抱卵の旋風
実家に帰ってあっという間に一週間が過ぎた。主人からは何の連絡もなかった。おそらくこのままやりっ放しにするつもりだろう。いつものように私からの連絡を待っている主人の実家も許せなかった。私の中では、結婚生活などもうどうでもよくなっていた。
週末、午後、母からもらったデパートの商品券で買い物を済ませたわたしは、摩耶の手を引いて、赤や緑、それに黄色の鮮やかなブロックが敷き詰められた駅前の中央通を、義人が勤めていた警備会社のある方向へ歩いていた。
「ママ、どこ行くの。こっちじゃないよ」
摩耶は立ち止まり、わたしを見つめながら手を強く握った。
「ちょっとね」
思い出に導かれている今の心境を娘に話すのは難しすぎる。
「ちょっとって、どこなの。摩耶、わからないの。ねえ、ママ」
「おじさんのところ」
「おじさんって」
「ママのお友だち」
「そうか、ママのお友だちか」
納得したのか、どうなのかわからなかったが、娘は文句をいわずまた歩き出していた。駅前の中央通交差点に面したビルの六階フロアに義人たちが勤めていた『αプラス警備保障』があった。
「ねえ、義人、もう少しましな仕事があるのじゃないの」
義人が警備会社に内定した時、わたしはその就職に難癖をつけた。
「それはどういう意味だ。仕事にまるでランクがあるようないい方だな。いったい誰に教わったんだ。そんな考えをもっているのだったら、俺と一緒にいても君は幸せにはなれないよ」
義人は冷めた表情で言った。
義人と一緒に彼の母方の伯父にあたる大山社長の酒席に呼ばれ、社長からそのビジョンを聞かされるまで、わたしは義人の就職に疑問を抱いていた。おそらく義人の才能を活かせる仕事は他にもたくさんあるはずだった。
大山社長は当時シルバー産業と呼ばれ、まるで人生最後の仕事のように蔑まれていた警備業を、夢とロマンをコンセプトにしたまったく新しい感覚をもった事業へと改革することに意欲を燃やしていた。それゆえ警備員の募集活動も、今までの経験者や高齢者重視の政策を方向転換し、新卒者や他企業からの若い転職者を積極的に採用した。義人やめぐみもその一期生として採用された。次々と入社してくる若く知的レベルの高い新人たちを見て、わたしの杞憂は吹き飛んでいた。
信号が「とうりゃんせ」を奏でている。わたしは娘をせかすようにして一目散に交差点を横断した。
『K第三ビル』
わたしは周囲を見渡すようにしながら自動扉の前に立った。正面のエレベーターの前に立ち、案内板を見つめて愕然とした。
「エッ、うそ、無い?」
八階までのフロアすべてがコンピューター会社一色に塗りつぶされていた。
「なにがないの。ママのお友だちがないの」
「シッ!」
少しムキになったわたしの言葉に驚いて、娘は目を丸くした。
わたしはエレベーターの横にある守衛室の小さな窓を開け、読書に耽っている管理人に声をかけた。
「すみません、たしかこちらの六階に警備会社があったと思うんですが」
「ああ、あの会社ならもうずいぶん前に移転したなぁ」
角刈りで胡麻塩頭をした七十過ぎくらいのおじさんが、老眼鏡を下げ、上目づかいでわたしを見ながら言った。
「どこへ変わったかご存じないですか」
「ああ、駅裏じゃ。駅裏の角打ち(立ち飲み屋)がずっと並んだ、そうそう、ハッピーパチンコから入ると踏切があるじゃろ。その踏切の近くじゃと、たしか……違ったかのぉ。まあ、あのあたりに行ってみればわかろうよ」
管理人のおじさんはそういうとニヤリと笑った。きっと入れ歯に違いない歯並びの良い前歯はタバコのヤニで黄ばんでいた。
「ママ、お友だちいないの。帰ろうよ、摩耶おなかがすいたもん。あっ、クマさん買って」
目ざとく缶コーヒーの自動販売機を見つけた娘が、キャラクターが印刷されたジュースを指差した。
「はいはい」
わたしは、管理人から教えられた場所まで娘の手を引いて行く気にはなれなかった。
家に戻ると母が夕飯の支度をしていた。玄関を開けた途端、煮物を炊く醤油の焼けた甘い香りがした。
子供の頃、男勝りだったわたしは、公園で日暮れまでわんぱく坊主たちとよく遊んだ。帰り道、家々からは夕食の香りがいっぱい漂っていた。あの時と同じ香りがする。母の背中越しに聞こえるまな板の音も変わらなかった。
「はい、いただきましょう」
母は摩耶が普段は口にしたことのない山菜の煮物や焼き魚を私が家から持ってきていたアニメの絵皿に盛った。
摩耶は「おいちい、おいちい」といいながら初めての料理を食べていた。食べさせもせず勝手に子どもの好き嫌いを作っているのはわたしなのかもしれない。
「でもね、摩耶ね、ママのハンバーグが一番好き」
沢庵をかじると瞼が熱くなった。
翌日、遅い朝食を済ませた後、わたしは台所で洗い物をしながら、テレビを見ている母に「摩耶と散歩に行ってきます」と声をかけた。
「いちいち私にことわらなくていいわよ。お好きにどうぞいってらっしゃい」
「ちょっと気分転換」というのは思いつきの口実で、実際のところは義人が勤める警備会社の新しい事務所を探すためだった。
わたしは摩耶を自転車のハンドルの手前についた荷台に乗せると家を出た。相変わらず錆び付いたチェーンがギシギシと音を立てていた。
一心不乱にペダルを漕いでいると思い出の大橋が見えてきた。刺すような冷たい風が容赦なく二人の顔を襲った。摩耶は、ほっぺを真っ赤にしながら口を結んでなにもいわなかった。
あの日、婚約を報告するためにわたしは義人に会いにこの大川の河川敷へ来た。義人は橋の下の小壇の中腹で、手弁当を膝の上に広げ、左手には分厚い赤表紙の本を持ち、箸を巧みに口に運びながら、読書に没頭していた。
「久しぶりだな、美津子、痩せたか」
義人が食べかけの弁当を閉じて言った。
「わかるの」
「なんとなく」
「なんとなくね」
「婚約したんだろ」
「知ってたの」
「もちろん。どうだ準備のほうは」
「退屈なほど平穏。創造も何もなく毎日が大量消費に大量投棄。これでもかっ、て感じ」
「全然、普通じゃないか。この地球を使い捨てにするまで続けりゃいいさ。美津子が気にすることはない。そんなことをためらっているようじゃ、現代における幸福の定義にはたどりつけないぞ」
「物書きはこれだから嫌ね。冷めた人」
わたしは右の耳たぶを二度引っ張った。
「癖、変わってないな。そうやって、耳たぶを引っ張る。喧嘩したときもそうだった。今の心境を正直に白状してみろよ」
婚約を決めてから主人とこんなに会話が進むことはなかった。窮屈なのではなく、退屈なのだ。
「そうね、ひょっとしてだめかもしれない。正直、疲れているの」
「それはしかたのないことだな。美津子が選んだ道だ。婚約した頃には一度は不安からそういう時期があるって本に書いていた」
「他人事……なのね」
「そりゃそうだ。いまさら俺がどうしてやれるわけじゃないだろ」
「そうね、どうにもならないわよね。わたしの話はもういいの。それよりすこしぐらいいい本が書けたの」
「まだ、まだだ」
「これからもずっと書き続けるつもり」
「当たり前じゃないか。それがなかったら生きていてもしようがない」
そう言い切る義人が羨ましかった。
わたしは橋の手前を右折し駅前通りに抜ける川沿いのサイクリングロードを走りぬけた。
新しい事務所は、新築ビルのフロアから駅裏の線路脇にある空き地の中古のプレハブハウスに変わっていた。あまりの変容に胸を針で刺されるような痛みを感じた。
「みっちゃんか、久しいな。こちらのお譲ちゃんは」
里帰りしてから何度聞いたかわからない言葉を、事務所番をしている石田さんが真っ白になった髪の毛を撫でながら言った。
「ばばまや、さんさい」
摩耶は真剣な表情でいつものように挨拶をした。
「かわいい子だね。それにしても久しいなぁ」
石田さんはもう還暦を過ぎたのだろうか、あの頃に比べると以前にも増して黒い顔に深い皺が刻み込まれている。
「大山社長、亡くなったそうですね」
「そうなんだ。オヤジ(社長)が死んで、下のお嬢さんが跡を継いだんだけど、くだらん役員連中が勝って気ままに仕事を広げてしまって、一年経つまもなく会社が傾いてしまった。本来責任を取るべき連中が今度は会社が資金繰りに息詰まった途端、ベテランの警備員を引き抜いて辞めていった。当時は五十人近く雇っていた警備員も今じゃ十人足らず。オヤジの理想が高すぎたのかもしれんが、それよりこれだけ不景気だものなぁ。でも宮部は今でもがんばってくれているよ。あれを見てごらん」
石田さんはホワイトボードの警備員配置表を指差した。現場数は三つ、名札が掛かっているのは二名、二名、一名で合計五名だけである。待機社員も六人足らずで、その中に石田さんと社長のお嬢さんの名前もある。
「少なくなったのですね」
「以前は俺も借り出されるくらい忙しかったけど。今じゃ、電話番もいらないくらいだ」
義人のアパートの近くに住んでいた石田さんとは仕事以外でも交遊があり、義人の創作活動にも理解を示してくれていた。今から考えると、ずいぶんと家から近く長期で安定した現場に義人を配置してくれていたのだと思う。義人も石田さんとは気が合い、仕事の連携は申し分ないといつも言っていた。
「宮部とは会ってないの」
「ええ」
「社長が逝っちゃった時は宮部もかなり沈んでいたよ。会社がここに移るとき、あいつもきっと辞めると思っていたんだけど残ってくれた。いい男だ、あいつだけは」
そういって石田さんはゆっくりとうなずいた。
「今日はSテクノの現場で、大川のSR大橋の改修工事、片側通行の誘導にいってるよ」
「あそこまだ工事中なんですか」
「違う、違う。あの頃、拡張工事をしたそれの改修だよ。みっちゃんも知ってのとおり、ここから数分のところだ、久しぶりに会ってきなよ」
石田さんは何かを思い出したように手を叩くと机の上の無線機を手に取った。
「本部よりSR大橋の宮部警備員、応答願います。宮部警備員、どうぞ」
『ザッ、ツザー』という雑音ばかりが断続的に流れて応答はない。
「本部より宮部警備員、どうぞ!」
石田さんは先ほどより声のトーンを高くした。
「はい、こちら、SR大橋、宮部です、本部どうぞ」
無線から懐かしい義人の声が聞こえてきた。あの頃とほとんど変わらない高く澄んだ声だ。
「こちら本部。お疲れ様。現場の状況はどうですか」
「片側舗装完了、只今より重機関係を移動し、車線変更してのちに交代で昼食をとります。どうぞ」
「ランチタイムはどこでしますか。どうぞ」
「いつもの橋の下です。どうぞ」
「今からめずらしいお客さまがそちらに向かいます。どうぞ」
「めずらしい、誰ですか」
「それはお楽しみに、どうぞ」
「楽しみに待ちます。どうぞ」
「ご安全に」
「了解」
無線の交信を終えると石田さんは椅子を回転させてわたしの方へ向き直り、目じりを下げて笑った。
「元気そうですね」
久しぶりに義人の声を聞いて年甲斐もなく胸が高鳴った。
しばらくして石田さんが真顔になった。
「みっちゃん。宮部に会って驚いたらいけないので話しておくけど、あいつ去年の暮れに大ケガをしてなぁ」
「!」
「制止を振り切って現場内に進入した自転車の女学生を止めようとして旋回する重機に跳ね飛ばされてしまったんだ。命には別状なかったんだが、右手の肘から先を切断する重症だった。現場に駆けつけた俺の髪は一瞬でこのとおり。それでもあいつは現場が好きだといって義手をはめて今も仕事についている」
「……」
言葉がなかった。
「小説を書き続けるために、あいつ今、左手だけでキーボードを打つ練習をしているよ」
わたしはただうなずいていた。
「手術が終わって義人がこういったよ。『見える昨日や楽しい思い出の中にいると確かに心が安らぐけど、そこに夢や希望はない。一寸先は闇かもしれないけれど、見えない明日にこそ夢があると僕は思います』とね」
浮かれ気分で青春散歩していたわたしは、あまりの驚きで身体の震えがとまらなかった。摩耶にお菓子をくれた石田さんに礼をいって別れた。摩耶は事務所を出るあいだ一言も話さなかった。
わたしは再び自転車に乗ると、線路沿いに大川へ向かって走った。義人との再会を拒むように風は大きな壁となってわたしを押し戻そうとする。風が風の中をうねりながら激しくわたしと摩耶にぶつかり散っていく。橋に近づくに連れ、風は一段と強さを増してきた。指先と耳がちぎれるほど痛い。依然、摩耶は何も話さない。
SR大橋は上り方面が工事のために通行禁止となり、下りの片側2車線が対面通行になっていた。比較的車の数は少なく思ったよりスムーズに流れている。重機が片方の道路へせり出し道幅が極端に狭くなっている橋の中央辺りで、女性警備員が徐行しながら離合する自動車を誘導していた。橋上に義人の姿は見えなかった。おそらく義人はいつもの橋の下で読書にふけっているに違いない。
もしかするとあの頃と変わったのは彼らではなく、わたしなのかもしれない。今を否定し、過去にとらわれ続けているこんなに心がみすぼらしくなったわたしが、いまさら義人に会ってもしかたがなかった。それに片腕を失った彼に会う勇気もなかった。再会を夢見てここまでやってきたけれど、あれこれと義人に愚痴を聞かせる自分のことを想像するとみじめでしようがなかった。
わたしは河川敷へ降りずにそのまま橋の上を自転車で走り続けた。再び凄まじい逆風がわたしの前に大きな壁を作っていた。わたしはそれでも全力でペダルを漕いだ。
懸命に今を生き抜いている過去たちとの出会いのお陰で、わたしも明日へ向かって走っていけるような心持になっていた。
わたしは今日から摩耶をこの自転車に乗せて走る。そしてこの子の未来を願い強く抱きしめて生きていく。
橋の中央で車を誘導していた女性警備員が、自転車を止めたわたしに正対すると直立して敬礼した。ヘルメットをかぶり凛々しい姿をした警備員は、現場にカムバックしためぐみだった。
わたしは摩耶を自転車の荷台からおろし、めぐみに向かい胸を張って敬礼した。摩耶も小さな手をあげてわたしを真似た。
さようなら、胸熱くした過去たち、生まれかわってまた会いに来ます。
〈了〉