリー・アドラーにございます。こちらは妻です」
そう言って、彼らと挨拶を交わす。すると、ノーマン様は小さく溜め息をつき、そっと呟いた。
「……堅苦しい挨拶はこのくらいで、いいだろう」
「そうはいかない。ノーマン様、見られているよ?」
「はぁ……、コルネリアが聡明なのはあなたのお陰だ」
「ほっほっほ、褒めても何も出ないよ。ところで――、ダンスを終えた後のコルネリア様とリリー様の抱擁は絵になっていたよ」
老齢紳士らしく笑い声を上げたアドラー伯爵。夜会に参加した周辺貴族の中でも、アドラー伯爵はノーマン様の信頼を得ているようだ。こうして、軽く言葉を交わす間柄なのだろう。彼の言葉に、コルネリア様は得意げな笑みを浮かべている。
彼らとの談話は夜会の裏に潜む、駆け引きや社交会の厳しさを暗喩しているかのようで――。遠くで囁き合う貴族たちの視線が、私の背に突き刺さるようだ。そっと、胸の内に呟く。
(身が引き締まる思いだわ……)
すると、アドラー伯爵夫人が口を開く。彼女は包容力に満ちた笑みを浮かべて、優しく私の手を握った。
「困ったことがあれば、いつでも仰って。ここは王都と違って、艶やかな蝶が多いから」
「えぇ、感謝致します。アドラー伯爵夫人」
アドラー伯爵夫妻の温かな笑顔に、胸の内でほっと息をついた。
レースの手袋をしている、私の手。それでも、夫人の温かな手が手袋の上からその温かさを分けてくれた。私にとって、辺境の地での初めての夜会。彼らの存在が心強いものに思えた。
そうして、私たちはアドラー伯爵夫婦との挨拶を終え、二人の背を見送る。ノーマン様はじっと、その背を見守っていた。
「彼らはコルネリアを孫のように思ってくれている。昔、私も教示を受けていた」
「そうなのですね」
「ああ、絶対的な味方だ。戦で早くに父を失った私を、辺境伯として育て上げてくれた御仁だ」
ノーマン様の力強い言葉。その言葉に背中を押され、私はコルネリア様の手をそっと握った。
この夜会は私たちの絆を示す、第一歩になる。――そんな決意が、胸の奥で静かに芽生えていた。
◇
夜会は続く。貴族たちの囁き声は次第に大きくなり、談笑へと変わる。
もちろん、私たちに好意的な目もあれば、そうでない視線もあり――。そっと耳を澄ませば、聞こえてくるのは周辺貴族たちの会話。
「それにしても。女神ルクレリティアの儀式の慣例を覆すとは――」
「些か、やり過ぎでは? 彼女は後妻という立場を理解していないようだ」
その言葉はノーマン様の耳にも届いていたようで――。 ノーマン様の鋭い眼光が射抜けば、彼らはそそくさと場所を移した。
(やはり、来ましたね。この手の攻撃――)
じっと彼らの顔を注視していた私の元に、ノーマン様がそっと寄り添う。不意に鼻を掠めた、彼の香り。雨上がりのように澄んだ香りが、私の心を晴れやかにする。
ノーマン様は身を屈め、私に擦り寄るようなかたちで身を寄せた。
「リリー、気にする必要はない。私がそう望んだ。剣に生きる者同士の誓いだ」
「ふふっ、もちろんです。寧ろ、彼らのような態度の方が、分かりやすくて助かりますわ」
彼の言葉にこともなげに返す。しかし、私の胸中は荒れていた。
(お顔が近い! 落ち着いて、深呼吸して……。いけない、かえってノーマン様のいい香りが――)
これは私たちの親密さを見せつけるためでもある。そう、理解しているものの――。恋心を自覚した私には刺激が強すぎた。
すると、ノーマン様はそっと体を離す。名残惜しそうな表情に見えたのは勘違いではない。――そう思いたい。
彼は会場を見渡すと、重く口を開いた。
「すまない、リリー。少し席を外す。コルネリア」
そう告げたノーマン様の目は、遠くで囁き合う貴族たちに向けられていた。その瞳はまるで、夜会の裏で動く策略を見透かすかのようで――。
「はい、お父さま」
名を呼ばれたコルネリア様は彼の言葉の意味を理解したようで、私の手をしっかりと握る。ノーマン様は周辺貴族との談話に向かうため、その場を後にする。彼の背中は、辺境伯としての威厳が宿っていた。
ノーマン様が立ち去った後。まるで見計らっていたかのように、ご婦人や令嬢たちの好奇の視線が注がれる。
私は一瞬、息を呑む。けれど、コルネリア様の手の温もりが、私に勇気をくれた。
そこへ、鈴の鳴るような声が掛けられる。
「ご挨拶申し上げますわ」
「ご機嫌よう」
立場を無視したご挨拶。私たちに敵意を抱いていると、非常に分かりやすい。恐らく、彼女の取り巻きであろうご婦人や令嬢もちらほら見受けられた。
すると、彼女は会話を楽しむ必要はないと言わんばかりに、矢継ぎ早に言葉を続けた。
「王都を守護するリベルテ家のご令嬢とは……。辺境伯を取り込み、王政に反旗を翻そうと捉えられても致し方ないのでは?」
包み隠す必要もないと直接的な言葉。思わず、笑ってしまいそうになるのを堪えているのは、私だけではないよう。コルネリア様も、少しだけ肩を震わせていた。
軽く首を傾げながら、私は口を開く。
「あら、それはあり得ませんわ」
「なぜ、そう仰って?」
私の確信に満ちた言葉と視線に、ご婦人は疑問を抱いたようだ。華麗な扇で口元を隠しながらも、滲み出る嫌悪感は隠せていない。彼女の態度に着目しつつ、言葉の先を続ける。
「寧ろ、王都との結びつきを強固に。隣国の脅威が迫れば、すぐさま辺境に手を差し伸べる――。そういった意味合いが大きいのです」
「あら、そうでしたの……?」
「ええ。ケディック辺境伯は歴戦の騎士でもあります。彼の手腕を賜りたいのは、寧ろ王都の方ですわ。あらぬ、誤解をされているようで――」
「そ、そう……。おほほほ……」
ご婦人は毒気を抜かれたように、しおらしく笑みを溢した。まさか、辺境の社交界では新参者であり、後妻という立場の私にここまで言い返されるとは思っていなかったのだろう。
――気弱な令嬢だと、侮られてはいけませんから。最初が肝心。
(ちょっと、やり過ぎたかしら……)
そそくさと、その場を後にしたご婦人と彼女の取り巻きの背を見送りながら、心の内に呟いた。
すると、繋いでいた手がくんと引かれる。視線をやれば、笑みを浮かべたコルネリア様。彼女は私を見上げながら、無邪気に語る。
「お母さま! 『歴戦の騎士』、とても良い言葉ですね。お父さまにぴったり」
「えぇ、ありがとう」
「それに、とてもお上手です。何が、とは言えませんが」
「ふふっ、コルネリア様を見習ってみました」
辺境の地における、初めての社交。コルネリア様からの言葉に、私は胸を撫で下ろす。
慎ましやかに流れていた音楽が徐々に高まり、次の局面が迫っていることを告げていた。




